前編と後編
雉男石吏
前編と後編──雉男石吏
「えー、嫌だよ」
彼女は冷たくそう答えた。いつもよりワントーン低い、聞いたこともないくらい冷めた声でだ。嫌だって何だ、こういう時は“ごめんなさい”とか“他に好きな人がいる”とか、テンプレートな遠慮の仕方があるものじゃないのか。もっと優しく、せめてもの気遣いを含んだ返し方があったんじゃないのか。
おれは一瞬、喉の奥に言葉を詰まらせた。ちょっとというかとてもというか、彼女の反応があまりに鋭く尖っていたものだから、思わず怯んでしまった。まだ歩み始めて短い人生の中でいちばん勇気を振り絞って告白したというのに、男として最大のダメージを真正面からクリティカルで受け止めたのだ。振られるというのはこういう事なのか。こんなにもあっさりと、心を燃やし尽くすまでの業火は消し止められてしまうものなのか。おれには縁の無い話だったからずっと知らないでいたが、今この時を以て思い知った。
「そ、そう。なんか、悪かったよ」
「私そんな目で見られてるなんて知らなかった。無害そうだったから普通に接してただけなのに、へえ、勘違いしちゃったわけ?」
「あ、そうなんだ……ごめん気が付かなくて」
おいおい待ってくれ、なんだよこの言われようは。おれが何をしたって言うんだ、ちょっと他のクラスメートより可愛くて優しかったからワンチャンスに賭けて心弾ませただけだろ。男心の根本をそんなに叩きのめすのやめてくれよ。将来の生き方に支障が出そうだ。勘違いってなんだ、勘違いもなにも、自分の意思で初めから自発的にきみのことが好きになったんだよ。優しくされることには飢えてきた冴えない男なのは否定しないが、別にそれが理由で懐いたわけじゃない。しっかり自我だ。決めつけはどうかと思う。
彼女は普段からは想像つかないような悪女の表情でおれを隅々睨めつけてくる。これじゃあまるで看守と囚人だよ。可愛い顔が台無しだ、おれが好きになったのはそんなきみじゃないのに。
「私、彼氏候補は山ほど抱えてるのよ。選ばないだけ。だって、選んだら一人限りになっちゃうでしょ? そんなのつまらないじゃない」
「え、選ばない? 一人限り……?」
「はーあ、あんた私のこと清純な女とでも思ってたの? さすが陰キャは見てる世界が狭いのね。高校生にもなって処女とか、よっぽどじゃなきゃ有り得ないでしょ」
訊いてないって。おれは何も訊いてないから。RPGの村の入口で勝手に騙り始めるNPCじゃないんだから、そんな身も蓋もない話を大きい声で聞かせないでくれ。教室にはおれときみと、あと──いつも端の方で勉強ばっかしてる地味な笹倉さんしか居ないとはいえ、学校でする話じゃないだろ。やめろよ、勝手におれを巻き込んであんまり陽キャ語りしないでくれ。蒸発するぞ。
しかしまあ、まさか彼女がそういう人だとは思ってもみなかった。髪も黒いし、スカート丈も標準を守ってるし、制服も着崩さないし成績だって優秀。化粧なんてものをしなくても整った顔立ち、穏やかな口調。言っちゃ失礼かも知れないけれど、いわゆる“控え目優等生キャラ”の項目をオールクリアしているもんだから、ついそうなんだとばっかり思い込んでいた。先入観は本当に恐ろしいな。ああ、でも確かによく聞くよな、清純派ビッチっていうワード。やっぱりそうなのかな、みんなそういうものなのなのかな。
「あんたみたいなどうしようもない非モテと釣り合えるほど、私も人生落ちぶれてないの。ほら──いいところに笹倉さんも居るし、代わりにあの子にでも頼み込んで童貞捨てさせてもらえばいいじゃん」
