無明の剣

和泉茉樹

無明の剣

     ◆


 もうよかろう、という言葉は、待ちに待った言葉だった。

 道場で向かい合っている男、師は、険しい目元で、こちらを睨みつけている。

「私の全ての技を、お前に伝えた」

「では」

 僕はすっと身を引いて、思わず瞑目した。

 免許皆伝。それだけが、いつからか僕の唯一の目標だった。

 目の前にいる師と僕の関係はどうでもいい。親子にしては年が離れすぎ、そしてまるで似ていない。そしてこの道場にいる女は、まだ幼い下女だけだった。

「ありがとうございました」

 目を開き、頭を下げた。

 僕の技量、技の高みを測る術は、師との手合わせ以外、無い。でも今、師が寸前まで持っていた木刀は、道場の隅に転がっている。一方、僕の手には木刀が強く握られている。

 実力では、僕が上だ。

 そして師は並みの使い手ではない。

 かつてこの一帯を統治する一族に武術師範として仕えていたのだ。

 そこに僕が代わりに立つことも、難しくない。そう思うと、未来が開けるような、視界が急に眩しく輝くような、そんな気がした。

 眉間に深いシワを刻んだ師が、僕に背を向けて、壁に掛けられた刀を取りに行った。てっきり忘れているのかと思ったほど、師がその剣を手に取ったところを見たことがない。

 今でも切れるのだろうか。

 刀をわずかに鞘から抜いている師の背中を見た。

 その背中から発散されているものはなんだろう? 自分の技術を伝えきった達成感でも、自分が誰かに負けた落胆でもない。

 全く正体不明の気配だった。

 それが何を意味するか、吟味したかったけど、「こちらへ」と呼ばれ、僕は静かに歩み寄った。師が音を立てて、刀を鞘に戻した。

 声をかけようとした。

 目の前で師の体が回転する。

 何が起こったか、わからなかった。

 何かが視界を右から左へ駆け抜けた。

 そうして僕は、一切の光を失った。


     ◆


 俺は夏の日差しに思わず手をかざしつつ、街道から二本も三本も離れた道を歩いていた。

 田畑の間を抜ける道ですれ違うのは、農民が多い。中には僧形のものもいる。この道の先には山があり、その山頂に祠だかがあるという話だ。あまり興味もないが。

 その祠だか神社だか寺だかに関係する小さな村が麓にあるという。

 実際、半日も進むとその村が見えた。全部で五十戸ほどの集落に見える。まだ夕暮れというほどではないが、宿を探す必要がある。

 と、足元で小さな音ともに草鞋の鼻緒が切れた。くそ、まだ買って間もないのに、安いものを買ったのが失敗だったか。

 村に入ったところで、すぐそこに商店が見えた。表には「茶」と「団子」という旗が出ている。茶屋のようだが、軒下に無数に草鞋がぶら下がっていた。竹細工も見える。なんでも売っているんだろう。

「ごめん。草鞋をくれ」

「あい、失礼いたします」

 出てきた少女が止める間も無く、かがみこんで俺の足に触れ、跳ね上がるように立ち上がると、草鞋を一足、出してくれる。触れただけで大きさを測ったのだろう。

 意外に商売慣れているな、と感じた。俺は背丈が高いこともあり、足も普通の男よりもふた回りも大きい。草鞋を買うにも苦労するのだ。

「茶をもらえるかな?」

「あい、お待ちください」

 通りに面して出されている腰掛けに腰を下ろす。ギシッと軋む。今にも壊れそうだ。

 しばらく通りを眺めていると、老人が一人、こちらへやってくる。視線を全く周囲に配らないのに、まるで不自然さを感じさせない足取りで、近づいたところで店にいた少女が飛び出して行き、手をとって、俺の隣に座らせた。

