彼女の骨

Sui

彼女の骨

僕は今日、罪を犯そうとしている。


心理的な描写ではない。見つかればすぐに、お縄を頂戴する類の罪だ。


僕には家族もいる。守るべき社会的地位もある。それなのに、僕は今日、罪を犯そうとしている。たった一人の女のために。


羽田空港のざわめきの中で、佐賀行きのチケットを眺めている。


九州佐賀。


それは僕にとって遠い異国の地のようだ。そこへは一度も行ったことはない。だけど、いつか行ってみたいと思っていた場所だった。


こんな形ではなく、いつか。


妻には一泊二日の出張だと行って、家を出た。短期の出張などよくあることなので、疑いもされなかった。


そう考えて、苦い笑いが漏れた。そもそも僕のことなど、妻はもう興味もないのだ。現金を運んでくれる人、そんな風に思っているのかもしれない。そう考えると、僕の心に黒いシミが広がっていく。そのシミはいつの間にか僕を飲み込んで行くような気がした。


僕はぼんやりと目の前の風景を眺める。たくさんの人が僕の前を通り過ぎている。誰も僕のことなど気に留めない。彼らには僕が見えているのだろうか。


僕はこの世になんらかの未練があって、あの世にいけない幽霊のようだ。誰も僕に気が付かない。先を急ぐ出張のサラリーマン。旅立つ友人を笑顔で送り出す若者たち。涙を流しながら抱擁する恋人たち。誰も僕を見ていない。


そう言えば、理香は空港が好きだと言っていた。この空港のざわめきがどうしようもなく好きなのだと。


真冬なのにTシャツにサンダルの欧米人や頭にターバンを巻いたインド人、列に横から割り込んでくる中国人。どこの言葉かわからないような言葉が飛び交う空港で、いろいろな国の人を眺めるのが好きなのだと。


ここからどこでも行ける、ここからどこまでも広がっていく感じが好きなのだと。


僕は複雑な気持ちでその言葉を思い出した。


僕にはもうどこまでも広がっていく世界は、ない。これまでもなかった。僕にとっては、理香が空港のようなものだった。理香を通して広い世界が見えていた。幻想だったのかもしれない、でもそんな気がしてた。


理香はいろんな国に出かけて行っては、いろんなものを見ていた。僕にはない世界だった。


理香から話を聞くまで名前さえ知らなかった国の話、そこでの人々の生活について。


僕は33年の人生でほとんど海外に出たことがない。もちろん英語も話せない。


大学生時代は海外旅行をするお金なんて持ってなかった。就職してからすぐに結婚したということもあるだろう。僕の妻は海外旅行よりもブランド品が好きな女性だった。


子供が生まれてからというもの、海外旅行に行く時間も心の余裕も持てなかった。結婚してすぐのグアムへの新婚旅行が最初で最後の海外旅行だった。


日本人ばかりで、まったく外国という気もしなかった。中心地はとても小さく、2日もいればすぐに飽きた。


青い海と青い空。それだけしかなかった。


それでも結婚したばかりの若い二人が楽しむには十分だったけれど。まだ二人が結婚に希望を持っていた頃の話だ。


あの頃は妻のわがままもすべて許せていた。結婚してくれなければ、今すぐ別れる、と言う言葉も、些細な頼み事もすべて。


いつから僕たちはこうなってしまったのだろう。永遠を誓ったはずの結婚は、10年で破綻を来たそうとしていた。


いつの間にか僕たちの間には会話がなかったし、二人を繋いでいるのは子供たちだけだった。どこの家庭もそんな風なのだろうか。僕にはもうそれを尋ねる友人もいない。


この10年の中で、友達とはほとんど疎遠になってしまった。妻がすべてで、子供がすべて だった。妻が望み、僕もそれを望んだ。


でももうどうでもいいんだ。僕は彼女に軽蔑されるべき人間に成り下がるだろう。娘からも。


今日これから僕がしようとしていることを考えると、まだまだ小さい娘のことが浮かんで来て、胸が痛んだ。今空港にいる誰でもいい。僕が今からしようとしていることに気がついて、僕を止めてくれればいい。心の奥にはそう思う自分がいることを、僕は否定できない。