急に本性出たな。あと話のすり替え方もそれっぽい。おれ、いつから童貞捨てたい奴になったの。いや捨てたいよ、捨てたいけど今はお前に好きという気持ちを伝えるので必死だったよ。フラれたけど。なんかおれの話も聞かないまま教室出てっちゃったし。せっかく可愛いのになあ、本性があれじゃまともな男に捕まらなそう。少なくともおもちゃだろう。んでグズグズしてるうちに歳ばっかり食って、底辺のにーちゃんと雰囲気で結婚してなんやかんや一悶着あって別れて被害者です的雰囲気出す奴一直線ルート。おれは縋られても助けないからな、なんてそれは自意識過剰か。
ひとりで気まずくなってしまった。向こうにはおれたちの存在などなかったように黙々と勉強する笹倉さんだけ。うるさかっただろうな、申し訳ないです。でも今ちょっと心に余裕無いんで、謝るのはまた今度にしよう。それに今声掛けたらさっきの話の流れで本当に体の関係を頼み込みに来たと思われるかも知れない。慎重にいかなきゃ。まだ焦る必要はない。
「──くん、さあ」
笹倉さんが何かひとりで喋りだした。よく聞き取れなかったけど、音読で暗記するタイプなのかな。おれもたまにやる。覚えにくい公式とかは一旦声に出すと覚えやすいんだよな。あれなんでなんだろ。
「主人公くん、完璧なフラれ方だったねえ」
おれに話しかけてる。これは間違いなくおれを対象に言ってる。フラれたばっかだもん。ここには俺しかフラれた人間なんて居ないわけだし。主人公くんってなんだろ。笹倉さんこんな声だったんだな。うわあ、頭の中がうるさい。さっき特大ダメージ受けたせいであんまり情報処理出来ないのに、入ってくる情報の数はここ最近で最多。どうしよう。わかんなくなってきた。
「主人公っていうのは、君が君の人生のそれって意味だよ。たまにこんなフレーズを耳にしないかい、“人生は物語である”ってね。人生の主人公っていう言い回しはこれが由縁なんだろうね」
「え、あ、笹倉さん、おれ」
「いいよいいよ。無理に言葉なんて返さなくていい。そうだ主人公くん、人生の大挫折にぶち当たった君に、ひとつわけてあげたいお話がある」
教科書のあのサラサラしたページが閉じられる音。筆箱に放られたペンがぶつかる音。チャックが走る音。椅子が引かれる音。制服のスカートが机の縁のささくれに擦られる音。単調で身近で馴染みある音が幾度となく繰り返されて、それらが止んだ時、気付けば目と鼻の先に笹倉さんが立っていた。肩上で切り揃えられた黒い髪と、細くて切れ長のふたつの目。その間から丸っこい鼻の頭にかけて無数に散らばる赤茶けたそばかす。よく見ても可愛くはない。表情も無いし、何となく愛想が悪い顔つきだからかな。
「ほら、あたしに見とれてないで。青春らしく屋上で話そう。行った行った」
「見とれてなんてないよ。やめてよ、そういうの……」
こっちは容姿のことでついさっき未曾有の大事故起こしてるんだ、見とれたとか惚れたとか、本人の意思を介さずに決定するのはよしてくれ。思わずスラスラと口が回って否定してしまったじゃないか。堪えてるのかなやっぱり。しばらく女の子は懲り懲りかも。男は勿論だけど。
くるっと体を反転させて、笹倉さんの言う通り屋上を目指す。うちの学校はこの辺じゃ有名な進学校で、中々いい設備も整ってる。屋上となんの関係があるかというと、なんと、そこにカフェテラスがあるのだ。売店とは別にスクールカフェっていうのがあって、誰でも一日中、自由に利用出来る。カフェマシーンが置いてあるだけの簡易的なところだから。実際、利用する生徒の数は少ない。そりゃそうだ、ブラックしか扱ってないんだもの、飲める子しか寄ってこないよな。おれは飲めない。
「主人公くん、君は人生ってどこが折り返し地点だと思う?」