「団子と茶をおくれ」

 老人は意外に滑舌よく、そう言った。少女が店の中に戻り、出てくるときにはお盆に小さな湯飲みを載せていて、それが俺に手渡された。

「ありがとう」

「いえ、ごゆっくり」

 少女が店の中に戻る。その背中を目で追うと、建物の奥から香ばしにい匂いが漂ってくる。団子か。俺も頼めばよかった。隣の老人に出されるものを見て、食べるかどうか決めよう。

 少女がまたやってきて、老人の横、俺と老人の間にお盆を置き、老人に湯飲みを手渡した。

 お盆には質素な木皿の上に二本の団子があった。うん、見た目は悪くないな。

「すまん、俺にも団子をくれるか」

「あい」

 少女が店の方へ駆け戻っていく。俺は湯飲みを腰掛けにおいて、団子を待った。

 老人が湯飲みを腰掛けに置き、まるで手探りのように団子の皿を手に取ると、どこか覚束ない動きで串を掴み、団子を食べ始める。

 美味そうだな。

 老人が二串をペロリと食べ、湯飲みを手に取る。

 が、その湯飲みは老人の湯飲みではなく、隣にあった俺の湯飲みだ。

 制する間も無く、老人はその茶を飲み干し、懐から銭を取り出すと、腰掛けにそっと置いて、立ち上がった。

「ごちそうさま」

 老人が店の方をちらりと見る段になって、やっと俺は気付いた。

 老人の目はひどく濁っている。あれでは何も見えないだろう。盲人なのだ。

 俺が見ている前で、老人はゆっくりと杖をついて去って行った。歩き出すと、少しも危なっかしい感じがないのが不思議だ。

 店の少女が団子を持って出てきて、老人の湯飲みに茶が残っているのに気付いた。二つの湯飲みは色が違う。少女が恐縮したように、

「代わりをお持ちします」

 と言って、湯飲みを手に取る。代わりに俺は団子の皿を受け取った。

「茶は気にしなくていい。この村でどこか、泊めてもらえる場所があるかな?」

 少女が通りの先を指差した。

「この先に、繭屋という旅籠があります。部屋が空いていると思います」

「そうか」

 団子を一串、さっさと頬張り、もう一串は手に取った。串をくわえて、空いた両手で財布の中から銭を出して少女に渡した。

 草履と一杯のお茶、二串の団子でも、安いものだ。

「お侍さんも、無明さまをお訪ねですか?」

 堪えきれずに、という感じに少女が訊ねてくる。

「無明剣、と聞いていた。興味はあるな」

 串を片手に、思わず笑っていた。

「何せ、目が見えないのに相手を切るという。どういう技なのかな」

 少女は真面目な顔で、しかし声を潜めて応じた。

「あの方は特別です」

 なるほど、特別か。

「帰りにもここの団子をもらうとしよう」

「ありがとうございます」

 俺は少女に見送られて、旅籠へ向かった。


     ◆


 旅籠を出たのは早朝で、朝食は簡単な粥だった。よく知らない菜っ葉を刻んだものが入っていて、小皿で漬物が添えられていた。

 まだ人通りの少ない通りを山の方へ進む。少しずつ傾斜が意識され、村を抜けると周りは雑木林だ。しかし道は人が頻繁に通ることがわかる。草も生えず、砂利も少ない場所が帯のように続いている。

