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最後に二人で会った日から数日経った、夜。
男は真っ白な原稿用紙に向かって、もう何度目か知れないため息を吐いた。
書けない。
頭の中がゴチャゴチャしていて、まとまらないのだ。
小説の内容のことだけであれやこれや思考がまとまらないのならまだいい。それなら時間をかけて考えてちゃんと整理すれば、いつか正解の道は見つかるはずだから。
今集中力を乱しているのは、椿月のこと。より正確に言うと、椿月と神矢のことだった。考えたくはないはずなのだが、気づくと自然と思考の一番上に浮かび上がってきてしまう。
もしかしたら今夜、あの日話していたように二人で食事に行ったりするのだろうか。
同じ劇場で毎日顔を合わせている上に、同期で、互いに名を呼びつけにする仲。しかも椿月の本当の姿までも知っているのである。その特別感は流石にこたえる。
男女の関係、恋愛というものはややこしい。こういうものに、いわゆる常道などはないと聞く。本の中の話ならともかく、実際の女性の心の機微は、正直全然分からない。
そもそも、なぜ自分は彼女に惹かれているのだろうか。いつから? どうして? どこに? 明確な理由やきっかけが分からないということは、別に本当は大して彼女のことを好いているわけではないのだろうか。
でも、別の男と話しているのを見ると心がざわつくのだから、彼女を他の人間にとられたくないという気持ちはあるのだろう。
そうなると、恋心とは所詮ただの身勝手な独占欲に過ぎないのだろうか。
と、こんなことばかり延々と考えてしまって、また頭の中のペンだけが動き、手元の原稿用紙に文字は増えない。
少し夜風に当たろうと、男は書斎机を離れ、縁側に出た。
昼間は暖かくなってきたとはいえ、朝晩の冷え込みはまだしっかりと感じられる。寝間着だと少し肌寒かったが、頭を冴えさせるにはこのくらいが良いだろうと、羽織りを取りには戻らない。
板張りの床に腰を落とすと、手持ち無沙汰で引っ張り出してきた煙管に煙草を詰め、火をつけた。
時間をかけ、ゆっくり一口吸う。
夜の闇に沈む庭に目をやると、手入れをしていないから当然なのだが、あちこちの草が自由に伸びきっている。
彼は、借家の一人暮らしとしては不似合いなくらいの、大きな木造の平屋に住んでいた。このように縁側に庭まである。
この家の大家は彼の遠い親戚で、昔彼の祖父母にとても世話になったことから恩を感じ、孫である彼にタダ同然の家賃でここを貸してくれているのだ。
ただ、広さはあるが、かなりガタがきている。定期的にどこかしらから隙間風を感じ、それを板切れで塞ぐということを繰り返す。大雨の日には雨漏りの箇所が両手で済めばまだ良い方だ。廊下は歩くたびキシキシ音を立てるので、そろそろどこかの床を踏み抜くのではないかと、彼は思っている。
しかしながら、別に住居など雨風をしのぎ寝食をとれさえすればいいと思っているので、彼はこの家に不満はない。
彼は長く息を吐く。細く煙が吐き出される。
つい最近までわずかだった虫の音もだんだん大きく聞こえるようになり、まだ少し先であるはずの夏の到来を一足早く予告していた。
ほんの少し前まで、自分がこんな風になるとは思いもしていなかった。
紙がだめになるほどその著作を読み、尊敬していた先生の元に弟子入りし、その師を思わぬ形で突然失った。代わるようにして出版社から声がかかり、あれよあれよという間に念願だった作家としてのデビューを果たしてしまった。
まあ、その肝心のデビュー作は、鳴かず飛ばずだったのだが。
今後ヒット作を出さないと食べていけないし、出版社から見放されるかもしれない。
仕事として文筆業を選んだ以上、これからは自己満足ではなく、読み手を意識した内容を書かなければならない。
