第3話 矢作紗枝

 矢作紗枝は昔から孤独を愛する性格だった。表情が隠れるくらいに漆のような艶を持つ前髪を伸ばし、眼鏡で猫背、いつも独りで本を読んでいるのが、彼女の中学生活だった。

 小学校高学年の時、大きくなり始めた胸をクラスの男子にいじられて以来、めっきりと人が苦手になってしまった紗枝は、中学時代は部活にも入らず、ただ、本の世界に没頭していた。

 きっと、中学二年生で栞を落とさなければ、それは一生のものだったかも知れなかった。


「これ、落としましたよ」

「……あ、あ……あの……ありがとう、ございます……」

「将真! しょーまってば!」

「ああもううるせーよ。聞こえてるっつーのに」


 将真、と呼ばれた男子生徒に拾われ、もしかしたらゴミになってしまうかも知れなかった大切な栞を救われ、紗枝は相手が男性であることも忘れ、しばしその二人を見ていた。

 ――お似合いの二人。片方は生徒会長でもあり、何かと名前を聞く人物、星ヶ丘奈津子、その側にいるのは図書委員長だった潮見将真、よく図書室に足を運ぶ紗枝には馴染みのある人物だった。


「キレイな栞なんだから、大切にな」

「……はい」


 たったこれだけのこと、と言われればそうなのかもしれない。だが、活字と白の紙でしかなかった紗枝の世界は、途端にカラフルに変わった。夕陽のオレンジ、黒の学ラン、上級生を意味する青色の上履き、笑顔の横顔、その時、紗枝の中のすべてが変わった。

 ――だから、彼女はランクを落としてまで、将真と同じ高校を選んだ。図書室で聞いていた名前の高校を一年間、覚えて。


「……ゆめ」


 そこで紗枝の意識は過去から現在へと帰還した。夕焼けの図書館でうつらうつらとしているうちに眠ってしまったらしく、紺色に変わってしまった空を見上げた。

 今でも鮮明に覚えている、将真との出逢いを本を読むようになぞっていく。それだけで紗枝の口からほっ、と優しい吐息が漏れた。

 同時に紗枝の肩に見慣れた、けれど自分のではないカーディガンがかかっていることに気づいた。その左袖を持って口許に近づけると、愛おしい彼の匂いがして紗枝の感情が色を付けていく。


「……来てたんだ。先輩」


 きっと今は本を探しに行っているのだろうと考え、カーディガンを椅子に置いて専門書を取り扱っている本棚へと向かった。

 迷うことなく探している人物を見つけた紗枝は、先輩、と声を掛ける。図書館では静かに、というルールを胸に、弱々しく。

 そんな紗枝の声にも気づいた将真は本を閉じ、彼女の漆のような髪にそっと触れた。


「……おはよ、紗枝」

「……はい。おはようございます」


 たったその仕草と声だけで、ドキっと紗枝は心臓が跳ね、身体が熱くなったのを自覚した。今日はそもそも、。その意味と、それなのに紗枝が寝てしまって、将真は待っていた、という事実が、当然だろうと紗枝を納得させた。

 ――その仕草と声は、いつも紗枝を犯す時に放つものなのだから。けれど、その雰囲気をかき消した将真は苦笑いをしながら本を棚に戻していく。


「つか図書館で寝るなんて珍しいよな」

「……ちょっと、うとうと、しちゃって」

「疲れてる? 呼び出してごめんな、紗枝」

「いえ……わたしは、それがうれしいんですから」


 何故だか引き気味の将真に対して、紗枝は焦ったように将真のシャツに指を絡めた。

 紗枝にとって自分の価値とは、幸せとは即ち、将真に求められることだった。それなのに引かれてしまったら、紗枝は暗闇に独りきりになってしまう。将真という光を知った彼女にとって、それは余りに恐ろしいものだった。


「先輩……っ」

「疲れてないわけじゃないんだろ?」

「……それは」


 午後の講義に体力を奪われてしまったから、疲れていないと言えば嘘になる。だが、それでこのまま何もされずに、というのは紗枝の期待を裏切るものだった。だからこそ、その優しさが、将真の意地悪だということに漸く気づいたのだが。