 道は山をぐるぐると巡っているようだった。

 と、木立の向こうに建物が見えた。何かの音が聞こえる。

 あたりをつけた脇道を入っていくと、その建物が近づいてきて、道場だとわかった。

 看板も何もないが、中に人がいるのははっきりわかる。掛け声が聞こえるからだ。三人ほどか。

 道場の玄関の引き戸は開け放たれ、俺はさりげなく奥に入ることができた。

 木刀を持った三人の男が、声を合わせながら、素振りをしている。一人が俺に気づき、動きを止めると、二人も動きを止めた。

「失礼、少し見学させてください」

 三人は戸惑った様子もなく、誰からともなく動きを再開した。

 木刀が空気を裂く音、床のきしみ、汗の気配、熱気。

 どれも懐かしさを呼び起こさせる。俺が育った場所の空気だ。

 稽古が終わると、三人のうちの二人は道場の裏へ行った。汗を流すのだとわかった。残った一人が指導者だろうか。

「無明剣さまにお会いしたいのだが」

「お名前をお伺いします」

「俺は、スマと言います」

 目の前の男は体格がいいし、木刀を振る様子もさまになっていた。だが、並みの使い手の域を出ない。

「呼んで参ります」

 男が一礼し、道場の奥へ入っていった。

 さて、どんな相手が出てくるのやら。

 俺は勝手に道場に上がる気になったが、足が汚れている。これも勝手に、道場の裏へ回った。案の定、井戸があり、そこで二人の男が体を拭っているところだ。

「すまないが、足に水をかけてくれ」

 二人共が胡散臭そうにこちらを見るが、片方が井戸で水を汲んでくれる。

「草鞋に構わず、かけてくれ」

「へい」

 短い返事の後、俺の足に水がかけられた。

「ありがとう」

 俺は玄関の方に戻った。まだ誰もいない。

 上がり框に腰掛け、懐から出した手ぬぐいで草鞋を脱いだ足を拭った。

 上がりこんで、壁に掛けられている、門人の名前らしい木札を眺めているうちに、さっきの男が戻ってきた。

 背後に一人、男がいる。ひっそりとした気配だ。

「初めまして、スマと申します」

 一応、頭を下げる。

 頭を上げた時、例の男が伴った男が道場の真ん中に立っている。年齢は四十ほどか。

「ヨナです。スマ殿、どちらからおいでかな?」

 瞑目しているように見える男、ヨナの問いかけに俺は答える。

「北の、名もなき土地です」

「旅をしておられる?」

「あなたの噂を聞いて、寄り道をしたのです」

 ヨナを案内してきた男が、壁に掛けられている刀を手に取り、彼に手渡した。

「お待ちください、いきなり真剣とは」

 反射的に俺から言っていた。真剣での立ち合いに臆するものはないが、相手の力量がわからないのでは、やりづらい。

 俺の力量が足りずに敗れるのは納得できるが、目の前の男が期待外れで、俺があっさりと斬り伏せては、後味が悪い。

 腕試しを所望しているが、俺は何も、誰彼構わずに切りたいわけではないのだ。

「私は真剣でのみ、手合わせをします」

 ヨナは譲る気はないらしい。強い口調だった。

 門人の男を見ると、無表情だ。

「良いでしょう」

 俺はすっとヨナの前に進み出た。すでにヨナは刀を腰に差し、柄に手を置いている。

 隙がないどころではない。

 どう見てもヨナは無防備だった。

 彼の顔がよく見えた。

 両目は閉じられている。一文字に傷跡があり、明らかに両目が潰れている。

「かかってきなさい、スマ殿」

 気後れする心情もあるが、もちろん、手加減する気はない。ゆっくりと、刀を抜いて構えた。

 間合いを測る。足元で相当古いらしい床が軋む。

 ヨナはまだ剣を抜かない、だが、こちらに正対するようにはしている。

 目が見えないはずだが、何か、別の感覚があるのか? どんな感覚だ?

