第2話 星ヶ丘奈津子

 星ヶ丘奈津子は、昔からヒトに囲まれる性格だった。その性格は小学生の頃から、そして将真の記憶にあるそれを認識した古いものは中学校の時、思春期で割れた男女の溝を持ち前の明るさで埋めていく姿はまさに橋渡し役だと、遠巻きに見ていた。

 同時にそんな彼女は思春期で恋愛というものに興味を抱いた男にとって、言わば安い女だと思われていた。ルックスも良く、モデルのような細く、そしてすらりとした体型を持ち始めたばかりの中学の頃から同級生だけではなく先輩、後輩、果ては高校生や大学生にまで告白された経験を持ち、中にはストーカー染みた行為に手を染める輩もいるくらいだった。

 それは高校生になっても、大学生になっても変わることはなかった。


「あはは、やめてよ。あたしカレシいるんですケド~?」

「それでも、俺を選んでください、奈津子先輩!」

「……無理だよ」

「そんな……!」


 一年生に告白され、首を横に振ると落胆の表情をされ、奈津子は胸を切り付けられたような痛みを覚えた。

 何度恋人が、将真がいると言っても、こうして定期的にメッセージや飲み会の場、呼びだしや待ち伏せで告白をされる。高校時代にそれに辟易していたことを知っている友人に相談した際に、カレシができれば自然とそういうのもなくなる、というアドバイスを貰ったものの、全くなくならない、と内心で唇を尖らせていた。


「あたしは、しょーま以外恋人にしたいなんて思ったことないし、そんなつもりで仲良くしたワケじゃないよ。ずっと……ずっと前から」

「……わかりました」


 ――わかってないよ、その言い方は。

 今度は思いっきり後輩の前で溜息を吐いた。これは来月あたりにまた告白される、と奈津子は確信した。去っていく背中を見送り、奈津子はそれを忘れたいと願うように趣味でありサークル活動でもあるダンスに没頭した。将真はこの二限にゼミがある。それが終われば昼休みで、その間は誰もが望む星ヶ丘奈津子を休むことができる。将真に甘えることができる。そんな思いで奈津子はステップを踏み続けていた。


「……あ、星ヶ丘、先輩」

「ん? ああ、紗枝ちゃん。二限終わったとこ?」


 モヤモヤとした思いを振り払うようなダンスを終え、汗を拭きながら水を飲んでいると、テキストを胸に抱えた女性が奈津子に声を掛けた。顔の広い奈津子はよく声を掛けられるが、彼女が声を掛けてくるのは珍しいと思いながら笑みを向けた。

 ――おそらく、知り合いの中で一番、星ヶ丘奈津子という人物に憎悪を抱くのは、彼女なのだから。


「おひとり、ですか……?」

「しょーまならゼミだよ?」

「……あ、いえ。そういう意味で言ったわけじゃ……なくて。なにか、嫌なことがあった、という顔をしてました、から」

「……バレちゃってる?」


 危ない危ない、と笑顔を作り、奈津子は紗枝に向き直った。172センチの高身長を持つ奈津子と158センチの紗枝が向き合うと、男女差のような目線になってしまい、奈津子は少しだけ難しい顔をしてから、地面に座りこんだ。


「今は……平気、です」

「そっか。教えてくれてありがと、紗枝ちゃん」


 奈津子が紗枝のことを知ったのは紗枝が大学に入ってからだった。中学も同じだったらしいのだが、関わっておらず、全く記憶にない。そして何より紗枝は奈津子が唯一、将真に紹介されて知り合った人物だった。

 将真の高校の後輩で、彼が所属していた文芸部の後輩。もう廃部になってしまった、たった二人の部活動。その事実は、奈津子の感情を激しく波立たせた。そしてその跡は、今でも残っている。即ち、半ば敵対のような態度をとってしまうのだった。

 しかし、紗枝が相手だと、いつもの自分が形成しきれないが故に、奇しくも大学では数少ない、奈津子の素顔を知る人物でもあった。


「しょーまとは仲良くしてる?」

「……はい。おかげさまで」

「ふふ、まぁその代わりにめちゃくちゃ妬いちゃうケド。紗枝ちゃんも、手出したり誘ったら許さないからね」

「……もちろん、わかっています。将真先輩は、星ヶ丘先輩の恋人、ですから……」

「うん……今年もしょーまをよろしくね」

「はい」


 最大の恋敵。同じ人物を好いていて、同時に信頼もしていた。奈津子も知らないかもしれない将真を、紗枝は知っている気がして、潮見将真という人物のバランスを担う片翼のような信頼感が、奈津子の感覚にあった。