だが、売れるということを考えたしたら、自分が何を書きたいのかどころか、自分が何を書けるのかすら、分からなくなってきてしまった。
先日椿月に会った時には、調子は「まあまあ」だと小さな見栄を張ってしまったが、実際は全くそんなことはない。自分はもうずっと小説が書けないのではないか、そんな気さえしてくる。
先生のしたこと、していたことは到底許されることではない。でも、人気作家だった先生なら、こんな時どうしていたのだろうとすがるように考えてしまう自分がいた。
彼はまた煙管を口に運ぶ。
もう一つの、自分がこんな風になるとは思いもしていなかったこと。
まさかこの自分が、女優に惹かれてしまうなんて思ってもみなかった。芸能関係や流行ごとなんて、信じられないくらいうといというのに。定期的に舞台を見に行くようになった今だって、椿月以外の役者の名前など一人も知らない。
女優としての彼女は確かにすばらしいと思うし、応援もしてはいるが、はじめに知ったのが舞台の上の彼女ではないので、彼女のファンと言われると何か違う気がする。
でも、彼女からするとどうなのだろう。出会い方はどうあれ、観客として舞台を見に来ている今となっては、ファンの一人という認識なのだろうか。
特別な理由や目的があるわけでもなくとも、互いに定期的に会う機会を作ろうとしているのだから、少なからず特別な相手なのだろうと期待しているのは自分だけなのだろうか。完璧なほほえみの裏で、毎回来るから仕方なく付き合ってくれているだけだったりするのだろうか。
彼女に直接訊けたらよいと思うのだが、そうすることで今の関係が変わってしまったらと思うと、踏み出せない。
こんなことで思い悩むのは人生で初めてのことで、今後どうしたらいいのか見当もつかなかった。
長く息を吐き、黒い空を眺める。
月の姿は雲に隠されており、見当たらない。月明かりが無いので、夜の闇も濃い。
時間的にそろそろ劇場が終わる頃だろうか。
彼女も今、同じ空を眺めていたりするのだろうか。離れている以上、目に入る景色は違うものだけれど、空はどこまでもつながっているから、なんとなくそれを見つめてしまう。
なんてロマンチストな考えをするようになったのだろうと、自分でも思う。椿月と出会ってからの自分の変化には、色々と驚かされてばかりだ。
灰吹きに吸殻を落とす。空吹きすると、火皿に残った灰が舞った。
こんなにモヤモヤするのなら、先週行ったばかりではあるがもう一度劇場に行ってみよう。ただ無闇に思考をめぐらすのではなく、彼女と直接会えば、少しは思考も澄むのではないか。
この間会った時、神矢が去って以降情けないくらいに上の空になってしまったことも謝りたい。
だいぶ体が冷えてきたので、男は煙草盆を持って室内に戻った。
彼はいつも、劇場ではかなり後列に座る。
舞台まで距離があるので普通はあまり好まれない席だが、彼としては四方を他人に囲まれるより、こちらの方が落ち着いて観られるのだ。
そもそも、劇場などというものは人が多くて息苦しいイメージがあったので、相当なきっかけや理由が無ければ絶対に来ていなかっただろう。
平日の昼公演ということで客の入りは休日よりかは芳しくはなかったが、それでも最前列から後列手前にかけて席はみっちり埋まっていた。
この劇場では、大体二つから三つの演目が上演されており、その演目はおよそ一月ごとに変わる。
演目も毎回同じ配役で演じられるわけではない。演目の顔となる主役が変わることは流石にほとんどないが、その他の役は日によって代わる代わる演じられることがままある。
なので特定の役者が目当てであれば、その役をその役者が演じる回に見に行く。主役でなくとも支持のある役者ともなれば、出演回にはその人目当ての観客で客席はごった返すし、観客たちもあの役を演じるならあの役者が一番だと話題にしたりする。