 音だろうか。足音を消すように意識する。ゆっくりとヨナの左側へ一歩、また一歩と進むが、ヨナは俺を正面に置き続けた。

 不可解、不可思議な事態だった。

 見えず、聞こえないのに、なぜこちらが見えるのか。

 まだヨナの雰囲気には張り詰めたものがない。油断はしていないようだが、だが、備えているようでもない。

 この男は、俺の理解の範疇を超えているのだろうか。

 試しに踏み込んでみる気になった。

 床を蹴り、滑るようにさらにヨナの左側に走る。刀を抜いていない以上、居合でくるのはわかっている。左側に位置取られるのは、嫌なはずだ。

 一瞬だった。

 床に転がり、姿勢を整えた。

 ヨナが抜刀して、今はほぼ正眼に刀を構えている。

 俺の顎に小さな痛みが走る。ほとんど切られていない、掠めた程度だ。

 だが、ヨナは明らかに俺の動きを読んでいた。

 無駄のない反撃が、間合いに飛び込んだ俺に、突き進んできた。

 俺を救ったのは、ヨナの出方を見る、という消極性だったようだ。

 もし一撃で倒そうと深く踏み込んだり、一撃必殺の打ち込みをしていれば、居合の早さに敗北していた。

 敗北とは、つまり死だ。

 俺は油断なくヨナを見たが、彼は動かない。先ほどと全く変わらないところに立ち、こちらを正面においている。

 不気味だった。

 立ち上がり、俺は刀を構え直した。構えを変えるが、ヨナは不動。

 まるでそういう彫像のように、動かない。

 このまま攻め立てる気にはなれなかった。

 彼は目が見えない。でもまるで見ているように振る舞う。現状では見えているのと同じことで、突き詰めれば、目ではないもので見ているのではないか。

 それが何なのか、探る必要がある。

 どこかに仕掛けがあるのだ。

 足元で床が軋む。

 するするっと俺は間合いを消した。

 刀を振るうのはほぼ同時、いや、ヨナが早い。

 刀がすれ違う。

 パッと二人が同時に離れる。

 どちらも傷を負っていない。

 互角、か。

「これまでにしましょう、スマ殿。あなたの技量はよくわかりました」

 ヨナの方から切っ先を下げ、刀を鞘に戻した。

 俺は思わず睨みつけたが、相手の両目がないのでは、睨む必要もない。

 しぶしぶ、刀を鞘に戻す。

「筋の良い太刀を使われる」

 門人の男が付き添い、ヨナがゆっくりと腰を下ろしたので、俺も向かい合って座った。

「太刀筋が見えるのですか?」

「感じることはできます。あなたの気迫は本物だ。手足が震えるほどの、強い気を放たれる」

「気迫で相手を切る技はありません」

 思わずそう言い返しつつ、俺は自問していた。

 ヨナの剣に気迫はあったか? なかった。だから怖いとも感じない。

 ただし、刀を振る瞬間には、強烈な殺気があった。

 おかしな二面性である。

「十人以上を切っていると聞きましたが」

 俺の方から訊ねると、さすがのヨナも表情を改めた。

「私を切ろうとするものだけです。私を切ったところで何も得がないのに、挑んでくるものは後を絶たない。手合わせを真剣でのみにしたのも、そのためです。スマ殿のように真剣を恐れないものは、少ないのです」

 それでも十人を切るとは、並みの腕ではない。

 世が乱れているは数十年前なら、まだあっただろう。だが今は平和な時代だ。

 剣術など、嗜みに過ぎないし、それで身を立てるものなど稀だ。

「ヨナ殿が切れなかった相手は、何人ですか?」

 興味本位の問いかけに、まさに興味本位だと気付いたのだろうヨナが、くすくすと笑う。

「スマ殿と、こちらにいるエンホ、そして私の師です」

 エンホというのが門人の名か。しかし、三人だけか? 本当だろうか?