「……ってかやば! もうお昼休み始まってる!?」

「……はい。そうですね。もう……10分近く前に」

「うわ、しょーま絶対怒ってる……! ごめん、紗枝ちゃん! またね~!」

「あ、先輩……行っちゃった……」


 将真から来ていメッセージの返事を送って、奈津子は将真の返事より先に学生ラウンジへと走った。彼の行動パターンから察するに、ゼミが終わっても返事が来なかったことに不満を零しながら友人とご飯を食べるだろう。その推理まかせに奈津子は学生ラウンジへと向かい、そして、すぐに恋人の後ろ姿を見つけた。


「あ、奈津子来たぜ、将真」

「しょーま!」

「……ナツ、重い」


 ゼミが早く終わってしまっていたようで既に食べ終わり談笑していた将真に後ろから抱き着く。こうなってしまうと奈津子は自分を取り繕うことも忘れ将真に甘えてくるのだった。それを将真は冷たくあしらう。奈津子の壊れてしまったバランスを取るように。

 そんな将真の態度に落ち着いた奈津子は、丸テーブルの将真の隣に座り、怒りの表情を向ける彼に肩を狭めた。


「……で? 二限空きだったのに、なんでナツから一切返事が来ないんだろうな?」

「それは……ダンスしてて~、紗枝ちゃんに会って~」

「紗枝に?」

「うん。お話してたら時間来ちゃってさ~」


 意図的に告白されたことは省いた。奈津子自身も忘れたかった、という思いと、将真のまたか、という表情が奈津子は嫌いだからだった。

 その分紗枝の話で追及を逃れようとする奈津子に、溜息を吐いた将真。そんな日常を何度も見てきた彼らの友人は、まぁまぁ、と空気を軽くしていく。


「奈津子だって悪気があったわけじゃないんだからさ」

「航平くん……!」

「航平はナツに甘いんだよ。コイツをチョーシに乗せんな」

「乗ってないし。しょーまこそ、一回あたしが遅刻したくらいでチョーシ乗ってない? いつもどっちが起こしてると思ってんの?」

「……今それはカンケーねぇだろ」

「あるよ」

「……喧嘩すんなよ」


 喧嘩するほど仲が良い、と言われるとはいえ、不穏な雰囲気を公共の場であるラウンジに持ち込まれ、あまつさえ巻き込まれてることに危機感を抱いた航平、有松ありまつ航平は茶色の短髪に切りそろえられた頭を掻きながら苦笑いした。

 大学で将真と同じゼミに入り、講義で奈津子とも知り合いになった一年生からの友人は、二人を見守り、時には口を出して危うくなった二人の仲を取り持つこともあった。


「あたしまだご飯食べてないから、一回帰ろ」

「……わかった。ごめん航平」

「気にすんな! 奈津子も、気にしなくていいから!」

「うん、ありがと航平くん」


 そう言って、奈津子と将真は二人の部屋に戻っていく。もともと、将真はゼミのみ、奈津子はサークル活動のみ、という曜日でもある月曜日は、こうして家で食べることの方が多かった。

 当然、そうなれば先程までの雰囲気も掻き消え、奈津子は将真の首に手を回し、将真も奈津子の髪に指を通していくのだが。


「しょーま……ごめんね」

「怒って……ないわけじゃねぇけど。それよりも航平の前で甘えんのはナシ」

「……うん」


 恋人同士の甘い雰囲気、ほぼゼロに近い距離で、将真と奈津子は誰にも見せない二人を補充していく。

 唇で、指で、舌で……まるで貪るように。そして透明な糸が切れて、熱のこもった視線をぶつけ合う。


「……ん、しょー、まぁ……ん」

「ほらナツ……先にシャワー浴びてこい」

「……臭い?」

「それよりもめっちゃしっとりしてる」

「……行ってくる」


 将真に優しく促され、奈津子は既にのぼせてしまいそうなくらいに火照った身体を引きずり、脱衣所でダンスの練習用のシャツとジャージを脱ぎ、先回りして給湯のガスをつけてくれた将真に感謝をしながら少しだけ温度の高いシャワーを浴びていく。

