4
ある雨の日。
しとしとと、雨粒が静かに地面に吸い込まれていく。未明から降り続く雨は、部屋の中にまで雨の匂いを届けていた。
男は朝から机に向き合っていたが、増えるのは丸めた原稿用紙ばかり。
書いても書いても、何か違う、という感じが拭えない。
気持ちを入れて書いているつもりではあるのだけれど、これを人に読ませて何かを伝えたいのか、作品を通して何かを表現したいのかと言われたら、すぐにはうなずけない。
今の自分の文章は、それっぽいことの上澄みをすくっているだけのような気がする。本当に伝えたい核心に向かい合おうとせず、それから逃げ回っている感じ。でも、その核心が何なのか自分でも分からないというような状態。
朝から夕方までこうしてずっと机に張り付いていたが、もうそろそろ体が限界だった。
大きく伸びをして、畳の上に寝そべる。
すると、着物の袖の部分にゴリッと何か硬いものの存在を感じた。探ってみると、大ぶりのきらびやかな装飾品が出てきた。
彼はすぐに思い出した。
「しまった。渡し忘れていた……」
これは椿月のイヤリングの飾りだ。先日二人で劇場周りを歩いていた時に、金具が外れて落ちてしまったものを、ポケットも鞄もなかった椿月の代わりに預かっていたのだ。
別れる前に渡すつもりだったのだが、色々あってすっかり忘れてしまっていた。
キラキラしたそれは、もしかしたら替えのきかないものなのかもしれない。確か、普通イヤリングは左右で同じものをつけるはずだ。
そう考えた男は、すぐに思い立って草履をつっかけ、傘を手に取った。
今日彼女が劇場にいるかは分からないが、彼女に直接渡せなくとも劇場の関係者に預けるでもいいし、なるべく早く返そう。
朝からから降り続く雨で夕日はその姿を見せず、空に敷き詰められた暗い雨雲がそのまま黒い闇になって、夜に溶けようとしていた。
街灯のともりはじめた町中を足早に抜け、劇場へ。正門前は、雨にもかかわらず夜公演を見に来た観客らでにぎわっていた。
いつもは混雑を避け平日の昼公演に来ることが多いので、久々に見る夜公演前の盛り上がりに圧倒される。建物自体にも無数の灯りがともされ、外壁のレンガの色を反射して橙色の幻想的な雰囲気に包まれていた。
男は人ごみを縫い、建物の中へ。人々が傘をさしていない分、屋内はいくらか混雑が解消されている。赤じゅうたんを踏み、大きなガラス製のシャンデリアが吊るされた天井の高いロビーへ向かう。このまま正面に進めばホールだが、右に曲がって劇場関係者用の領域へ。
流石に、上演前に部外者が楽屋に入るなんて邪魔以外の何物でもないだろう。楽屋のある通路には踏み入らず、その少し前辺りを歩いた。誰かイヤリングを彼女に渡してくれそうな適当な人物はいないかと見回していると、遠くに見覚えのある人影を認めた。
大きな体に、頭はライオンのたてがみを彷彿とさせるようなシルエット。
この劇場の館長だ。
声をかけるには少し距離があり、周りも騒がしい。彼は歩いていく館長の背を追った。
忙しそうにすれ違う人々にたびたび阻まれながら進んでいくが、館長の行く先は慌しく舞台の準備をしている楽屋方面とは打って変わって、寂しいまでに静かだった。
この劇場は広く入り組んでおり、館長が道を曲がった際、その姿を見失ってしまう。
どこに行ったかと辺りを見回していると、館長の声が聞こえてきた。誰かと会話しているのだろう。
声はすぐ近くの階段の裏辺りから聞こえ、「館長」と声をかけようとして、彼は自分の口をつぐんだ。
「また届いていました……。どうしましょう」
わずかな記憶をたどり奇跡的に分かった。この困ったような声の主は、この間椿月と劇場を散歩した日に声をかけてきた手伝いの娘だ。深刻そうに椿月に何かを伝えようとして、彼女に制止されていた。
「ううむ……。この事は、椿月には言ったのかい?」
これは館長の声だ。二人は椿月の話をしているのだろうか。
立ち聞きなどいけないとは分かっているのだが、男はついその場で息をひそめてしまう。
「あ、お話してしまったんですけど……」
「これ以上椿月が不安がるといけないから、これからは私だけに言うようにしておくれ」
「はい。分かりました……」
やはり、椿月の周辺では何かが起きているのだ。先日から、椿月の行動には引っかかる点があった。一つ一つはさほど大したことではなかったのだが、それが積み重なってくると流石に違和感が生じてくる。
はじめは、喫茶店で神矢が椿月に耳打ちしていたこと。「あの件は大丈夫なのか?」と。あの時もヒソヒソやりとりをしていて、椿月もその話題を出してほしくない様子だった。