迷っている。僕はいつもそうだ。重要なことを決める時、何も決められない。妻はそんな僕が嫌いだった。あなたはいつもそう、なにも決められない、と僕を責める。


理香は、と彼女のことを思って、はっとする。


彼女こそ、こんな僕を軽蔑するだろう。彼女にはいつも迷いがなかったから。本能で生きているような女で、自分が何を求めているかよくわかっていた人だったから。


でも僕だって、昔はこうじゃなかった。


自分のことなら割と何でもすぐに決められるタイプの人間だった。だけど、結婚してから自分以外の人間のことを真っ先に考えなくてはいけなくなった。妻のこと、子供のこと、それから妻の家族のことも・・・。


何が一番いいのか考えているうちに、膨大な時間がかかってしまう。そして何も決めることが出来ずにいろんなものを失って行く。 


そう考えていると、搭乗の最終アナウンスが流れていた。何度かアナウンスがあったのだろうか。ぼんやりしていて、気がつかなかったことを恥じた。


僕は立ち上がり、急いで機内に乗り込んだ。


**


初めての、九州。どこか懐かしい気持ちになるのは、理香からいつも話を聞かされていたからだろうか。彼女が生まれた場所。僕は今から彼女に会いにいくのだ。


飛行機に乗り合わせた隣のカップルは、理香と同じくらいの年齢だった。27歳、いやもう少し若いくらいだろうか。二人とも東京へは遊びに来ていたらしい。この数日間の思い出について話している。二人の手は固く結ばれていた。幸せなのだ、彼らは。


会話のところどころで理解出来ないことがあるのは、彼らが方言で話していたからだろう。


僕は理香の方言を一度も聞いたことがなかった。何度か方言を話して欲しいと彼女に頼んだことがあった。九州地方の女の子の方言はかわいいと評判だったからだ。


理香はいつも柔らかに断った。


「その代わり、英語なら話せるよ」


そう言って理香は僕がまったく理解の出来ない言葉をぺらぺらと話し出すのだった。


「ごめん、俺、スペイン語なら話せるんだけどな」


僕は英語がまったくわからず、それを言うのも癪に障ったので冗談を言った。すると彼女はにんまりと笑って、今度はスペイン語を話し始めるのだった。


「私、大学時代はスペイン語を専攻してたのよ!カナダに留学してた頃はコロンビア人と暮らしてたの」


嫌な女。僕が吐き捨てるように言うと、彼女は誇らしげに笑った。


僕は直立した椅子に身を任せ、眼を閉じた。理香のことを思い出す。彼女との会話、すべて。


彼女の大学時代、カナダへの留学、それよりももっと前。彼女はよくそれらのことを話してくれた。僕はその話を聞くのがとても好きだった。


カナダの寒さ、コロンビア人との共同生活、自然の美しさや厳しさ。


それから、それ以前の彼女のことも。小さい頃の話や高校生時代の話、いろんなこと。


瞳を閉じていても、涙が溢れているのがわかった。僕は隣のカップルに気付かれないように、涙を拭いた。大の大人が泣くなんてみっともない。大人の男には、泣く場所がない。


そうしているうちに、飛行機はゆっくりと離陸した。僕は遠ざかっていく東京を見つめた。何もかもが小さくなって、個人の日常なんて無いものも同然のように感じた。


一時間以上過ぎた頃、飛行機の降下を知らせるアナウンスが流れた。飛行機が少しだけ揺れた。


近づいて行く。彼女が生まれた場所に。彼女にだんだんと近づく。


一方でこの飛行機が空の上を一秒でも長く彷徨ってくれればいいのにとも思う。嬉しいのか、悲しいのか自分でもわからなかった。たぶん、悲しいのだろう。でも彼女に会えると思うと、やっぱり嬉しかった。


