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 吉見は未だかつてないくらいに、気が重かった。それは今朝から、昨晩から、一昨日から、その前日から、このキャスティングが決まった時からずっとであり、約束の時間が近づくに連れて、重みは増していく一方だった。

 できることなら降りたいくらいだが、そういうわけにもいかない。損な役回りでしかないとわかっていたとしても、こればかりは吉見以上の適役はいないと、吉見自身にもその自覚があった。

 署から出るとそこに、私服姿の皆川が佇んでいた。スカートを穿いた姿をはじめて見る。知らなければ、誰も彼女を刑事だとは思わないような格好。なんというか、女の子している。

「なんで皆川がここにいるんだ?」

「バックレやしないかと思いまして」

「余計な心配しなくていい」

「そうですか?」

 見覚えのあるネックレスが揺れる。

「それに今日、休みだったろ?」

「プライベートの時間をどう使おうと、私の勝手ですよね」

「公私を混同したところでいいことなんて、なにもないぞ」

「それは大丈夫です。私、仕事人間になる気はこれっぽっちもないので」

「わかったよ。移動はバスと電車になるけど、それでもよければ」

「キー持っていますよ、私。上原さんにも許可もらいました」


 カーナビの案内に従って、車は目的地へとひた走る。

「天野さんに、あんなかわいらしい彼女がいたとは。知ってました?」

「いることは」

「それがなんで、こんなことになっちゃったんですかね。意味不明ですよ、私には」

「俺もそうだ」

「執拗な取り調べに対して黙秘し続けるって、どんな気分なんでしょう」

「早く終わらないかな、とか?」

「行為を正当化したり、なにか言い分があってもよさそうですけど」

「さぁ、どうだろうか」

「喋ってくれないんじゃ、それすらわからないですし」

「そうだな」

 取調室のマジックミラー越しに見た彼女は、もぬけの殻だった。

「それにしてもあんな華奢な身体で、見るからに非力な細腕で、現役の警察官がやられちゃうものなのでしょうか?」

 それについては吉見も疑問に思っていた。しかし、当事者である二人がなにも言わないので、答え合わせのしようがない。

「それでも一応は食べ——」

「あのさ」  

「はい?」

「少し静かにしてくれないか」

 話しかけてくれるのは、皆川なりの気遣いなのかもしれないが、今の吉見にとってそれは、ただ鬱陶しいだけだった。

「っかりました。口にチャックしときま~す」

 カーナビの道案内、足元から伝わってくる振動、左右に曲がる際のウィンカーの音。気詰まりな雰囲気に耐えられなくなったのか、皆川はおもむろにラジオをつけた。リスナーから投稿された悩み事をパーソナリティーが読み、応えていくという趣旨のラジオ番組。ありきたりな相談内容を、次から次へと当たり障りなくさばいていく。はがきを読まれたリスナーには、番組特製ステッカーを送りつけていく。


 皆川を車に残して吉見は、先方の待つ建物へと向かう。

 人気のない長い廊下を、目的の部屋を通り過ぎないように進む。部屋の前に立ち、一つ深呼吸した。ドアをノックする。しかし応答はない。腕時計で予定の時間ちょうどであることを確認し、ドアノブを引いた。  

 虚ろな目をした蜂谷が、ソファの真ん中の席に沈んでいる。吉見はそこに蜂谷澪の面影を見た。兄妹なのだから当然といえば当然だが、それだけではないような気もする。

「失礼します」

 なかなか返事が返ってこないので、勝手に向かいに座った。

 警察の協力者から一転、加害者の身内となったために蜂谷は、警察絡みの仕事の一切から外されていた。吉見に課せられた役割とは、事件の顛末を蜂谷に報告すること。この役目は吉見としても、ほかの誰かには任せられない。

 俯いているため、目が合わない。呼びかけにもまったく反応がない。はなっから会話をする気がないようなので吉見は、端的に、事務的に伝えることにした。

 死亡推定時刻の少し前、現場付近のマンションに設置された防犯カメラに、手を繋いで歩いている二人が映っていたこと。

 事件発覚後、一緒に住んでるという女性に話を聞きに、警察官二人が天野宅を訪ねたところ、ドアノブに血痕が付着していた。鍵はかかっておらず、玄関に足を踏み入れると、靴箱の上に血に塗れた刃物が置いてあった。リビングでは、蜂谷澪が血の付いた手でコントローラーを握り、テレビゲームをしていたとのことだった。

