負けてきなさい。
凪
負けてきなさい。
――負けてきなさい。
ふいに、あのじじいの言葉が頭をよぎる。
28メートル先には黒と白の円が交互に描かれている
あの的に当てるのは簡単だ。そう、いつものオレなら100パー当てられる。
それなのに、あのじじいは、負けて来いって言ったんだ。弓道大会では負けなしのオレに向かって。
あのじじいに会ったのは一カ月前だ。
近所の弓道場に、部活の仲間と稽古をしに行った。区営の道場は、じじいとばばあがいつも居座っていて、オレらにうるさいことを言って来るから、ホントはあんま使いたくない。
でも、中学校選手権大会の選手に選ばれたから、部活以外の時間も稽古したかったんだ。
オレはその日も絶好調で、9割当てていた。社会人は、5割も当てられないヤツばっか。「外しに来てるの? それ、面白いの?」って感じで見てた。
でも、下手なヤツらに限って、オレに向かって「体配がー」とか、「手の内がー」とか、ごちゃごちゃ言って来るんだよ。
ムカついてたら、あのじじいが「他の道場の生徒に教えるんじゃない」って、大人たちを叱ってた。
そのじじいは「吉田先生」って呼ばれてた。範士の先生らしい。へえ。範士の先生の射を間近で見るなんて、初めてだ。
じじいの射は、今まで見た射の中で、一番うまかった。弓道歴2年目のオレでも、それぐらいは分かった。
迫力があるし、当たりも100射100中って感じ。しかもど真ん中に。
オレは興奮して、思わず「引き方を教えてください」って言ったんだ。
そしたら、驚いたような顔で、「君には教えてくれる先生がいるだろう。その先生に教えてもらいなさい」と言われた。
それで、部活の先生も先輩たちもオレより全然当たらないって話をした。その話を聞くうちに、じじいはどんどん渋い顔になって、「私には君を教えられない」って、帰っちゃった。
ムカついたけど、あのじじいのような射をできるようになりたくて、道場を探して入門させてほしいって頼みに行ったんだ。
それなのに、「君には教えられない」って拒否られてばっか。
3回目に行った時に、「それなら、次の大会で負けてきなさい」って言われたんだ。
なんだよ、それ。今度の大会は団体戦だから、オレが負けたらチームが負けちゃうんだって説明しても、「君は一度、負けなければならない」って言うしさ。
ムチャぶりすんなよ、じじい。
「柳沢っ」
背後から小さな声で呼ばれて、ハッとした。
どうしよう。オレが外したら、後ろのヤツらもきっと動揺して外す。そうしたら、チームは予選敗退だ。
弓を打ち起こす。心を鎮めようって思ってもダメだ。あのじじいの言葉が、繰り返し蘇る。
オレは、当てられるんだ。それなのに、外すのか?
弓を引き分けて、
さあ、どうする。28メートル先には的。当てたら、勝てるんだ。
バシッという鈍い離れの音と共に、矢は的から10センチぐらい上に外れて刺さった。
後ろで引いてる高瀬が動揺した空気が伝わってきた。客席の部活の仲間も、静まり返っている。
オレは四射とも外した。
一本ぐらい当てようかとチラッと思ったけど、グッと堪えたんだ。
思ってた通り、一緒に引いてた仲間は動揺して、外しまくった。十二射中、三射しか当たらない、大惨敗だ。
「柳沢、どうしたんだよ。昨日までは普通に当たってたのに」
二射当てた高瀬が、信じられない、という顔でオレを見る。
「具合悪いのか? それなら、始まる前に言わないと」
「いや、そういうんじゃなくて」
説明しようがないから、困る。
客席からは、他の学校の応援団の歓声が聞こえる。道場の外に出ると、部活のみんなが微妙な顔をして集まっていた。
「柳沢は、今日は緊張してたのかな。まあ、そういう時もあるよ」
顧問の水野先生がフォローしてくれる。
いや、わざと外したんです。
さすがに、そんなことは言えない。
「ごめんなさいっ」
オレは深々と頭を下げた。悔しい。恥ずかしい。いつもなら、オレが頭を下げられる側なのに。それで、「いいよいいよ、次頑張れば」って言ってあげてた。
顔を上げて、みんなの表情を見てオレは凍りついた。
あきらかに、軽蔑してる目――。
誰も、「いいよ」とも、「気にしないで」とも言ってくれない。唯一、水野先生だけが一生懸命、慰めてくれた。
そうか。オレ、いつも「当てられないのが不思議」「離せば当たるもんなのに」って言ってたっけ。オレは、いつも、あんな目でまわりを見てたのか。
部活の仲間だけじゃない。道場で出会った社会人のことも、オレはいつも心の中でバカにしてた。
――君は一度、負けなければならない。
何となく、あの言葉の意味が分かった気がする。
オレはもう一度みんなに頭を下げて、弓を持ってその場を離れた。
悔しくて恥ずかしくてみっともなくて、涙が出て来る。くそっ。
吉田先生のところに行こう。負けてきましたって、一から教えてくださいって、お願いするんだ。
今のオレには、それしかできねーよ。
負けてきなさい。 凪 @nagi77
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