理香に最後に会ったのは一年半も前のことだ。もうずいぶんと前のような気がする。僕はこの一年半で倍以上年を取った気がする。


**


「孝生。私、カナダに行くことにしたわ」


愛し合う前のことだった、彼女が突然僕に告げたのは。


僕は仕事を早めに終わらせて、コンビニでお酒とおつまみを買い込んで、理香の家へと急いだ。一秒でも早く会いたくて、自然に僕の足は駆け足となる。


理香がドアを開けて、僕が彼女を抱きしめた時の香水の香り。確かサンロ-ランの。甘い、甘い香り。


口付けて、彼女の肌に触れる。会いたかった。思春期の少年みたいに何度もその言葉を口にしながら。


理香は僕が彼女へ触れることを拒絶しなかったが、カナダへ行くとの一言は、僕を一瞬にして彼女から遮断した。


「いつ?」


僕は驚いて、彼女の体を離す。彼女の肩を掴む手に力が入る。華奢な肩だと、今更思う。彼女は僕の目を見なかった。


「10月2日」


理香は、ぼそりと言った。その日まで、もうあと二週間もなかった。


彼女がいつか旅立つことは知っていた。初めから、終わりの見える関係だった。


知っていて、この関係は始まった。知っていたからこそ、とも言える。じゃなければ、始めるのが怖かった。


「終わり」が意味するものが、何かわからないないから。


彼女が日本からいなくなる。当たり前だが、それは僕たちの関係の終わりを意味していた。僕たちは“普通の”恋人同士ではなかった。抱き合うことで、成り立っていた。


理香が、いなくなってしまう。わかっていたはずなのに、その事実に僕は思った以上にうろたえた。


「空港に、来てくれる?」


理香は僕に聞いた。僕は戸惑い、その後仕事がなければ、と言った。彼女の目は、見れなかった。


「日曜よ」


理香は言った。僕はそれ以上、何も言うことが出来ず、そのまま愛し合うことも出来なかった。


真っ暗な夜だった。


ぼんやりと2人で音楽を聴いて、夜遅く、彼女の部屋を去った。理香はベッドに横になったまま、僕を見送らなかった。 


「理香、帰るね」


僕はそう言ったけれど、理香は返事をしなかった。仲違いをしたまま帰ることは決して本位ではなかったけれど、僕には時間が限られていた。


何度も彼女の名前を呼んだ。彼女は頑固に最後まで返事をしなかった。僕は彼女の機嫌を直すことも出来ずに、彼女の家を離れたのだ。


それが、最後だった。


彼女はそれ以来さまざまな理由を付けて、僕に会おうとはしなかった。家に行ってみても、もう彼女の痕跡すらなかった。


空港へは、行けなかった。行かなかった。


よく晴れた日で、空は驚く程澄んでいた。秋の空は、なぜか遠い。晴れすぎた空は悲しいものだ。

理香が旅立ってから、僕の生活はまた仕事中心の生活に戻った。残業が多すぎて、ほとんど家には寝るためだけに帰っていた。


妻とは相変わらず、会話がなく、子どもの前でだけ会話をした。いつまで子どもは子どもでいるんだろう。いつから父と母の間を流れる冷たい川に気がつくのだろう。


時々、無性に寂しくなるときがあった。会社からの帰り道、一人で歩く道、夜気とその匂い。ふと香る香水、一緒に聞いた音楽。そのどれもが、理香を思い出させた。


未練たらしく、理香に何度かメールを送った。なるべく、単純なメールにした。会社のことや、音楽のこと、日本での最近の流行りやカナダでの生活はどういうものなのか。


送った瞬間にメール履歴を消去した。妻にばれないようにするためだ。最低だと自分でも思う。でも今の僕の立ち位置はここなのだ。ここ以外、どこにもない。


理香からの返事は、なかった。


僕から送ったはずのメールさえ残っていないのだから、理香から返信が来なくても、そもそも何もなかったことと同じだった。


メールだけではない。僕たちの関係を示すものは何もない。時々理香といた日々は幻だったような気さえしていた。


誰も二人の関係を誰も知らない。何も目に見える形で残っていない。写真ももちろんない。すべて、消えた。


それでも、僕はいつも彼女のことを思っていた。


良い音楽を聴く度に、彼女に教えたくなった。出張でいろんなところに行く度に、買いもしない土産物屋を物色した。ニュースでいろんなことを知る度に彼女がどう思うのか聞きたくなったし、外国で物騒なことが起こる度に不安になった。


だけど、もうどうしようもなかった。違う。もう、などではなく、どうしようもなかった、初めから。


**


佐賀空港を出て、タクシーを拾い、彼女の生まれた場所へと向かう。心なしか人の雰囲気も違う気がした。なんとなくリラックスしている人が気がする。


ほとんど出張以外の旅行をほとんどしない僕にとっては、なんだかとても新鮮だった。僕が東京でせかせかと仕事をしたり、妻とけんかをしたり、理香と愛し合ったりしている間も、彼らはここで生活を営んでいる。その感覚が不思議だった。


