上演後。老紳士は「話を聞いてくれてありがとう」と満足げに男に礼を言い、早々に席をあとにした。だが彼は、なんだか心が重くてなかなか席を立てなかった。


 しばらくそこでぼうっとしていたが、劇場の清掃員からの視線で、他の観客がすっかりいなくなっていたことに気づき、ふらふらとホールから出て行った。


 いつもならばここから楽屋に向かい、椿月に挨拶をしてから帰る。でも、こんな気持ちのままではなんとなく会うのが億劫で、今日はそのまま帰ろうと建物を出た。


 劇場の敷地は町中にあるとは思えないくらい広い。ホールや楽屋などが入った現在主に使われているこの建物の裏手には、今は物置同然になっている旧劇場もある。


 敷地は赤茶色のレンガ造りの塀に囲まれており、客は正面の背の高い門から出入りをする。


 男がその門をくぐろうとしたところで、後ろのほうから呼び止める声が聞こえた。


「待って、待って!」


 聞き覚えのある声に男が振り返ると、小股で走って追いかけてくる椿月の姿があった。その姿はほぼ舞台での衣装のままで、大ぶりのイヤリングが揺れ、三連になった金の細い腕輪がチリンチリンと音を立てている。


 門の前で足を止めた男に追いつくと、椿月は息を整えながら文句を言った。


「もう、どうして黙って帰っちゃうのよ」


 男は椿月が自分を追いかけてきたことにびっくりした。


「……すみません。僕がいることに気づいてたんですか?」


「気づくに決まってるでしょ。あなたが座るのっていつもあの辺りだし、舞台から客席って、実は結構見えるものなのよ?」


 いつも気づいていたのか。てっきり観客席など暗くて全く分からないと思っていた男は、驚き半分、気恥ずかしくも感じる。


「それにしても、二週連続で見に来てくれるなんて珍しいわね。ビックリしちゃった」


 椿月は口角をきゅっとあげると、彼の腕にひっついた。外国製の香水の甘い花の匂いが、男の鼻腔を刺激する。


 妖艶な舞台女優としての時の椿月は、いつもぐいぐいと寄ってくる。普段の姿の時は、口調はともかく年相応の娘としての慎ましやかさはあり、共に歩いていても袖が触れ合うことさえもほとんどないというのに。


 これも彼女の役者としての精神的な切り替えがさせることなのだろうけれど、誰にでもそうしているとしたら少し問題だと思う。もちろん、自分だけにやっているとしてもそれはそれで問題なのだが。


 そんなことをぐるぐる彼が頭の中で考えていると、不意に、彼女がさりげなく周りをキョロキョロと見回している様子に気づいた。


「……どうかしましたか?」


 椿月は彼の問いに「え?」と彼の顔を見上げると、本当に何でもなさそうに、


「ううん、別に?」


 とほほえんだ。


 何か普段と違う感じがしたのだが、彼女にとって完璧な演技などお手の物。こうなってしまうと、気になってもこれ以上踏み込むことはできなかった。


「ねえ。次の夜の出番まで結構時間があるの。これからちょっとお散歩しない?」


「いいんですか? 抜け出してしまって」


「いいのいいの」


 小悪魔のようないたずらっぽい笑みを口元に浮かべ、目を細める。形の良い赤い唇は、美しい皿型に曲げられていた。






 前にも二人で散歩したことがある、劇場裏手の小川。賑やかな表通りに面した先ほどの正面の門と、建物を挟んで反対側にあるため、人もほとんどおらずとても静かだ。


 二人はそこを川沿いにゆっくりと歩いた。川辺の野草の中には小ぶりな花も見られ、季節の移ろいを静かに暗示するするようだった。


 雲間から覗く昼下がりの優しい太陽が、小川の水面に白い光をちらつかせる。


 ただ、この穏やかな空間の中で、ほぼ舞台衣装のままの椿月の姿は非常にそぐわないものだった。淡い色が占める景色の中で、コントラストのきつい深い紫のドレスと、真っ赤な口紅。まるで夜の世界だけを生きる蝶が、昼の世界に迷い込んでしまったかのように見える。


 そんな彼女が、いつものように彼に尋ねる。


「今日の舞台はどうだった?」


「良かったと思いますよ」


 すぐにそう答える彼に、椿月は両の眉根を寄せる。


「あなた、いつもそればっかり言うわね。ホントに小説家なの?」


 自分には演技を評するような知識もないし、毎回本当に良かったと思ったからそう言っているのだが。男は反論をこうまとめる。


「口下手なだけです。文章は書けます」


 男は着物の袖に両腕を突っ込み、腕を組む。


 椿月は、男からすると何かの罰かと思うほど信じられないくらい高さのある西洋靴を履いているので、彼女が転ばないように速度を合わせて歩調を落とす。


 いつも会う時のように、他愛もないことをいろいろ喋る。


 人と会話を持たせることが苦手な男からすると、椿月は次から次へとよく話すことが尽きないなと思う。でもそれは決して批判的な意味で思っているのではない。自分もこのくらい達者に話すことができたら、と思うのだ。