そして、この間椿月と会った時も。やたらキョロキョロと周りを気にしていた。劇場裏手を散歩したときは、「誰かこちらを見ている人がいる気がする」とえらく警戒していた。その後彼の前で、この手伝いの娘の発言を不自然にさえぎった。
彼女は自分に何かを隠している気がする。彼女と話がしたい。
そう思った男は、館長たちと鉢合わせしないよう足音を殺してその場を離れた。
ロビーに戻って本日の演目と出演者を調べると、夜公演には椿月が出るようだ。ということは、今くらいの時間だとちょうど旧劇場で一人で準備しているところだろう。
椿月はその正体を劇場の関係者たちにさえ秘密にしており、いつも旧劇場の一室でこっそり身支度を整えてから、劇場に入る。
男はまた人でごった返す正面口を抜け、劇場の裏手に回った。ほとんど物置代わりとなっている旧劇場には最低限の質素な明かりだけが点っていて、劇場の光のきらびやかさとは比べようもない。
前に来た時と同じく、というより、夜であるしあんな事件もあった後なので、ますます寂れているように感じられた。
ここは特に鍵はかかっていないので、そのまま正面の扉を押し開けて中に入る。入り口から三方向に広がる廊下は光が不足しており、先の方は闇に落ち、見通せない。
物置としてはこの程度の明かりで十分なのだろうが、椿月がこんな暗い夜もここに通っていると思うと、彼としては少し心配になった。
この間の事件の時に聞いた、彼女が支度に使っているという部屋に足を進める。
今の劇場と同じくらいかそれ以上に入り組んだ作りである旧劇場は、やたら曲がり角が多い。建てられた当時、こういう建築様式が流行っていたのだろうか。
床も今の劇場と同じくぶ厚い赤じゅうたんが敷き詰められていて、足音はほとんど吸収される。
だからか彼は、角の向こう側から早足でやってくる人物に、直前まで気づくことができなかった。それは向こうも同じだったようで、出会い頭に激しくぶつかってしまう。
「キャアアアアアッ!」
それは、ただぶつかっただけにしてはひどく不自然な、あまりに激しい悲鳴だった。
悲鳴の主、ここの一室で身支度を終えて出てきたのであろう椿月は、頭を抱え込むように身を縮こまらせていた。体がブルブルと小刻みに震えている。
「す、すみません! 椿月さん、僕です!」
ぶつかったことよりも尋常でない悲鳴に驚いた男だったが、すぐに、気が動転している椿月の細い両肩をつかんだ。
彼の声を耳にして、椿月が顔をあげる。薄暗い中でも分かるくらい、顔が青ざめていた。
「あ、ああ……良かった……。びっくりした……」
ぽつぽつとしか言葉がつむげない彼女は、どこか放心した様子で、バクバクと早鐘を打っているのであろう胸を押さえていた。
どう見ても、おかしい。
彼女が落ち着くまで黙って見守っていたが、彼女が平静さを取り戻したのを感じると、男は改めて尋ねた。
「椿月さん。どうかしたんですか?」
彼女が女優としての演技の切り替えをする音が、男には聞こえたような気がした。
「ん? 違うのよ、普段ここには人なんてめったに来ないから、人がいてびっくりしちゃって。ごめんなさい、驚かせちゃって」
完璧な笑顔で完璧な台詞をつむぐ彼女。
口には出さないが、男は思う。先程の動転からの切り替わり方が完璧すぎて、逆に不自然ですよ、と。
ふるまいの継ぎ目が丸見え、とでも言えるだろうか。
それに、あのとてもただぶつかっただけとは思えない驚き方をしておいて、なんでもないわけがないのに。
それでも自分に何かを隠し通そうとする椿月を、男は目を逸らさずじっと見つめた。こういう駆け引きみたいなことで、彼女に勝てるわけはないのだけれど、それでも。
「……心配しないで。あなたが気にするようなことなんて何もないのよ」
椿月は彼を安心させるようにほほえむ。でも、彼女はいつものように彼の目をまっすぐ見てはいなかった。
心配しないで、とそう言われてしまうともうどうしようもないのだけれど、彼は通せんぼするかのようにその場所を動かない。
「そろそろ上演時間だから、行かないと……」
うつむきがちに目を逸らして逃げようとする彼女に、彼は言った。
「でしたら今夜、公演が終わるのを外で待っています」
「え……」
椿月が顔を上げる。
「ご迷惑でなければ、ご自宅まで送りますから。道すがらでいいので、話をする時間をください」
二人は見つめあう。
こんなにはっきり物を言う、強く何かを要求する彼を、椿月は初めて見たかもしれない。
短くも長い時間が流れ、彼の真剣な眼差しに根負けして、椿月はそっと表情をゆるめた。
「うん……分かった」
何かを覚悟したように、自然なほほえみをたたえる。自分の抱えていたすべてをようやく白状する、そんな解放感を感じさせる瞳だった。