 押収したものの中に、連続殺人事件の捜査資料があったこと。それはどういうわけだか千々に破かれていた。けれども、蜂谷澪によってジグソーパズルの要領で繋ぎ合わされ、セロハンテープで貼り付けてあった。可読性を取り戻した資料には、以前蜂谷が作成した例のバーチャルな刃の情報も記載されていた。犯行に使用された刃物は、被害者に刺し傷がきっかり十三箇所あった点も含めて、オリジナルにぴったり一致した。

 犯行のノウハウが詰まった資料がいわばレシピとなり、それに則って犯行に及んだとみられること。

 事件直後に降った雨が痕跡を洗い流したことで、証拠、手掛かりの見つからないこれまでの現場と同様の状況ができていたこと。

 鑑定の結果刃物から、蜂谷澪の指紋及び、天野亮のDNA型が検出されたこと。裏を返せば、二人の生体情報しか検出されなかったことから、天野一人分の立件で調整が進んでいること。

 逮捕以来、蜂谷澪は一言も発していないこと。

「と、こんなところですかね」 

 最後まで、蜂谷の口が開くことはなかった。また、終始表情が変わらなかったので、その虚ろな瞳の奥でなにを思っているのか、わかったものじゃなかった。来た時と変わらず、テーブルの表面を見つめている。  

「では、私はこの辺で」

 吉見はソファから立ち上がる。部屋を出ようとドアの前まで来たところで、

 あの……。

 蜂谷のか細い声が、辛うじて聞き取れたので振り返る。  

「はい、なんでしょうか?」

 顔を上げてはいるものの、蜂谷の視線の先に吉見はいない。

「申し訳ありませんが……ここにはもう、来ないでもらえませんか」

 吉見は、無理矢理に口角を上げて、笑ってみせる。「わかりました。そういうことでしたら、今後はほかの者が伺うよう手配しますので」

「すいません」

「失礼します」

 ノブを押してできた隙間を半身になってすり抜ける。音を立てぬようゆっくりドアを閉める。

「お疲れ様でした」

 ドアの脇に皆川が、壁を背にしてしゃがみ込んでいた。

「よく部屋の場所がわかったな」

「学生さんに訊きました」

「そうか」

 廊下を振り返らずに引き返し、車の助手席に乗り込む。

「真っ直ぐ署に戻りますけど、いいですか?」

「ああ」


「それじゃあ私はここで。お先に失礼します」

 皆川は足取り軽く、警察署の敷地から去っていった。なんでも、これからデートに行くのだそうだ。皆川から受け取った車のキーを弄びながら吉見は、玄関先のわずかばかりの階段を一足飛びする。

 廊下で、階段で、すれ違う署員は吉見のことを見て見ぬふりをする。署内における吉見の動線はほぼ決まっている。煙草が吸える場所を求めて、ひたすら階段を上がっていく。

 風のない穏やかな天気。水溜りは混じり気のない空を映し、煙草の煙はゆるゆる立ち昇っていく。ここでこう煙草を吹かしていると、うっかり話しかけてしまいそうになる。隣には誰もいないというのに。

 事件は別の班にあとを託し、吉見らは引き上げることが決まった。捜査の手はついに犯人には及ばず、尾ひれに触れることさえできなかった。指の隙間からこぼれ落ちていったものは数知れず、掬えたものなどなにもなかった。

 ここにいても、やれることなどなにもない。いるだけでむしろ邪魔になる。できることがあったかもしれない、とは今更思わない。それなのに後ろ髪を引っ張られ、吉見はこの場を動けずにいる。


 この警察署には最上階に留置場がある。用がない限りここに人が来ることはないので、警官が一人詰めているだけだった。その彼に屋上に向かう人がいなかったか訊ねると一言、いましたよ。と、返してきた。礼を言って一段目に足をかける。薄暗い階段を上りきった突き当たり左手側にあるドアノブを握る。鍵はかかっていなかった。