 普段はもっぱら聴くばかりの彼だが、今日に限っては彼女に訊いておきたいことがあった。


 老紳士からあの噂話を聞いてからというもの、頭の片隅から、というより頭の真ん中から、そのことがどいてくれない。


 さりげなく、そちらの方向に話を持っていこうと努めてみる。


「あの……出ていましたね。この前喫茶店で会った、あの人」


 突然の神矢の話題にきょとんとしつつも、椿月はうなずいてみせる。


「ああ、辰巳? そうよ。彼、主演だから出ずっぱりだったでしょ」


 やはり彼女の口から男の名が出ると、何度聞いても心がザワザワする。


 色々訊きたいことはあるのだが、どう尋ねたら自然なのか。男は思案しながら話す。


「あの人は……その、椿月さんから見て……演技はどうなんですか」


「へ? 演技? あなたがそんなことを訊くなんて珍しいわね。そりゃあ、主役を張れるくらいなんだから、同世代の若手としてはすごいと思うわよー」


 男からの思わぬ質問を不思議に思いながらも、素直に自分の思うことを口にする椿月。


「そうなんですか……」


 つい核心から逃げてしまった。


 男が心の中でため息をこぼしていると、椿月が大きな目をパチパチとまばたきさせながら、顔をのぞき込んでくる。


「なあに? 辰巳に興味がわいた?」


 違います。男は心の中で即答する。


 一度咳払いをしてから、意を決して口を開く。


「あの……神矢さんと、椿月さんは――」


 その時、男越しに小川の向こうの景色を視界に入れていた椿月が、びくっと彼に身を寄せてきた。


 彼の袖先をくいと引っ張って、そちらに注意を促す。


「ねえ。向こうの物陰のところ、誰かこっちを見て立ってない?」


 ひそめた声でそう言う。


 彼女の示す先は、小川を挟んでかなり距離がある。彼は眼鏡をかけているくらいなので、当然目が悪い。何となく人影らしきものがぼんやり見える気もするが、物や草木などの見間違いのようにも感じられる。


「気のせいじゃないですか?」


 男はそう言ったのだが、椿月はやけに気にしている様子で、


「……場所を変えましょう」


 と提案した。


 彼は断る理由もなかったので従うが、質問したかったことは何となくうやむやになってしまった。


 二人で裏口から劇場に戻る。楽屋方面に通じる劇場関係者通路に向かい、人の出入りが激しい廊下を歩いているところで、椿月に声をかける者があった。それは椿月よりも年若そうな手伝いの娘で、恐らくこの劇場で見習いとして働いているのだろう。