夜公演の終わり。
雨にもかかわらず大変な盛況ぶりで、すべての観客が退館するまでに結構な時間がかかった。
客が一人もいなくなると、すぐにシャンデリアや建物の周りを照らす明かりなどが落とされ、一瞬にして寂れた空気が一帯を支配する。劇場内も旧劇場と変わらないくらいの暗さになる。
男は、劇場の敷地を囲う塀に作られた門から少し離れた場所にいた。降り続く雨と夜の冷え込みで肌寒い。流石にこんな日は役者たちのファンの出待ちもいない。
男の立つ場所からだと、わずかな明かりだけがともった正面口と、人気のない裏口、その両方からぱらぱらと帰路につく役者や舞台関係者たちの姿が見えた。
椿月に「外で待っている」と伝えたが、彼女が正面口と裏口のどちらから出てくるのか聞いていなかった。だから、どちらからも少し距離は遠いが、両方の口を見通せる場所にいたかったのだ。
次第に出て行く者たちの姿も少なくなったが、様々な稽古や後片付けなどもあり、若手の役者が帰るのはほとんど最後の方だ。
男は傘を握る手に降りやまない雨の勢いを感じながら、すっかり人気のなくなった通りをじっと眺めていた。
先ほどは、少々強引すぎてしまった気がする。とても自分の取る行動とは思えないことで、彼も自分自身に驚いていた。
それでも、彼女が何かに追い詰められているような様子を見たら、多少強引にでも踏み込まずにはいられなかった。自分が気になっていた神矢とどうこうの話は、あれだけ訊くことができなかったというのに。
そんなことを考えているうちに大分時間が経ったのか、裏口の方から椿月が現れた。女優の時の彼女など微塵も想像させない普段の袴姿で、下ろした長い髪にはいつものリボンがかわいらしく結われている。女物の小ぶりで細身の傘を手にしていた。
頼りない小さな電灯一つだけに照らされた裏口の小さな扉から出ると、きょろきょろと辺りを見回す。まだ男が来ていないのだと思ったのか、椿月はそのまま手持ち無沙汰に空を見上げた。
男は彼女の方に歩みを進める。
正面口の前は華やかな大通りに続いているのだが、裏口の正面は道を挟んですぐ雑木林で、夜ともなるとその闇は非常に濃いものになる。そんなところで彼女を一人いつまでも待たせるのも申し訳ない。
そう思った彼が、歩調を速めようとした瞬間。
裏口正面の雑木林の闇から、道をつっきって人影が飛び出してきた。
その影はまっすぐ椿月に向かい、驚く彼女の手首をつかんで自由を奪う。彼女のさしていた傘が空に舞っていく。
か細い「イヤッ」という悲鳴は口をふさがれたことでかき消された。
降り続いた雨でぬかるんだ道に、地面を踏み荒らしながらもみ合う水気を帯びた音が響く。
この不審者は、椿月を力ずくでさらおうとしている。
一瞬何が起こったのか分からなかった男だったが、すぐに緊急事態を理解し、傘を放り投げて駆け出した。
「椿月さん!!」
騒がしい雨音の中でもひときわ響く彼の大声に驚いて、正体不明の襲撃者は一目散に逃げていく。
「待て!」
このまま追いかけて椿月を襲った輩を捕まえるべきか迷ったが、目の前で泥の道の上に倒れこんだ彼女を放置することなどできなかった。
すぐに駆け寄って抱え起こすも、椿月は気を失っていた。いきなりあんな目に遭えば、無理もない。さぞ驚き、怖かっただろう。
彼女の美しい髪と、陶器のような白い肌が、泥に汚されている。
それを見ていると、心の奥底からふつふつと許せない気持ちがこみ上げてくるのを感じた。
「おい、どうした!」
騒ぎを聞きつけ裏口の方から夢中で駆けてくる足音と、知った男の声。
「神矢さん……」
男は駆けつけた神矢を見上げ、腕の中の彼女を示してみせた。
「用事があって、門のところで椿月さんを待っていたのですが……。向かいの雑木林から、不審な人間が」
彼の話を聞くと、神矢は悔しそうに顔をゆがませ、「チクショウ!」と片足で強く地面を打ちつけた。
神矢の様子を見るに、何か事情を知っているのだろう。男はそう思った。
神矢は冷静さを取り戻そうと努め、目を閉じて何度か深呼吸をする。そして、
「とりあえず、館長のところに運ぼう。まずは椿月を休ませて、館長にも報告しないと」
と提案した。
男はうなずく。
膝の裏に腕を通し、彼女の体を自分の胸に寄せ、ひょいと抱えあげる。
華奢な体だ。彼は思った。
こんなに軽くて細い身に、一体何を隠して、抱え込んでいたというのだろう。
男は、悲しいような、寂しいような、悔しいような、複雑な気持ちだった。
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