「今日はもう帰るか。ごめんな」

「……いいえ、平気、ですから、んっ……いつもみたいに……」


 身体を紗枝の方向に向けた将真の手を持ち、紗枝は自分の胸に指を触れさせ、開いた五指を受け入れ、コンプレックスだったたわわな果実を惜しげも無く武器にした。


「そっか……だったら、遠慮なく」

「きゃ……んぅ、や、せんぱい……っ」


 それを待っていた将真に身体の向きを変えられ、後ろから揉みしだかれ、艶かしい声が漏れた。

 他の誰か、と想像するだけで、他の誰かに想像されてると思うだけで身の毛のよだつその行為も、相手が将真なら、三年間で刻まれた快楽に変わる。

 背中に触れる彼の体温、そして、大きく、硬い感触もまた、紗枝の情欲を煽っていく。


「は、ぅんぐ……っ、あ、ふ……」


 そんな声が大きくなり始めた紗枝に、将真はぬるりと口の中に指を二本差し込み口を塞ぎ、舌を弄ぶ。

 そんな加虐的な将真の指を、紗枝は嫌がることなく、従順に受け入れ、体重を預けていく。


「図書館では……静かに、な?」

「んぅ……」


 誰かに見られるかもしれない、聞かれるかもしれない。そんなスリルを、将真は楽しんでいく。弄び、上気した紗枝の頬を撫でていく。

 それはまるで、重い鎖から解き放たれたように生き生きと、饒舌に、笑みをもって映し出していた。


「紗枝」

「……はい」

「紗枝んち、泊まってもいいよな?」

「……星ヶ丘先輩は……?」

「女子会、泊まってかなきゃならんくなったってさ」


 不満げに零した将真は、それでもどこか嬉しそうな響きがある、と紗枝は感じた。

 紗枝もまた、実家から離れての一人暮らしである。将真を追いかけて、少し離れた大学にきた彼女にとって、将真を解放し、彼に求められるためには必要な条件だった。家事を磨き、両親を納得させ、そして、そこは自分が暮らす部屋と、もうひとつの意味を持っていた。


「……お風呂とかは、いいよな?」

「はい……ベッドに」


 同じ間取り、将真が奈津子と二人で暮らすものと同じ部屋を紗枝一人で借りてることに、毎度彼女の家が裕福だということを認識させられ、将真はなんとも言えない感情に囚われるが、それも紗枝の誘惑の前には、消えてしまう。

 ベッドに腰掛け、紗枝はいつものように将真を見上げ、そしていつも同じ言葉を彼にぶつける。


「わたしを……使って、ください……将真くん」


 ――使って、いいから。モノのように扱われてもいい。鎖が重いというなら、せめてわたしだけは、軽く扱える存在でいたい。

 それは紗枝が考えた精一杯の献身だった。手をヒモで縛られ、視界を布で塞がれ、犯される。そんなプレイは自分にしか叶えてあげられない、という事実が紗枝を酔わせた。


「はぁ……ふぅ……しょー、ま、くん……ん」

「紗枝……また胸大きくなった?」

「……この、間……はぁ……はかったら、カップが……」

「ついにG、か」

「口に出さないでください……はずかしい」


 女性間で胸の話題になった時は必ずEカップと偽っている紗枝にとって、やはり大きな胸はコンプレックスだった。

 しかし、彼相手においてのみ、そのコンプレックスは武器へと変わる。


「でも……将真くんは、遠慮なく、使っていいですから……」

「じゃあ、挟んで」

「……はい」


 奈津子はCに近いとはいえBカップで、紗枝に比べてしまえば鷲掴みにした時の質量も、彼の股間に顔を近づけ胸の間に挟み込み、楽しませることもできない。

 ローションを垂らし、舌を出して、全身を使っての愛撫は、紗枝にしかできなかった。

 ――紗枝にしか、この事実は彼女の背を言い知れない優越感が走る程に甘美だった。


「将真くん……どう、ですか?」

「気持ちいよ、紗枝」

「ふふ……よかった……ん」


 昔の、中学生、高校生の紗枝を知る人物は、その変化に驚きを見せていた。なによりも表情が隠れるくらい長かった前髪を切って、メガネをコンタクトに変えて、その容姿を晒していることが、大きな変化だった。