「折り返し? うーん、結婚して子どもが生まれて、会社でも昇格して、社会人として大台に乗り出した辺りかな」
「ほーう、まあニュアンスは合っているよ。いいセンスをしている」
「お、どうも」
階段をふたフロア分登って廊下を突き当たりまで歩くと、一般的な教室と変わらない見た目の小部屋に辿り着く。だけれどこれは部屋じゃない。ドアを開けると上に伸びる木製のお洒落階段が現れる。ほんの少し目線を上げてみると、“スクールカフェ・ブレンダ”と書かれた丸太の輪切りが掲げられている。秘密基地っぽいこの造りが、個人的には結構好きだったり。
「人生というのは物語であるからして、必ず脇役というものが存在するのだ。主人公くんも例外ではないよ、君の人生物語では主人公であったとしても、そうだな、例えばあたしの人生において君は脇役でしかないんだ」
「んまあ、そりゃあそうだよね」
「わかっているつもりかも知れないが、君は全くわかっていない。だからさっきのような大ヘマをするんだよ」
「ヘマって言うなよ。一大イベントだったんだから」
女の子を先に行かせるとスカートの中を見たとか見てないとかどうでもいい難癖を付けられたりする可能性があったから、おれが迷わず前に出て階段を登る。ギッ、ギッと木が軋むいい音色が心地いい。後ろをちょっぴり遅れて付いてくる笹倉さんを横目で確認したりしながら上まで登りきると、すぐ目の前に屋上の入り口が構えていた。ありがちなアルミ製の、丸いドアノブのあれ。ここまでがあんなにお洒落だったのに、このドアをお洒落なものにするには経費が足りなかったのかな。ノブを握って右に捻ると、ガチャ、という無骨な動作で扉が開かれた。
「イチャついているアベックなどが居ないといいんだけれどね」
「笹倉さん、アベックだなんて古すぎるよ……」
「じゃあつがいだな。学校でイチャつくような人間には動物レベルの表現がお似合いだ」
黄と赤の見事なグラデーションの向こうから、眩しい夕日が降り注いでくる。メガネなんてかけていた日には、反射のし過ぎで何も見えないんじゃないかと思うほど眩しい。日中の太陽とは味の違う温かみで、体のあちこちがほかほかしてくる。
誰もいない広い屋上テラスには、丸テーブルが六つと椅子がそれぞれ四つずつ、落下防止の囲い柵に沿って外向きに簡易ソファが置かれていた。ソファの傍らには小さいサイドテーブルがあるが、本を数冊置いたらいっぱいいっぱいな感じだ。勉学の合間にひと息つく程度の休憩場所。それがこのテラスなのだ。
「かあー、今日の西陽も美しいねえ」
「笹倉さんってなんかいちいち言い回しが古くさくないですか」
「仕方がないさ、もう歳なんだから」
笹倉さんが伸びをして、おれから離れるようにゆっくりと歩き出す。途中後ろ手に手を組んだり首を回したり、暇な時の教頭先生のようなおっさんくさい動きでストレッチした。おっさん系女子だ。紛うことなきおっさん系女子。しかもこれ真性だ。ファッションジジイじゃない。普段から慣れてる動きでおっさんしやがる。今まで関わりのなかった人だから知らなかったけど、笹倉さんはただの地味子とは少し違って、面白味のある人なのかも知れない。
「──で、だ。単刀直入に話したかったことから話すけれどね。人生にて出会う全ての物事には、前編と後編があるのを知っているかい、主人公くん」
「は、前編と後編?」
「そう」
急に何を言い出すかと思えば、笹倉さん曰く、人生には前編と後編があるのだそうで。その基準も理屈もさっぱり見当はつかないけれど、なんだろう、彼女に言われるとへえそうなのか詳しく教えてくれって気持ちになる。おれを屋上に連れてきてまで話すことなのなら、もういっそ罵倒でもなんでも聞くつもりだった。おれは今ある意味ちょー強い。何しろ、数分前にライフを零まで削られているから失うものが何も無い。ちょっとやそっとのことではビクともしないつもりだ。
