だから僕は音楽を辞めた
列車のヘッドライトが、鋭いハイビームを飛ばしながら近づいてくる。
これが、最後の1分間。自分自身にそう言い聞かせる。焦燥と寂寥に咽喉が押しつぶされそうになる。なるだけ、隣り合わせになった英美のことを見ないようにした。
ふと、2年前に、はじめて彼女と手を繋いだ日のことが、思い起こされた。
それは、ぼくたちが付き合いはじめた、最初の日だった。あの日も、ぼくたちはこの場所で、電車を待ちながら肩を並べていた。
「引間くん、これ」
英美が手渡そうとしていたのは、イヤホンだった。
「聴いて」
ぼくは両側の耳にイヤホンをはめて、英美と目を合わせた。英美はミュージックプレイヤーを起動して、曲を流しはじめた。
ちらりと見えたディスプレイに表示されていたのは「ONE DAY」というタイトル。それは、ぼくが作曲した室内楽曲だった。市のユース音楽コンクールで、作曲賞の優秀作になった曲だった。ピアノに先導されて、ヴァイオリンとサクソフォンが、優美な旋律をひとつの小川を織りなすように奏でる。
「わたしね、引間くんの音楽も好きだったんだ。これからも、引間くんらしい音楽、たくさん聴かせて。いつでも待ってるからね」
英美の微笑みは、暖かな余韻をぼくの心にもたらした。その笑顔は、流麗な輝きをたたえていた。
ぼくは片方のイヤホンを外して、英美に渡した。英美との距離が縮まった。
英美は渡した方のイヤホンもつけて、にっこりとした。
彼女の手を取る。
ほんの一瞬、彼女の目が大きく見開かれた。
けれどそれは驚きではなく、嬉しさからきていることがわかった。彼女の両目が、光の反射を受けてわずかに潤んでいた。
ぼくは、あれから2年間、音楽をつくり続けた。五線譜に連ねる音符ひとつひとつに、魂を込めた。無駄なものは一切取り入れないようにした。そしてそれ以上に、英美にぼくという存在を認めてもらいたかった。
けれど、英美はぼくと離れる、と言い出した。ぼくの「秘密」が、彼女に知れたのだった。彼女は強引に別れ話を切り出した。無理もない。ぼくが彼女を愛するのと同じように、嘘を重ね続けてきたという事実は、変えようがないのだから。
「未来は変えられる。音符がそうであるように」
とぼくは反論したけれど、
「完成した音楽は、もう変えることができない。わたしたちのように」
そう言われて、返す言葉を失った。
もしぼくが正直者で、最初から彼女にほんとうのことを話せていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。それとも別の形で、やはりこんな日が来るのだろうか。
残り時間は刻々と迫ってくる。あと30秒だ。電車のヘッドライトは振動を伴ってこちらに近づいてくる。足元からじわじわと伝わる、異質な感じ。
彼女の匂いが、ふわりと宙に浮かぶ。
思い出が脳を駆け巡る。英美を抱きしめたあの瞬間。バスに揺られて遠くへ出かけた日。身体を重ね合わせた夜。ともにピアノを弾いた日。笑いあったあの頃。
——だめだ。すべては、嘘だったんだ。
すべての代償だ。これは、贖罪であり、ぼくが音楽を辞めるための最良の手段なのだ。
先頭車両が、空気が震えるほどの警笛を鳴らした。白線を超えて一気にホームに飛び出ようとしたぼくに向けられたものだった。
だが、ぼくの体躯が線路上に投げ出されることはなかった。気づいたら、電車は走り去っていて、正面には、英美の顔があった。
「最後まで、嘘ばっかり」
彼女の口はそう動いた。甘い声色を伴っているように思えた。
***
最高にかっこ悪い音楽の辞め方だった。
でももしかしたら、これからまた音楽をはじめるかもしれない。守るべきものができたら、正直に言わなきゃいけない。ぼくは耳が聞こえない、という事実を。
イマジナリーアルバム――もうひとつの音色 山根利広 @tochitochitc
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