「エンホ殿も相当な使い手なのですか?」

 これは誘いだった。エンホは動きの端々からして、並みの使い手だ。

 困ったような顔になり、ヨナが答えた。

「エンホは私の唯一の弟子です。切るわけにはいかないのです」

「なるほど」

 思わず笑い声を上げてしまった。

「スマ殿、私の代わりにエンホに稽古をつけていただけませんか?」

 わずかに、ヨナが身をこちらへ乗り出す。

「若いが、真面目で愚直な男です」

「それはヨナ殿がやれば良いではないですか」

「私はこの通り、目が見えませんので」

 しかし先ほどの動きは、まるで見えるようだった。

 エンホを伺うと、彼が頭を下げてきた。

 仕方ないな、こういうこともある。

「少しですが、お手伝いします」

 ヨナの口元が、穏やかな笑みを浮かべた。


     ◆


 エンホの腕はやはり並み程度だった。

 怪我をしない程度の実力があるが、木刀だから打ち身で済んでも、真剣ならもう何度も死んでいる。

 ヨナが見ている前、というのもおかしいが、彼の目の前で、俺は何度かエンホを打ち据え、彼の息が上がったところで、稽古を打ち切った。

 少し覚束ない足取りで、エンホが道場を出て行った。井戸に向かったんだろう。

「私には何も見えません」

 ヨナが声をかけてくる。

「もし見えていれば、彼にもっと何かを伝えることができるのですが」

 相手が見えない、というのは、確かに何かを教える立場では不利だろう。不利どころか、困難が過ぎる。

「俺の動きは見えたのに、ですか?」

「真剣を持つと、気持ちが変わるのですね。血が騒ぐ、とでも言いますか」

 冗談で誤魔化されているな、とは思ったが、俺は「ありそうなことです」と応じておいた。

 たまには少しくらい稽古をするか、と木刀を持ったまま、道場の真ん中に立った。

 ゆっくりと、修めた剣術の型を始める。門人ではない剣士に見せるのは躊躇われるが、ヨナは目が見えないのだ。構うことはないだろう。

 様々な動きを繰り返し、最後にピタリと足を止める。

 何か、違和感があった。いや、俺の剣術には少しも乱れはない。何がおかしい?

 もう一度、繰り返そうかという時に、エンホが戻ってきた。

「スマ殿、汗を流されては? 手ぬぐい程度しか、用意できませんが」

「ああ、それは助かります」

 木刀をそっとヨナの前に置く。彼はちらりともこちらを見なかった。もちろん、見えないのだから、仕方ない。ただ音で俺の位置はわかるように、かすかに頭を動かした。

 エンホとともに先ほどの井戸端へ行き、汲んだ水で手ぬぐいを湿らせ、体を拭いた。玄関で足を拭った手ぬぐいも洗うことができた。

「スマ殿は剣術をおいくつから?」

 好奇心に負けたらしい、そばにいたエンホが訊ねてくる。

「三つ、と師匠には言われてましたが、覚えていません」

「やはり、先生も同じようなことをおっしゃっていました」

「ヨナ殿がですか?」

 はい、とエンホが頷く。

 だがそこで話は終わってしまった。

「無明さま、と呼ばれていますね?」

 こちらから訊ね返すと、エンホは少し自信を滲ませて、笑った。

「無明剣、とも呼ばれております。目が見えない、明かりがないのに、相手を切る剣です」

 俺がここにきたのも、その噂のためだった。

 目が見えない剣士がいる。それだけなら噂で済んだが、一国の剣術師範を切った、とも言われているとなると、放っておけなかった。

 あの剣術は確かに、異質だ。剣が抜かれた時には、総毛立つほどの鬼気があった。

 しかし何か違う。

 噂で聞いたような、完璧なものではない。

 何が違う? 水を汲んで、顔を洗った。でも何も浮かばない。

 何か腑に落ちないものを感じつつ、俺とエンホは道場に戻った。ヨナはさっきと同じところに腰掛けている。

「ヨナ殿、お手合わせできたこと、感謝します」

 頭を下げるが、彼には見えないだろう。

 俺の顎を伝って、顔を洗った時に拭えなかったらしい水滴が、道場の床に落ちた。

「しばらくここに留まっては?」

 ヨナの方から、そう提案してきた。だが、それは俺の目的とは違う。

「いえ、俺は、手合わせできたことで、十分です。ヨナ殿と俺の剣は全く違う」

 もう一度、頭を下げ、礼を言おうとした。

 床の上を水滴がゆっくりと流れていく。

 流れていく?