「さっき君は人生の折り返し地点について、中々センスのいい回答をした。そしてその前に、あたしから人生は物語に置き換えられることを聞いた」
「うん」
「折り返し地点とは、つまり小説で言うところの前編の末尾と後編の冒頭を繋ぐ大事なものなんだ。ページを捲るだけでなく、手にした本を丸々持ち替える瞬間でも物語が途切れないように残された“余韻”ってわけだよ」
笹倉さんが振り向いた。背景の夕暮れグラデが濃い色で彼女を包むから、表情が見えない。どんな顔でこんな話をおれにしてるのか、知りたくてもわからない。
「主人公くんにとって折り返し地点は“成長から成熟にかけての移行段階”だった。違わないね? だけれどあたしはね、君とは異なるものを折り返し地点だと思っている。それはね──」
笹倉さんのその言葉の先に起こった出来事を、おれの知る範囲の日本語で言い表すのは無理だった。出来たとしたってたぶん誰も信じない。おれも現に、彼女の、彼女だったものの目の前で立ち尽くしたまま、何が起きたのかさっぱり理解出来ずにただ口を開けている。いや、だって、信じられるかよ、“人間が急にでっかい四足歩行の化け物になった”とか説明されて。
「さ、さくら、さん?」
『──人でなくなった時、なのだよ』
長い鼻っ面を半分から上下に切り分けて、その間に牙とも粘液とも取れないギザギザをまばらに幾つもくっつけたような口、ぽっかり穴が空いただけのふたつの目、耳も角もないぬるっと丸い頭、首周りには痩せこけた蛇の群れみたいなものがうねっていて、寸胴な体から太い脚が四本と二又に別れた爬虫類っぽい尻尾が生えている。そしてこのすべてがテクスチャのバグった真っ黒い影で出来ていて、というのはつまり、古いゲームで動きのある毛並みを描写した時みたいな、線がブレたぎこちない感じの──とにかく、実体を持たなそうなくらい、それは影だった。
『生まれた時からこの姿を持ち合わせているわけじゃなくてね、ある時を境に目覚めるような形でこうなれるんだよ、面白いだろう』
何より、そのとんでもなく巨大で、でかくて、ビッグなことといったら。声はまるでスロー再生を聞く時みたいに低く歪んでいて、夜かと錯覚するくらい自分の周りが暗くなる。大きいものはやっぱり怖い。恐ろしい。人間がいかに小さく弱い生き物なのか、視覚情報だけでヒシヒシと思い知らされる。これが笹倉さんであるとは認めたくないけれど、笹倉さんであるならまだマシだ。野生の動物でこんなものに巡り会ったら。考えなくたってイチコロなのはわかる。
「お、あ、これ」
『フラれたことなど大したショックじゃなかったろう、主人公くん。現実とは小説より奇なりとはよくできた言葉だよ』
巨大な四足歩行の影は、相変わらず聞き覚えのある話し方でおれを主人公くんと呼んだ。見上げるのがつらい。首が痛くなるよ。口も閉じなくなっちゃうし、目からあたたかい汁がこぼれ落ちるし。おれドライアイだもんな、瞬き忘れたらそりゃこうなるや。
それにしたって、笹倉さんが言う話は本当なんだろうか。ここは本当に現実なんだろうか。人が化け物になれるなんて絶対に有り得ないし、もしおれの知らないところで人とこんなのが共存する世界が始まっていたとしてもおれには無関係なことだと思って過ごす。無いだろ普通、ピンポイントで関わることなんて。漫画やアニメや、ほら、小説の主人公じゃないんだから──
「──主人公、なのか?」
『ん? 主人公だよ、誰もが自分の人生の主人公さ』
