>Ⅳ


 偶然にも取引先の幾原いくはら氏とランチを共にすることになって、40分ほど食事をしながら会話をしていると、自然とあの人の声や言葉選びはあたしには嫌な印象を与えなかった。心地いい、とまでは言わないけど、今日の打ち合わせの時の立ち回り然り、悪い印象はなかったけし、それが補強された感じだった。少なくとも仕事上の付き合いでそう言った立ち回り方をしている以上、私が不快感を覚えるタイプではないみたいだった。

 帰社する電車の中で、そんなことを少し反芻してみた。今日の打ち合わせで浮き彫りになった課題をこなせる時間は今日を含めて5日、休日を含めても7日しかない。はっきり言って短い。来週月曜日の夕方には次のプレゼンが、今度はうちの会社でセッティングされている。

 怠けている暇はない。偶然にも恋人はいなくなったことだし、この際思い切って仕事に打ち込むのも悪くないかな、と思う。

 

それからは本当に、怒濤と言ってよかった。私と山南さんが月曜日の打ち合わせで獲得した課題は想像以上に過酷を極めるものだった。

 チーム全体が、とは言わないが、あたしの部門はウェブに比べてそう簡単に差し替えが効かない。交通広告や雑誌掲載は、印刷してしまったら基本的には取り返しがつかない。莫大な損失と圧倒的なタイムロスを生む。それは、クライアント自身や他社と進めている他の案件との足並みを大きく乱すことになり、結果として発注元のプロモーション計画を破綻させることになる。それだけは絶対に避けなければならいというところに来ての、大幅な追加発注とイメージの部分変更。各社が振り回されていることは必死だが、あたしの会社も御多分に漏れずの立ち位置だったため、イメージラフから平面的な広告デザインを手掛けるあたしはまだましだったけれども、それでも泊まり勤務は発生した。それなのに、テレビCMや企業PVに使われるCGを作成するデジタルクリエイティブチームは血反吐ちへどを吐くのではないかというくらい会社に泊まり込んでいた。何度か差し入れを持っていったほどだ。現実的な体力回復に役立つものだったりして、そこにお菓子的な遊びはない。かなりの修羅場が訪れていた。基本的にはディレクターの指示を受けて作業をこなしていくあたしですら碌に食事する時間もない。山南さんはそれに加えて、ややスケジュールがずれているとはいえ、もう1案件を掛け持っていた。エントランスで、奥さんが身の周りの必要なものなどを差し入れているのを目にしたこともあった。

 そんな中で迎えた、金曜日のことである。

賀喜かきちゃん、ちょっと休憩室行こうぜ」

 と、山南やまなみさんが、あたしがデスクで背伸びをしているのを見つけたらしく、声をかけてきた。

「え?あ、はい」

 とりあえず一区切り、と思ったところだった。時刻はまだ午後三時。まだまだやれる。

 少しの時間なら問題ないと思って、あたしは素直に応じた。

 休憩室について、山南さんはミルクティーをおごってくれた。嬉しいけど、今はコーヒーの方が集中力は上がるなぁ、と思ってしまう。これだと、変にリラックスしてしまいそうだ。

「お疲れ。いや頑張ってくれてるねぇ」

「とんでもないです。山南さんはこの勢いの中でもう一つへ移行してらっしゃるんですし、すごいですよ本当」

「ありがと。んで、今進めてもらってる案件に関してちょっと提案なんだけど」

「はい?」

 労ってくれていた言葉の時とその目の色や表情には変化がない。そのまま、山南さんは続けた。

「賀喜ちゃん、今日はもう帰って休みな」

「……え?そんな、できるわけないじゃないですか!」

「根詰めてくれているのも知っているし、成果物の成績がいいのもわかってる。わかってるけど、ディレクターのみなとくんからちょっと相談されてさ。この状況で、特にここ2日、本当に細かいミスが目立ってるらしいんだ。今の所は特に納期に関わらないからって港くんの方で直せてるから特に大きな問題じゃない程度らしい。だから彼から賀喜ちゃんには言わないらしんだけど、このまま続けたらどっかで致命的なミスを犯す可能性がある、って相談されてな。酷使してるこっちが悪いんだけど。賀喜ちゃん、中でもパフォーマンスいい方だと思ってたから振っちゃってたんだよな。悪い。で、港くんの提案では、少し、半日でもいいから賀喜の事休ませられないかって言ってきててさ」