 ……弾かれたように、思わず顔を上げていた。エンホが不思議そうな顔でこちらを見て、ヨナはもちろん、俺に気付いていない。

「ヨナ殿」

 平静を装うのに苦労した。

「もう一度、手合わせしていただけますか?」

「拾った命を捨てるつもりですか? スマ殿。もうやめましょう」

「いえ、ぜひ。もう一度。切られても、構いません」

 さすがに逡巡したようだが、ヨナは立ち上がった。

 エンホが壁から刀を取ってくると、ヨナに手渡した。そのままエンホに導かれたところに、ヨナが立つ。

 俺は間合いを取って、刀を抜いた。

 ヨナは剣を抜かない。居合だ。

 俺は右手で刀を持ったまま、左手で鞘を腰から抜いた。

 誰も何も言わなかった。

 声を上げる前に、俺の左手が鞘を思い切り道場に床に突き立て、鞘の先が床を貫く。

「あっ!」

 エンホが声を上げた時、俺は強く床を蹴って、ヨナに飛びかかっている。

 居合が、迸るように振り抜かれる。

 しかし、わずかに逸れていた。

 俺の一撃が、ヨナを切り下げていた。

 着地して俺のすぐそばを血飛沫が走り、床で小さな音をたてる。ゆっくりとヨナが後ずさり、倒れた。

「これを、待っていた……、やっと、です……」

 倒れたヨナが、呟いた。喚き声を上げて、エンホが駆け寄り、彼の胸の傷を押さえているが、致命傷だ。

「最初に俺を切るべきだった」

「まさに……、その、通りです」

 かすれた声で、ヨナが応じる。

 この道場自体に、仕掛けがあったのだ。

 ヨナが立っていた場所は、道場の真ん中、そこにいる限り、ヨナは道場の中にいる相手の位置が、はっきりと感じ取れた。

 この道場の床は、わずかに撓む。真ん中に立っていると、道場にいる人間の立っている位置が、その撓みにより理解できるのだ。

 俺が自分の技を訓練した時の違和感も、そこから来ていたと、今ならわかる。

 本当にかすかな、微妙な感覚だ。

 あるいはヨナが両目の視力を失ったがために身につけた、新しい、目の代わりになるものだったかもしれない。

 だから、俺が初めてここに立った時には、ヨナには視力の有無は、どうにか凌ぐ有利が確かにあった。手の内を見せては、ヨナは俺に勝てる剣士じゃない。あの時、俺を一撃で仕留めていれば、今の事態は起こらなかった。

 二度目の手合わせで、俺の刀の鞘が床を貫くことで、ヨナの感覚は決定的に狂ってしまった。

 俺はその鞘を引っこ抜いて、雑に刀を納めると、腰に差した。

「誰があなたの目を?」

 ヨナに問いかけたが、返事はなかった。すでに息絶えたのだろう。エンホが大声で泣き叫ぶ。

 俺は構わずに背を向け、草鞋をつっかけて外へ出た。

 夕暮れが、木立を真っ赤に染めていた。


     ◆


 繭屋で二度目の夜を過ごし、二日連続で似たような粥で朝食をとった。漬物も変わらない。

 すぐに外へ出て、例の茶屋に立ち寄った。

「あら、お早いことで」

 例の少女の母親らしい女性が店の準備をしている。

「茶を一杯と、団子をくれ。あと草鞋も」

「へい、お待ちください」

 女性が少女と同じように俺の足に触れ、店の奥へ行った。

 すでに出されていた腰掛けに座ると、すぐにお茶が出てくる。

「なんでも、無明さまが切られたとか。ご存知ですか?」

 女性が店の方へ戻らず、俺の横に腰掛けた。親しげというか、まるで旧知のような対応だ。

「知らないな。有名な方かな?」

「剣術指南をされた、一閃華さまのお弟子ですよ。一閃華さまがどこかから連れてきた子どもでね、幼い頃から仕込んだそうです。でも両目を怪我されて、それでもお強かったのに、どこのどなたが切ったのやら」