 蝶番の軋む音に吉見が振り返ると、開いたドアの隙間に上原の顔がぽっかりと浮かんでいた。

「ここにいたか」

「ここぐらいしか居場所がないので」

「蜂谷先生のところへは行ってきたか?」

「ええ、行って、伝えること伝えて、先ほど帰ってきました」

「なにか得るものはあったか?」

 吉見は首を横に振る。「もう来ないでほしいと言われました」

「そうか。先生にとっても、予想だにしない出来事だったんだろう……いやでも、そりゃそうか」

 誰がこうなることを想像できたというのか。

 たとえば、コーヒーを飲もうとカップの取っ手に指をかけ、持ち上げかけた時であるとか、タバコを吸おうとライターの火を点けた時なんかに、それは去来する。ふいに懐かしいような、愉しい心持ちになる。知らず知らずのうちに、口の端から笑みがこぼれていたりする。しかし、ふと我に返ると、それはもう取り戻せない過去であったことを思い出し、心を虚しくする。口角に溜まった笑みは誰にも気づかれないよう、袖口でそっと拭う。

「にしても完全黙秘じゃあな、お手上げだ」

 捜査員たちが入れ替わり立ち代わり、蜂谷澪を取り調べた。あの手この手で、口を開かせようと試みた。しかし、そのどれもに対して彼女は、無反応を示した。確固たる意思でもって押し黙っているというより、言葉そのものを失っているようだった。言葉にできずもどかしい思いをしているのは、実は蜂谷澪自身ではないだろうか。今の彼女にとって話すとは、絵空事に近いのだと思われる。複雑微妙な心の機微を表現するに、あるいは、刺した際に触れたリアリティに足る言葉がない。実感と遊離した言葉のあまりの手応えのなさに、戸惑っているのではないか。

「……お~い、吉見ぃ。聞いているかぁ?」

 言葉が広く開かれているのに対して、感情はひどく個人的なもの。まして人を殺すほどの動機が、出来合いの表現で間に合うとは思えない。そういう意味では、沈黙を貫く彼女の態度は、おざなりな言葉で証言するより、よっぽど正直だと吉見は思う。こんがらがっている心のうちをほどいて、また言葉を紡げるようになるには、まだしばらく時間がかかりそうだった。

「なんですか」

「なんですか。じゃないんだ。ちゃんと聞いていたか? 俺の話」

「聞いていませんでした」

「だろうな。さっきからどこか上の空だったもんな、お前」

「で、なんです?」

「俺たちは、逃げ水でも追いかけていたんだろうか。そう言ったんだ」

「そうですか」

「人員を割いて時間も手間もかけて、得るものはなにもなかった。これまでの努力はことごとく水泡に帰して、割れて弾けて肩透かしを食らった気分だ」

「そうですね」

「ただまぁそれでも、わかったことが一つだけある」

「なんですか?」

「わけがわからないということがわかった」

「そうですか」

「思考はてめぇの頭蓋に閉ざされていて、外に出ることは叶わない。ところどころ空いた孔から差し入ってくる感覚が外界を知る全てで、窺い知れないことについては、もはや知りようがない。その証拠に……」

 上原は、一呼吸置いて続けた。

「目の前にいるお前が今、なにを考えているのかさえ、俺にはちっともわかりはしないのだから」

「その言葉、そっくりそのまま、お返ししますよ」

 はっはっは。と、上原は声を出して笑う。 

「減らず口が叩けるようなら、大丈夫そうだな」吉見の右手に目をやり、「煙草も程々にしておけよ」

 じゃあ、俺は先に帰っているから。そう言って、上原は背を向けた。ドアノブを引いて、暗がりに消える。あとを追うように、ドアが一人でに閉まった。

 吉見は、屋上の縁に歩み寄る。錆びてところどころ塗装が剥がれ落ちた柵の外側には、比較的新しいフェンスが巡らされている。以前、ここから飛び降りたやつがいたそうだ。事件がなかなか解決しないせいで、ノイローゼになったらしい。

 フェンスの網目から見える景色は、いつもと変わらない。津々浦々どこにでもあるようなジオラマみたいなパノラマ。これで見納めだというのに、なんの感慨も湧いてこない。

 突如として、サイレンが鳴り響く。下を覗いてみると、またどこかで事件が発生したようだった。赤色灯が遠ざかっていく。おそらく吉見は、その事件には関わらない。

 煙草の先で辛うじて持ちこたえていた燃え殻が、力なく落ちていった。

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