 将真自身もそれを指摘した。そんな将真に紗枝は舌を絡め合いながら、脚を這いまわる手に身体を跳ねさせながら、微笑みながら口にした。


「将真くんのこと、ちゃんと見ていたくて……コンタクトも、外したらぼやけちゃうのが、嫌だったから……」


 それが紗枝の存在理由だった。将真が求めてくれる以上に自分がいる価値はない。将真に愛され、犯され、使われることに価値があると。

 彼女は、たとえ奈津子が気付いていたとしてもこの関係をやめるつもりはなかった。将真が求めている限り、自分は将真のモノだと決まっている、という契約があるのだから。


「……背中のこれ、星ヶ丘先輩の?」

「ん? ああ……奈津子が付けたキスマークだな」

「そう……ですか」


 醜い感情だ、と紗枝は彼の背中で嗤った。嫉妬、独占欲、依存、鎖のような黒く重いその感情を彼の身体に刻み付けている奈津子のキスマークに、そっと触れて、そして舌を這わせていく。優しく、溶かしていくように、そして、全く同じところに紗枝は唇をつけ、吸い付いた。


「紗枝、なにやって……」

「はぁ……ふふ……将真くんを、助けてあげてる……気持ちになってるだけ、です」


 外から見えた景色は同じだ。この痕を見て奈津子は優越感に浸ることに変わりはない。だけど、紗枝と将真はその痕が奈津子ではなく紗枝の唇が生み出したものだと知ってる。それだけで良いと思えた。


「……なら、紗枝にもつけてやろうか?」

「星ヶ丘先輩には、つけないのに、ですか……?」

「アイツは服を脱ぐことが多いから、何処でも見えるんだよ、基本。その点……紗枝はこの辺りなら、露出することないだろ?」

「……あ」


 将真は紗枝を押し倒し、左胸に舌を触れさせていく。空いた手で、紗枝の思考を快楽であやふやにしながら、ゆっくりと痕をつけていく。自分のモノだと密かに所有を主張する。

 ――それは紗枝に嫌がるどころか、最大級の快楽となる。求められている、と感じると同時に紗枝の身体は急速に熱を帯びていくのだった。


「しょ、ま、くん……っ」

「紗枝……実はキスマークつけたときからスイッチ入ってただろ」

「……っ、う、はい……ごめんなさい……ん」

「ダメに決まってんだろ……勝手に発情したら、どうするかは決まってんだから」

「……そう、でした……あっ、お仕置き、してください……将真くん」


 欲望のまま、将真は紗枝を貪る、消費する、犯していく。普段はもの静かな彼女が大きな声で喘ぐ度、仄暗い喜びへと変わっていく。清楚で品のある振る舞いをする紗枝が豹変したあの日から、契約を交わした日から、矢作紗枝という存在は将真にとって、浮気、セフレ、そんな一言では片付けられないものになっていた。


「おいで、紗枝」

「……はい」

「お疲れさま」

「将真、くん……」


 裸のまま抱きしめられ、彼の腕と布団に包まれて、紗枝はその意識を徐々に夢の世界へと旅立たせていった。疲れてしまっていたことも忘れて交わったせいで、もう紗枝の体力はとっくに限界を超えていた。

 ――やがて、かわいらしい、静かな寝息が将真の腕の中でし始め、将真はほんの少しだけ笑みを優しくした。


「……文句くれーさ、言ってもいいと思うんだよ。お前は」


 お疲れさま。なんて愛情の薄い言葉なんだろう、と将真は自嘲した。本当に言いたい言葉は別にあったのに、相手が紗枝で、奈津子という恋人がいて、そんな関係に縛られて、献身してくれる彼女をないがしろにしているという後悔が広がっていた。


「ありがとな、紗枝……愛してる」


 感謝の言葉も愛の言葉も、本心では、起きていなければ、紗枝も奈津子と同じだと言えるのに。奈津子が穏やかでいられるように、自分が情けなくならないように、そんな風に紗枝を消費していることに対して、将真自身で認められていなかった。

 沢山の本を通じて、仲良くなった大切な後輩を、性欲に任せて犯して、割り切らせている自分は、なんてクズなんだろう。自虐が心に広がっていく。そんな時、紗枝が身動ぎをして、より将真に密着した状態でまた幸せそうな寝息を立て始めた。

 ――まるで、いいんですよ。先輩の気持ちは、知っていますから、と言われているような気分になり、将真は紗枝の髪を撫でながら、眠りについた。


「……紗枝」


 抱きしめている、というよりは縋りつくように、彼女を雁字搦めにしていく。雁字搦めになった、糸を切る方法も分からないまま、身体を重ねて、間違いを犯していく中で、大切なものを見つけようともがき苦しんでいた。

 依存していく。嫉妬していく。独占していく。三角関係が始まって三年、大学生活で三人が近くになってからは一年経ち、変わらないまま、関係が続いているのだった。



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恋に堕ちて…… 落合孝介 @pstp42137km_

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