「ち、違う違う、そうじゃなくて。おれは今、もしかすると、誰かの人生にも干渉する、本物の主人公だったりするのか……?」
『おっと、頭のきれる人だね』
笹倉さんがずしり、と歩き出した。すっごい風。こんな巨体が身動ぎしたんだから、風の流れのひとつやふたつ変わってもおかしくないか。というか、実体あるんだな。空気が空気の中を移動したってこんなに動かないもんな、中身のある塊だからこそ、ここまで影響を与えるわけで。
『主人公くん、君はれっきとした“異人”だよ。あたしは君の存在を知った時からちゃんとわかっていた。チャンスが無くて伝えそびれて今に至るわけだけれどね』
「い、いや、わかんないよ。そんなのいきなり」
『だから教えてあげようと思ってここに連れてきたんじゃないか』
見慣れた景色の屋上テラスで、いつも通りの冴えないおれは決して有り得ない非日常に出くわした。売れないアマチュアライトノベルの書き出しだよこんなの。あはいはいそうねくらいの気持ちで流される、つまらない方のやつ。何万番煎じのありふれシナリオ。
そのはずなんだけど、なんでこんなにドキドキしちゃうんだろう。ちょっと期待しちゃうんだろう。このあとの展開を見たくなるのはきっと、作品の中の主人公だけなんだと思う。書く方も読む方も実はもう大した思い入れのない設定で進められる話の内側で、前触れもなく、でも約束されていたこの出会いに心が高鳴ってしまうのは、おれが主人公だからなんだろう。パッとしなくて上手くいかなくて、なんの取り柄もなかった人生に、いきなり降ってきたスリリングなアブノーマル。だから主人公っていうのはあんなに生き生きしてて、強くてかっこよくて、どことなく他より輝いて見えるんだろう。
「……笹倉さん、教えてよ。おれは笹倉さんみたいなその、化け物の体にはなれるの? それとも、もっと特別な、主人公らしいチカラを秘めてたりする?」
『興味を持ってくれたんだね。よかった、君自信が無関心だったら黙っておこうとおもっていたところだ』
笹倉さんの足が、むうっと地面を離れた。浮いてる。あの巨体が重力に逆らって。ギシギシとなびく毛皮を優雅に舞わせながら、笹倉さんは俺の周りをふわりと一周して見せてきた。それから屋上の柵を飛び越えて、何も無い空間を泳ぐように駆け回る。まだ全部は信じてないけど、確かに今、目の前で化け物が楽しそうに飛び跳ねてる。
『端的に言うと、君はこういった姿を有さない。そしてこれからも目覚めない。なぜなら君は異人、君以外の人たちの物語にも干渉する、特別な存在“主人公”だからね』
「え、おれ、そんなふうになれないの? 主人公はなれないものなの?」
『そりゃあ、もちろん。主人公っていうのはいつだって、正統派のヒューマンボディじゃないか』
「それは笹倉さんの趣味系統なだけなんじゃないかな」
笹倉さんは空洞の目でこっちを見つめてきた。なんとなく怖い。吸い込まれそうな黒で塗りつぶされたまん丸に見つめられたら、たぶん誰でも怖いよ。想像するのと実際にその状況になるのとじゃ全然違う。おれは今知った。これすごい怖いよ。
『君の人生はまだ序盤も序盤を描く前編、対してあたしの人生は後編のクライマックス真っ只中。それぞれ別の
「そして」
『そう。君とあたし、そのどちらもがれっきとした主人公ってわけさ』
黒いガビガビがふわっと戻ってきて、ぐっとおれの顔に顔を近付ける。やっぱりどこかギシギシしていて、ぬるっとしていて──ダメだ、擬音でしか表現出来なくなってきた。ちゃんと誰かに説明するための文章で表現するのに疲れてきた。どうせ何を考えたってきっと全部は伝わらない。おれの脳みそを共有しない限りは。