「…そんな」

 晴天の霹靂とはこの事だろう。直しの指示は確かに少しはある。しかしまさか自分の知らないところで山南さんにそんな話がされるくらいの状況だなんて。

 全身から、ドッ、と冷や汗が出る感覚に襲われる。

 特段そのプロジェクトに賭けているなんてことはない。個人的な思い入れはあるけれど、そこまでのものではないけれど、仕事全体と考えたら、その指摘は、あたしには恐怖そのものだった完璧にできるわけでないことはわかっている。経験も知恵も、まだまだ圧倒的に足りない。それは、わかっていたことなのに、多忙の中でこなせてしまっていたことで、変なプライドが生まれていたのだろうか。

「いや、別に賀喜ちゃん評価に関わる話じゃないんだ。けど、知ってるだろ?みんなそれなりにちょくちょく休んでるのに、賀喜ちゃん朝早いし、夜もほとんどてっぺんだろ?今週、終電で帰らなかった日ある?何日夜通しやった?デスクで寝た?俺帰れた日の翌日も速攻で出てきてたらもう仕事してるしよ。そういうの知ってる分、それはすごいことなんだと思うけどさ、まあ法律的な話は一旦置いておいてな。本当に圧倒的にダメなんだけど、それで本当に助かっている部分は確かにあるんだ。けど、港くんが、そう言ってる」

「……」

 それが、現場の生の意見ということか。あくまで山南さんは管理職だし。そういう立場の人には、そうでなければならない圧倒的な存在価値、というのがあるから、そこにどうこう、という意見はあたしは言えない。けれどディレクターは、そこと特に密な関係にあるポジションだ。その、港さんからの話、ということか。

「…やっぱ知らないよな。賀喜ちゃんを今のポジションに抜いたのが俺なのは、知ってるだろうけど、その時、港くんに猛反対されたんだよ」

「え?」

 初めて聞く、そんな話。もしかして嫌われているのだろうか。

「あ、今、なんて思った?俺の予想が当たってれば、今賀喜ちゃんが考えたこととは多分逆だと思う。あいつな、なんかこんな感じのこと言ったんだよ。

 『山南さんの判断は信用してるけど、これだけは言わせてもらう。今回の賀喜のポジショニングには反対だ。あんなに才能のある人間をそのポジションに収めたら、各部署から使い倒されて

本来伸ばせたはずの実力も才能も殺してしまう。精神的に錆びさせて辞めさせるだけになるからもうちょっと慎重に考えてくれ。人材の無駄遣いになる。大事に慎重に育てた方が絶対にいい』

…って言われてな」

 ……嘘だ。

「嘘だって思ったろ。あいつ、下にはクールだからなぁ。こんな熱いこと言う人間じゃないと思ってるよな?」

「…すみません。失礼ですけど。その通りです」

「あはははぁ。気にすんな。だってまぁ、そりゃそうだ。それがあいつの性格で、いいところでもあるけど、本質を誤解されちまう部分でもある。少し変われって前から言ってんだけどね。で、結果的に、なんで今賀喜ちゃんが、俺の決めたポジションにいるのかって言うと、最終的に

『港くんの部下にするからやらせてみないか』

って提案して。あいつ、嬉々として折れてたよ。今思い出すとおもしれーな」

 …嬉々として。そんなことが。

「そいつが、そんな港くんが、賀喜を少しでいいから休ませてやってくれって。こっからちょっと面白い話なんだけど、もう本当にひでえことに今日の昼、誘われたから飯行ったら、この俺にガチで頭下げてきやがった。一瞬お前らなんか特別な関係なのかと思ったわ。まぁ、絶対ないだろうけどさ。でも、あいつが決めて、裁量下していいことなのに、部下にそう言う部分見せるの、苦手なんだろうなぁ。俺に言ったら結局賀喜ちゃんにも伝わるのもわかってるだろうに」