空港から一時間。そこに、彼女はいる。彼女の大好きだった外国の風も吹かない場所に、今彼女はいる。少しずつ、少しずつ、彼女に近づいていく。会いたい。会いたくない。見たい。見たくない。いろいろな気持ちが入り混じっていた。


もう一度だけ、話がしたい。生意気な口調で、僕の名前を読んで欲しい。もう一度だけ。


理香は高校までここで暮らした。通り過ぎる若者たちに理香を重ねようと試みる。そしてすぐにそれが不可能だと思う。僕は理香の人生の断片しか知らないのだ。彼女の人生のほんの一部分。


彼女のその一部分を知ることができたのは僕にとってよかったことなのだろうかと自問する。彼女の出会わなければ、家族を裏切ることはなかっただろうし、僕はこんなにもつらい思いをすることはなかった。身勝手なことはわかっている。それでも、問わずにはいられない。


目的地をタクシーの運転手に告げると、運転手は少し怪訝な顔をしたが、すぐに了承して車を走らせた。


運転手は強い佐賀弁訛りで僕に話しかけている。僕は適当に相槌を打っていたが、そのうちに彼は僕に話しかけることをやめた。景色がタクシーの窓越しに通り過ぎていく。


田舎だ、田舎だと聞いていたけれど、まさにその通りで僕は苦笑した。青々とした田んぼばっかりだ。あの生意気な小娘がこんなのどかなところで育ったなんて。そしてそれは僕の心をじんわりと暖めてくれた。だからあんなにのびのびとした子だったのだと思った。どこか、大らかで。そういうえば、時間にもル-ズだったっけ。


僕は、僕が共有した彼女の人生の一部について考え始めていた。


僕は彼女の何を知っていたんだろう。笑った顔、喜んだ顔、驚いた顔、怒った顔、悲しんでいる顔。そのどれをも知っているようで、それ以外のことは何も知らない。


彼女がどのような場所で生まれて、どのように育ち、どのような友達に囲まれていたのか。朝どのように起きて、土日をどのように過ごし、一日をどのように終わるのか。僕は、何も、知らない。


**


初めて彼女に会ったのは隅田川の川べりだった。


僕は出張がはやめに終わったので時間を持て余していた。家には、帰りたくなかった。隅田川のほとりわふらふらと歩いた。その日はとても晴れていた。でも時々吹く冷たい風が、もう夏は終わったと告げていた。さみしい。不意にそんなことを思った。


その頃、僕は人生に希望を持てなくなっていた。


どこかで、何かが大きくズレていた。


妻は僕に対し始終いらいらして、二人きりになれば喧嘩ばかり、お互いに2人で会うことを避けてすらいたと思う。


こんな早い時間に帰っても妻は驚くだろうし、困惑する顔さえ思い浮かんで来て、僕はその顔を思い浮かべた瞬間に家に帰りたくなくなった。


川べりをふらふらして、たまたま座ったベンチの横に若い女が座っていた。音楽の教科書で見たことのある滝廉太郎のような丸いフレームのサングラスをかけて、僕が中学生くらいの時に流行ったグランジロックのような小汚い格好をして、音楽を聴いていた。


僕は特に彼女を気にせず、長い時間そこに座っていた。遊覧船やジョギングする人たちを見つめながら。日差しが金色だった。ゆったりと流れる隅田川に光が反射して、きらきらと輝いていた。


突然隣から「シット!」と大声で舌打ちする声が聞えて隣を見遣った。イヤホンを耳に入れていたので、自分の声が予想以上に大きくなってしまったのだろう。


女は隣に僕がいたことを思い出したのか、僕を見て少しだけ気まずそうに肩をすくめた。滝廉太郎風のサングラスが少しずり落ちて、彼女の目が覗いていた。大きな目だった。


「ライター、お持ちですか?」


彼女は聞いた。変なサングラス、先ほどの汚い言葉と意外にも丁寧な言葉遣いの組み合わせがとても不自然に響いた。


「いえ、僕は煙草を吸わないので」


僕がそう言うと、彼女は残念そうにまた肩をすくめた。


それから特に会話はなかった。彼女は火の点いていない煙草をくわえ、またぼんやりとしていた。もうすぐ日が暮れる。帰らなくては。そう思うと、気持ちが憂鬱になっていくのを感じた。