笹倉さんの目がアーチみたいに歪んだ。たぶん笑ってるんだと思う。笑ってるって言っても、ゲラゲラとかじゃなくてにこって感じだろうな。何が面白いのかはわかんないけど、今確かにおれを見つめて笑ってる。なんだよ、勘違い陰キャがフラれたのが今更になってそんなに面白いのかよ。おれはちっとも面白くないぞ。
『人間というものは小さいねえ。あたしがその気になれば一口さ。はあ、ひ弱ひ弱』
「お、おれのこと食わないでよね。美味しくないよ」
『ああ知っているよ。それに』
笹倉さんが何も無い空気の上でひとつ伸びをして、そのままそこでまあるくなる。なんか犬みたいだな。こんなばかでかくてその、なんて言うのかな、気持ち悪い──気持ち悪いは失礼だな、薄気味悪い犬が居てたまるかって感じだけど。餌代だけでいくら飛ぶんだろ。狂犬病のワクチン要るかな。首輪付けられないな。注連縄とかなら長さ足りるかな。
『主人公をとって食うわけにはいかないのでね』
ふわあ、と欠伸をする口はまるでブラックホールだった。ブラックホール見たことないけど、こんなんだと思う。消化器官ついてるのかな。舌とかも見えないけど。でも食べるって言ってたし、どうにかして消化するんだろうな。この体に食べられたらどうなるんだろう。栄養になるのかな、それとも、初めからなかったものにされるのかな。よくあるじゃんね、捕食されると黒い粉みたいなのになって、サアーって吸収される設定。おれはアニメでよく見かけるよ。
夕陽がすっかり沈みきって、この屋上とおれと笹倉さんが宵のベールに包まれ始めた。まだ近くは見渡せるけれど、じきに本当の闇が来る。そしたらなんにも見えなくなって、怖くなって、目を閉じたら朝が来る。毎日それの繰り返しだ。
「おれ、生きてていいのかな。今日もこのまま何事も無かったように家に帰って、ご飯食べて、お母さんにおやすみって言って寝ていいのかな」
『なんだい急に。言ったろう、君をとって食いやしないよ。生きてていいってことさ』
風が冷たくなった。夜は突然始まって、勝手に終わる。いつもそうだ。そんなわがままな夜に振り回されるのがつらくて、うっかり涙が止まらなくなって。おれ、泣いてた。てたって言うか、泣いてる。別にフラれたのが今になって悲しくなったわけじゃない。そりゃ悲しいけど。あと笹倉さんが人間じゃないって言い出したのが面白すぎて心の中で笑いすぎたわけでもない。メンタルには傷一つ──傷二つもついてないし、至って元気なつもり。でも涙が止まらなかった。何故なんだろう。どうしてなんだろう。
『君は立派な主人公だよ。この日まで、たくさん苦労してきただろうに、それから逃げずに戦いきった。君は本当に立派な主人公さ』
泣きたいことなんか何も無いはずなんだけど、涙は次から次に溢れてきてとめどない。うーん、わからない。なんだろ、昨日、鈴木のやつにノート破られたからかな。一昨日、誰かに体育着をゴミ箱に捨てられたからかな。いや、五日前、下駄箱に入ってた上履きが画鋲の山になってたからかな。違うなあ。
『······何故、逃げなかったんだい』
あれかな、こないだの家庭科の実習の時、加藤が手滑らせたって言っておれの左手に熱湯ぶちまけたやつかな。違うな。なんか違う。その前に帰り道でおれからお小遣い全部奪っていった川尻のも違うっぽいし、その前の前に楠木が家でのストレス解消のためって言っておれを何度もぶん殴ってきたのも違う。しっくりこない。
『何故、誰にも助けを求めなかったんだい』
あ、あれはどうかな。沼崖に机の中身を便器に捨てられた──いや、違うな。
『主人公くん、教えておくれ。あたしはすべて知っているけれど、君の心までは知らないんだ。何故、そんなに強くいられるんだい』