「どうして両目を怪我されたのですか?」

 素知らぬ風に質問すると、女性がわずかに声を潜めた。

「どなたかに切られたという噂です。なんでも腕試しで負けた腹いせとか」

 それはまた、残酷な腹いせもあるが、ヨナが簡単に切られるわけもない。

 店の奥で男の声がする。団子が焼ける匂いも漂ってきた。女性は「お待ちくださいね」と店の奥に消えた。

 俺は茶を啜りつつ、考えた。

 一閃華。その名前が俺をここへ呼んだ、理由の一部のようなものだった。

 この辺りで名を馳せた剣豪だった。まだ乱世の頃に、だいぶ人を切ったらしい。一国の剣術師範とされたが、その職を辞して、弟子を育成した。

 もう一閃華については何の噂も聞かないが、ヨナがその弟子だろうと、俺は勝手に妄想していた。一閃華ももう高齢で、生きているかもわからない。

 剣豪の愛弟子だったヨナも、目が見えず、詐術を使わなければ人を切れないとは、落ちたものだったな。

 少しするとさっきの女性が団子を持ってきて、今度はすぐ、店の奥に下がっていった。

 と、一昨日、俺のお茶を間違って飲んだ老人が通りをゆっくりとやってきた。濁った目で周囲を伺うこともせず、俺の横までたどり着いた。さっきの女性が飛び出してきて、「お茶とお団子ね? お待ちくださいね」とまた奥に戻った。

「お侍さん」

 俺が湯飲みを口に運ぼうとすると、急に老人が声をかけてきた。

「ヨナを切ったかな?」

 さりげなく湯飲みを腰掛けの上に置いて、俺は老人を見返した。

 彼もこちらを見ているが、瞳は白濁していて、焦点もない。

「切りました」

「そうか」

 老人が顔を前に向け、俺もそちらを見た。細い通りを、ちょうど大八車が引かれていった。

「私の間違いだった」

 老人がポツリと言う。

「目が見えないものには、目が見えないものの剣術があるはずだった。しかし、私も、あいつも、辿り着けなかった。無理があったのだな」

 私?

 問いただす前に、女性が戻ってきて老人に湯飲みと皿を手渡した。老人はゆっくりと茶を飲み、団子を食べた。俺はただじっと、老人を見ていた。

「一閃華をご存知ですか?」

 本質に迫るのがどこか怖かったからだろう、そんな質問をしていた。

 老人は、答えない。

「一閃華は」

 俺はやっとそれを言葉にした。

「目が見えなかった。だから、弟子の目を奪った。腕試しの意趣返しなんかじゃない」

「その通り」

 団子を食べ終わった老人が頷いて、茶を飲み干すと、銭を腰掛けにおいた。

「もはや、過去のことだ」

 老人がゆっくりと離れていく。その背中を見ていると、店の奥から例の少女が出てきた。

「お客さん、どうされたのですか? お顔が真っ青ですが」

「いや」少女に笑みを見せる。「なんでもない。草鞋が欲しいのだが。意外に丈夫そうで、いい草鞋だ」

「あい、お待ちください」

 少女が腰掛けの上の、老人が置いていった銭と、空の湯飲みと皿を持って店の奥に戻った。

 老人の姿を探したが、もう通りのどこにもその姿はなかった。


     ◆


 僕は両目を押さえ、何も見えない恐怖に悲鳴をあげた。

「いいか、ヨナ」

 師が僕の両肩を掴んでいるのはわかる。でも、何も見えない。

「私の剣は、何も見えない世界でも生きると、教えてくれ。そのためにお前を鍛えたのだから。お前は無明の世界で、剣を振るのだ」

 わからない。無明の世界で?

 何も見えないのに、剣が振るえるわけがない。

「いいか、ヨナ、お前の剣はここから、始まるのだ」

 僕は真っ暗闇の中で、その声を聞いた。

 真っ暗闇の、絶望の底で。




(了)

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無明の剣 和泉茉樹 @idumimaki

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