「椿月さん。あの、また――」


 深刻そうな表情で何かを伝えようとした娘に、椿月はすっと掌を向け、彼女の言葉を制する。


 娘も、椿月に連れがいることにハッと気づき、口をつぐんだ。ぺこりと頭を下げて、すっと去っていく。


 男はその一連のやりとりに、言い知れぬ不安を抱いた。


「……何かあったんですか?」


 そう訊かれて、椿月は両の口角を上げてみせる。


「大したことじゃないのよ、気にしないで」


 大人びて見える今の彼女に、至極軽そうな感じでそう言い切られると、その先を踏み込むのがためらわれた。


 でも、ここは引けない。


「椿月さん――」


 一歩踏み出し、先を歩く彼女の細い手首を取ろうとした。


 が、その手は虚空を掻く。


 もう一つの彼女を呼ぶ声に、椿月が身をひるがえしたからだ。


「椿月~」


 通路の奥側からこちらに向かって、手を振りながら歩いてくる人物。


 遠目からでも分かる。男にとって今一番会いたくない相手である、神矢だった。


 神矢は椿月ばかりを見ていたのか、男の存在に気づいたのはかなり近づいてからだった。


「おぉ? あんた、こんなところまで入り込んでるのか?」


 驚いたようにそう口にする。


 “入り込んでいる”だなんて何という言い草だ、と彼は思ったが、同時に、ただのファンだと思われているのなら仕方のないことだとも思った。


 それに、もし噂通り二人が恋仲であるのなら、邪魔な男性ファンだと思っていることだろう。


 神矢の言い様に、椿月は男の腕にピタリとくっついて抗議する。


「いいでしょう。私が好きでそばに呼んでるんだから」


 そう言い切られてしまうと神矢も、納得いかずとも不機嫌に口を閉じるしかない。


 神矢は男を凝視してから、


「んで、見たか? 俺の舞台」


 と、得意げにそう訊いた。


 男がうなずくと、「どうだった?」と自慢げに質問を重ねてくる。肯定の言葉しか返ってこないと確信しているような声色だ。


 そのあまりの自信家な様子に、男は思わずこう口にする。


「僕は演技などについては良く分かりません。……ただ、隣に座っていた老紳士が、あなたの演技を酷評していました」


 人の言葉を借りて、つい意地悪なことを言ってしまう。自分にこんな一面があったとは、男としても自分に驚くばかりである。


「ああ……あのおっさんか……。もう引退した先輩たちが現役の頃からずっと、よくこの劇場に見に来てるらしいからな。とにかく評価が厳しいらしいんだよな……」


 神矢はどうやらその老紳士がよく見に来ていることを知っているらしく、先ほどの自慢げな表情から一変して、苦虫を噛み潰したような顔になる。


 すると椿月は明るくこう言った。


「あら。酷評でも何でも、ちゃんと見てくれてるってことは目をかけてくれているのよ」


 同じ役者としてらしい助言だった。


 そんな彼女の言葉に、神矢は大げさに感極まってみせる。


「椿月はいいこと言うなぁ~。ま、将来有望なこの俺だしな」


 途端に自信を取り戻したのか、どや顔でそんなことを言ってのける。


 対して椿月は、自分の言っていることが全然伝わっていない、と小さな唇をとがらせた。


「もう。だから天狗にならないで、っていう意味なのに」


「まあまあ。今度椿月の好きなビーフシチューの専門店に連れてってやるからさ」


「はいはい。時間ができたらね」


 神矢の誘いをあしらうように、彼女は手をひらひらとはためかせる。


 椿月と神矢がやりとりしている間、男はというと。結果として二人の食事の約束の手助けしてしまったことにショックを受けつつ、椿月が好きらしいビーフチューなど自分は一度も食べたことがないな、と考えていた。


 その時、神矢が「あっ」と何かを思い出したようだ。


「つーか、さっき館長が椿月のこと探してたぞ」


「まあ。それを先に言ってよ」


 男に「ごめんね、少し待ってて」と伝えると、椿月は一人館長室の方へ向かっていった。


 言われた通り、彼はこの場で待っているつもりだったのだが。なぜかいつまでも神矢がこの場を離れない。二人になると喋る人間がいないくなり、沈黙がとても気まずい。


 椿月が向かった方向をいつまでも見ていた神矢に、男は勇気を出して話しかけた。


「あの、神矢さん」


 振り返る神矢。視線がかち合う。


 男は今度こそ意を決す。


「失礼ですが……、あなたと椿月さんは、どういう関係なんですか?」


 彼の言葉に、神矢は片眉を吊り上げる。


「それはこっちが訊きたいね。あんたは一体何者なんだ?」


「……どういう意味ですか?」


 彼は本当に神矢の質問の意図が分からなくて尋ね返したのだが、神矢はじっと目を見つめてくる。まるで彼の本性を探ろうとするかのように。


 いつもの薄笑いが消えた神矢の真剣な顔は迫力がある。それでも男の目は、風のない水面のように揺らがない。視線を逸らすことなく見つめ返す。後ろめたいことなど何もないし、なんとなく、ここで引くわけにはいかない気がしたから。


 その様子はまるで、見えないつばぜり合いをしているかのようだった。


 どのくらいそうしていただろう。ふっと神矢は視線を外し、何事も無かったかのようにきびすを返して去っていった。


 一体何だったのだろうか。神矢に尋ねられた言葉の意味がよく分からないまま、男は離れて行く神矢の背を見送った。






 しばらくすると椿月が戻ってきた。


 それから、劇場内にある、出演者や裏方などの劇場関係者のために設けられている食堂で軽くお茶をした。


 二人はいつものように取り留めなく話をした。そして時間は過ぎ、夜の公演が近づいていた。


 椿月は彼を劇場の正面口近くまで送ると、


「じゃあ、私はそろそろ夜公演の準備があるから。付き合ってくれてありがとう」


 と、優雅な笑顔で礼を言った。


 いえ、と軽く頭をさげ、見送られるまま出て行こうとした男が、足を止める。


 振り返って、彼女の瞳を見つめた。


「あの、椿月さん」


 小首をかしげる彼女に、言いたいこと、訊きたいことがたくさんあるはず。


 同期として以外に、神矢さんとはどういう関係なんですか。


 二人はお付き合いしているんですか。


 いつも夜は一緒に帰っているんですか。


 今度、神矢さんと二人で食事に行くんですか。


 見つめる先の、彼女の黒々としたまつげがぱさぱさと動く。


 そして。


「……夜の公演も、頑張ってください」


 彼の言葉に、椿月はまた美しく笑む。


「うん、ありがとう」


 結局彼は何も訊くことができなかった。自分の意気地の無さに呆れるばかりである。


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