 ――きっと汗を流している間に、簡単な料理も作ってくれているに違いない。そう思うと切り付けられていたはずの胸がじんわりと温かくなった。


「しょーま、あたしの、しょーま……」


 聞こえないだろう、と思いながら奈津子は曇った鏡に向かって呟いた。

 どうしようもなく優しくて、時々ドライだけれど、とても暖かな彼に包まれて、奈津子は以前よりも八方美人な自分が嫌いでなくなっていた。

 その代わりに独占欲が強く嫉妬深い部分を嫌いになってしまったが。考える度に将真への熱に変わっていくと、その嫌い、という気持ちも忘れてしまえた。


「……えっち、したい」

「いいけど」

「ホント……って、え、あれ?」

「……なんだよ。メシが先ってならそれでもいいけどな」

「あ、う……なんでいるの?」

「なんで? 誰かさんが着替えを忘れてシャワーを浴びてるっつーのに、なんでと問うか」

「……ごめん」


 ずっと聞かれていたことに対して奈津子は頬を染めた。そんな羞恥を感じてか否か、将真はシャワーと湯煙に包まれた浴室のドアを開けて、服を脱ぎ捨てた。

 熱いシャワーを浴びながら、それよりも更に熱を感じる舌を、奈津子は受け入れ、溺れていく。


「しょー、ま、んっ、しょーまぁ……」

「このまま……ここでするのか」

「うん……ほしい。しょーまが、ほしいよ」


 声の響く浴室で、触れる度に、艶やかな吐息と嬌声を上げる奈津子に、将真もまた溺れていく。

 どうしようもなく将真を突き動かすものは、星ヶ丘奈津子のカラダを、欲求に任せるままに嬲れるという優越感。誰もが押せばいけそう、とせせら笑いながら誰も手を出したことのない、出せなかった人気者に、欲望を突き立てることのできるという特権のような優越感を感じていた。


「準備万端、だな」

「うん、きて」

「……でもゴムねーから、続きはベッドでな」

「ここまでシて……? しょーまのいじわる」

「はいはい、イカせてやってるだけマシだろ?」

「まだ足んないもん」


 そしてまた、奈津子を突き動かす欲望も、優越感だった。素顔の自分を認めてくれる幼なじみが、女としての自分に魅力を感じてくれるという優越感。人との付き合いで必ず最後に線を引く将真が、ゼロ距離まで踏み込んでくれるという特別に、奈津子は言い知れない快楽を見出していた。

 髪の毛もロクに渇かさぬまま、将真が奈津子のためにと作りかけていた昼ご飯もそのまま、奈津子は将真のケダモノのような性欲に負けるフリをしていく。


「アト、つけていーい?」

「見えるとこはダメって何度言えばわかるんだよ」

「……見えるトコにつけたい」


 ――キスマークを付けるなら矢作紗枝に見えるところに。紗枝が気付くところにつけてやりたい。いくら将真に許されていると言っても、いくら人との付き合いに線引きをする将真がずっと一緒にいた後輩だと言っても、いや、だからこそ、思い知らせてやりたい。


「あたしのしょーまです……みたいな」

「キスマーク一つでわかるなら、苦労はしねーな」

「じゃあ、背中」

「……まぁ、それくらいなら」


 肩甲骨の辺りなら見られることも殆どないだろう。せいぜい体育科の講義とアルバイトの時くらい。後はそれこそ、奈津子と……紗枝くらいしか見ないだろう。そう割り切って将真は奈津子に背を見せた。

 そこに、奈津子は舌を這わせ、唇をつけて、吸い付いた。愛おしいものを口に吸引していくように、何度も、浅黒いアトが付くまで。


「ナツ」

「……えへへ~、二つもつけちゃった」

「すぐナツは変態になるな」

「変態はしょーまでしょ……眼、ギラギラしてるじゃん」


 カーテンを閉めて、それでもやはり暗く成りきらない昼間のベッドでまるで深夜のような営みを、二人は繰り返す、お互いの快楽のクセを知っているが故に、その行為は将真が奈津子を嬲り、堕としていくというものになっていく。


「はぁ……はぁ……まだおっきくなってる」

「収まるわけない……まだ時間あるし……ナツ」

「……うん。あ、んぅ……んぐ……ぷは、口ん中入んないじゃん」

「でも、シてくれるんだろ?」

「もち……ごほーし、してあげる」


 飾りのない、ありのままの奈津子は将真を常に求めている。無意識のうちに将真を恋情、欲情、嫉妬、独占欲、さまざまな感情で縛り付けていく。

 ――奈津子もそれを望んでいるが故に。常に将真の感情に縛られていたい、と感情の鎖を手に将真に迫る素の奈津子を、将真は丁寧に首輪をつけ、なんとか制御していたのだった。


「しょーくん、しょーくんっ、すき、すきすき……ぃ、もっと、もっとして……」

「ナツ……っ」


 三年前、その熱烈な、いっそマグマのようにどす黒い恋情を向けられた時のことを、将真は行為中に思い出すのだった。

 あたしは、将真がいないとダメなの、将真が、将真じゃないと。そう告白した彼女の言葉は、ただ一時の感情ではないことも、同時に思い出し、その鎖の重さを実感するのだった。







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