お母さんがパチンコで大負けやらかしておれの貯金に手出したこと? それとも、一年前に浮気して家を出てったお父さんからいきなり送られてきた「お前なんか堕ろせばよかったんだ」の手紙? やっぱり違うっぽい。
『主人公くん、主人公くん──お願いだよ、もう泣かないでおくれ』
いやあ、わかんない。どれも走馬灯みたいに毎日頭の中で駆け巡る思い出たちだけど、どれもこの涙の理由ではなさそうな気がしてならない。もっとあるはず。もっとあるはずなんだよな。
『主人公くん!』
考え事に熱中してて気が付かなかったけど、いつの間にか人間の姿の笹倉さんがおれの目と鼻の先に立ってた。うそ、いつから。マジで気が付かなかった。おれのほっぺをすんごい力で引っ掴みながら──笹倉さんも泣いてた。なんで泣く必要なんかあるんだよ。なんで、おれのために。おれのために泣く必要なんか。
「笹倉さん、どうしたの」
『どうしたの、じゃあないよ! 何故教えてくれなかった! 何故“助けてほしい”が言えなかった!』
いや、なんでそんな熱量を叫ぶんだ。助けてほしいって、なんのことなんだ。おれが何かに苦しんでいるように見えたのかな。笹倉さん、案外優しい人だな。おっさん系女子のくせに、そういうところはちゃんと女子なんだな。
『あたしは君の力になりたかった。けれど、あたしはあたしの物語の主人公なのだ。下手に君の物語に干渉することは出来なかった!』
「力になりたかった、って?」
『君を、あの壮絶ないじめから、この力で、守ってやりたかったのだよ······!』
笹倉さんの細長の切れ目のその奥で、あの巨大な犬みたいなやつの視線が揺れたような気がした。え、もしかして、鈴木とか加藤とか川尻とか楠木の前で、あのばかでかわんころになろうとか考えてたってこと? やめた方がいい。きっと俺だから耐えられた衝撃だよ。他の人間なら最悪ショック死してそうだもん。
『すまない······すまない主人公くん。助けてやれなかった。力になれなかった。あたしは君を見殺しにしたんだ。許しておくれ』
笹倉さんが映画のヒロインみたいに膝から崩れ落ちた。今はコンクリートに向かっておいおい泣いてる。膝痛くないのかな。固いところで正座するとくるぶしも痛くなるよな。
『······君を、生かしてあげたかった』
よくわかんないけど、涙は相変わらず止まらないし笹倉さんまで泣き出しちゃったし、もうすっかり暗くなっちゃったから帰りたい。なんかもう、ハチャメチャな一日だったな。思えば、ハチャメチャじゃなかった日の方が少ないけど。それでもおれの
笹倉さんに小さく帰るね、とだけ呟いて、おれはうずくまる彼女を通り越して落下防止柵まで歩み寄る。いい風だな。少し寒いけど。でも空を飛ぶにはちょうどいいんじゃないかな。暑いよりはマシだもんな。
柵に手をかけて、うんしょうんしょと乗り越える。こんな柵じゃおれは止められないよ。笹倉さんも止める気は無いみたい。見送る人も居ないのはちょっとだけ寂しいな。気にしてないけどね。本当だよ。
『──主人公くん、あたしは君の物語の脇役でいい。脇役でいいからせめて、君にもっとも近い脇役でいさせておくれ』
「勿論。いいよ」
おれは鳥みたいに両手を広げて空を見る。星が出てきてとても綺麗だった。もしかするとあれかも。ここ最近で見た景色の中では一番の絶景かも。そんくらい綺麗だった。
あとは単純に、両足をぴょこっと蹴りあげてあの空に抱かれに行くだけだった。星が駆け上っていく。天へ帰ってゆく。綺麗だなあ。おれも次生まれ変わるなら、あの星み
終
前編と後編 雉男石吏 @haiume8116
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