 もう、あたしは何を言っていいのかわからない。この超絶な繁忙期に、そんなに部下に気を遣えるほど度量の広い人に視てもらっていたなんて。

 涙が出そうだ。

「……あ、港くん」

「え!?」

「お疲れっす、山南さん。あ、賀喜!?」

 休憩室の配置的に、入口から入ってくると、その人物から私は山南さんの影になるから見えなかったのだろう。山南さんを躱すようにして入口を見やるとそこにいたのは、件の港ディレクターだった。

「…お疲れ様です、港先輩」

「…お、おう。おつかれ……ってまさか山南さん」

「あはははは。ちょっと遅かったな港くん。今ぜーんぶ話したところだ。賀喜ちゃんの配置換えの経緯も、休み申請の件もな」

「……戻ります」

「いいから、こっち来いや。コーヒー、でいい?」

「……はぁ……ハイ。全く!なんで話すんすか。しかも俺タイミング悪すぎじゃないですか。かっこわりーなぁもう」

 そう言ってしぶしぶ、山南さんの正面の椅子に、ふてくされたように腰を下ろす。

「お疲れさん」

 山南さんが、そんな港さんの手元にコーヒーの注がれた紙コップを置いた。

 一口つけて、諦めたような顔になる港さん。

 あたしは、今聞いた話のような関係性を持つ二人のいる空間で、何も言えないでいた。

「で、港くんよ。今日は賀喜ちゃん、もうあがりでいいのかね?」

「……いいでしょ。あんな話しして。ってか、もうちょっと早くても良かったのによ」

「全く不器用だなぁお前」

「うるさいですよ。こう言う人間なんです勘弁してくださいって、なんで本人の前で言わせるんですか」

「俺もそうだけど、賀喜ちゃんのこと、お前も好きだもんなぁ」

「……ま、まあ?できるやつだとは思ってるから?…こんなところで潰れて欲しくないだけですよ」

「お、珍しく素直」

「しょうがいないじゃないですか。もう逃げ道ないですもん」

「あっはっはっは」

 二人が、同じようなタイミングでコーヒーを啜る。

 その期に乗じて私もミルクティーに一口つける。

 さっきより、甘い気がする。

 そうか、こういう話だったからミルクティーを選んでくれたのか。

「…ってことで、賀喜。今日予定してた作業プロットを俺に送って、あと帰って飯食って風呂入って寝ろ。疲れてるところすまんが、明日。またよろしくだ」

「……うう」

 思わず涙が出た。そこで、結構体にも精神的にも、いろいろときていたことを自覚する。

「なぁ!?」

「賀喜ちゃん泣いちゃったー。港くんが優しすぎて感動しちゃったー」

 山南さんが茶化して笑い飛ばした。

 けどそれが嬉しかった。

「……す、すみません。大丈夫です。今、休めって聞いて気が緩んだら、思ったよりいろいろ張り詰めてたんだなぁって思って。で、安心したら、なんか…」

「そ、そうか」

 港さんが心配そうに告げる。

「本当、本当に、大丈夫です。でも、ミスが多々あったことは本当に申し訳ありませんでした」

 泣いている目を誤魔化すように、テーブルに額を叩きつけてしまうのではないかと言うような勢いで思いきり頭を下げる。

「……まぁ、まだまだ、これからだからな」

 刺さる。その刺さり方は、いろいろだった。

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて、プロット送って失礼します。帰ったら、飯食って風呂入って寝ます!」

「おう」

「お疲れ様でした!」

「お疲れ」

「お疲れさん」

 少し温くなったミルクティーの残りを飲み干してデスクに戻り、メールにはプロットと呼ばれている日次工程表を最新版に更新して送って、シャットダウン。

 祐巳は見当たらなかったので、付箋に"港さん指示で帰宅。お先に"と書いて貼っておく。

 さあ、帰ろう。

 そして、少し自分とも戦わなければならない。

 明日からの自分を、どう作るか。

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#Functionyou;diVe-Ⅱ "Puzzling" 唯月希 @yuduki_starcage000

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