そして話も中盤となり、悪女の役をやらせれば右に出るものはいないと評判の女優・椿月が、舞台に姿を現す。濃い化粧に個性的な髪型のウィッグ。女性の曲線を際立たせる細身の西洋ドレスに身を包んでいる。舞台上を歩む彼女は、色っぽく体をくねらせるような歩き方一つから全てが普段とは違う。
意地の悪い、性格のゆがんだ女性にも、これまでの人生と、そうなってしまった理由がある。そういう行動をとるだけの理由と、そういう行動をとらざるをえない理由がある。それらをきちんと理解して、自身の身に植えつけて、表現する。
正義の側から見ての悪として演じるのではなく、正義の対となる側から見た正義として悪役を演じる。彼女はそれができる女優だった。
まあ、男がそれを分析したわけではなく、彼女について書かれた演劇雑誌で読みかじったことなのだが。
舞台の上の椿月は、色気のある喋り方で台詞を発する。指先の所作ひとつでさえ妖艶だ。
あの素顔からは想像もつかないが、多くの観客は逆にあの本当の姿を想像することができないだろう。
その素顔を知るのは、劇場の館長と、彼と、神矢だけという。
その時、客席がにわかにざわめく。ちょうど、主役である神矢が舞台上に現れたのだ。すらりとした四肢で、軽やかな身のこなしを見せ、もはや舞台を歩いている姿だけで様になる。
彼が登場するたび、黄色い歓声が最前列あたりから聞こえてくる。
すると、一つ空席を挟んで隣の席に座っていた客が不愉快そうに咳払いをした。彼は思わず横目でそちらをうかがう。身なりのしっかりした、恰幅の良い老紳士だ。
あまり人気のない後列席なので、平日の昼公演ともなると人は少なく、ここ一帯の座席には二人しかいない。うっかり目が合ってしまい、彼は反射的に軽く会釈をする。
それを同意と見られたのかなんなのか、老紳士は控えめな声でこう話しかけてきた。
「……あの主役の男、どう思います? 容姿はいいのかもしれないが、若い女性の人気ばかりにかまけて、演技が全然ダメだ」
眉間に深いしわをきざみ、老紳士は説教するようにそう言う。
男は正直、演技の良し悪しなどはよく分からない。お茶を濁すように「そうですね」とだけ言った。
すると老紳士は、また同意してもらえたと思ったのか、更に言葉を重ねてくる。
「そうでしょう、そうでしょう。台詞が全部上っ面だ。大げさな動きだけで、表情や感情がついてきていない。私は昔からこの劇場が好きで、若い頃から通っているんだが、この伝統ある劇場も見た目だけであんな役者を主役にするようじゃ落ちたものだ……」
小声で、しかし途切れることなく不満の言葉をつむぐ老紳士。
よく、年を取ると若者に文句を言いたくなるというが、長年の演劇好きということもありそれに拍車がかかっているのだろうか。
ふいに、老紳士は思い出したことを口にする。
「ああ、そういえばこんな話を知っていますか? あの主演俳優、あの女優とできているらしいですよ。ほら、あの派手なドレスの」
老紳士が指し示すのは、当然ながら椿月のことで。
男は一瞬、周りの声が何も聞こえなくなったような気がした。
「毎夜よく、一緒に帰っているところを目撃されているとか。客の間ではもっぱらの噂ですよ。まったく、同じ劇場の女優に手を出すような俳優などろくなものじゃない……」
老紳士はその後も不満を喋っているようだったのだが、男の耳にはそれ以上届いていなかった。
元々知人友人も少ないし、演劇関連の知り合いなどほとんどいない。そんな噂など今までまったく知らなかった。
でも、よく考えたら自分は彼女の普段の私生活など何も知らないのだ。月に一回程度、昼間の数時間に会うだけ。
神矢と椿月が交際しているという噂。
もやもやを晴らそうと思ってやってきたのに、それ以上のもやもやを抱えることになってしまった。
こんなことを理由にしてはいけないとは分かっているのだが、原稿の完成が更に遠のくのを感じた。
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