「滝廉太郎の真似ですか?」


僕は突然尋ねた。


なぜ、彼女な話しかけたのか今となっては思い出せない。彼女はまたもサングラスをずらし、僕を見つめた。意味がわからないと露骨に言うように。


「いや、そのサングラス。音楽の教科書に載っている滝廉太郎みたいだなと思って」


僕がそう言うと、彼女は少しむっとした様子で言った。


「ジョン・レノンを真似するリアム・ギャラガーの真似です」


ジョン・レノンは僕にもわかったが、リアム・ギャラガーはわからなかったので、会話はそこで途切れた。


それからしばらくして、また僕は尋ねた。


「ここで長い間、何してるんですか。僕もだけれど」


彼女は大きなため息をついて、一言言った。


「絶望してるんです」


その言葉になぜか僕は笑ってしまった。理香は怪訝な顔をして僕を見た。僕は、言った。


「僕もです」


僕はなぜか笑いが止まらなくなって、くつくつと堪えて笑った。そこで彼女も笑い出したので、僕は声を出して笑った。


それが、理香との出会いだった。


**


リアム・ギャラガーとはイギリスのロックバンドの元オアシスのボーカルのことで、彼女のアイポットからあの時流れていたのは、まさにオアシスの曲だった。


彼女は自分の耳からイヤホンを取り出し、僕の耳の傍に近づけた。きれいなメロディが流れ出した。オアシスの名前はもちろん知っていたが、ロックは興味がないのでそれ以上のことは知らなかった。


僕が学生の頃は、ブラックミュージックが好きでCDではなくレコードを集めていたと僕が言うと、彼女は目を輝かせた。


彼女はロックが一番好きだが、カントリーやフォークミュージック以外の音楽ならば何でも興味があるのだと言った。R&Bのことはあまり知らないが、新しいジャンルの音楽を知るのはとても楽しい、と。 


僕はそんな風に僕の話を聞いてくれることがとても嬉しくて、知っている知識をいろいろと話して聞かせた。


理香は、恋人に会いに行くために乗った飛行機が不運にも墜落し、命を落とした歌手の話に心を動かされたようだった。アーシア、と言うその名を理香はぽつりと小さな声で復唱した。 


日はすっかり暮れていた。夢中で話していたので、気がつくと辺りが真っ暗だった。僕は思わず、そろそろ帰らないと、と小さな女の子を心配するように彼女に言った。彼女はそれを鼻で笑った。次は僕が肩を竦めた。


それから僕たちは、頻繁に連絡を取るようになった。


ブラックミュージックを扱ったDVDなどを理香に貸したり、ただ電話で話したり、とても純粋な関係が続いた。新しくできた友達。最初はそんな風だった。


僕の持つレコードを聴いてみたいと彼女から何度か頼まれたが、僕はもうレコードを持っていなかった。結婚をする時に、ほとんど人に譲ってしまっていた。あんなに好きで仕方のなかったものを。でも、僕にとって、それが結婚するということの意味だと思っていた。 


夕方になると彼女の声が聞きたくなって、声を聞くと、会いたくなった。


人目を忍んで食事に行き、僕たちはそこでいろいろな話をした。音楽について、なぜか捕鯨について、仕事のこと、家族のこと、いろいろな話を。


彼女はその頃、よく自然や自然保護、それから動物愛護の話をよくしていた。


待ち合わせのとき、僕が少し遅れていくと彼女は必ず本を読んでいた。その本というのが僕にはまったく馴染みのないような本ばかりだった。僕が音楽のDVDを貸す代わりに彼女はその頃呼んでいた星野道夫という人の本を僕に薦めた。


ぱらぱらとめくってみると、美しい自然が収められていた。よく覚えてないが、真っ白い雪に覆われた場所に鯨の骨がオブジェのように刺さっていた。そこはかつて海だったのだろう。書かれていた文章は難しくて正直よくわからなかった。


「その本貸すから、家に帰ってからゆっくり読んでみたら?すごく素敵な本よ、でも残酷な」


理香は何気なくそう言った。


「家には、持って帰れないよ」


僕がそう言うと、理香は少しだけ悲しそうな顔をして、黙った。彼女がその理由を聞くことはなかった。 


印象に残っているのは、カナダのトーテムポールの話だ。


「カナダにトーテムポールってあるでしょう。あれは保護しないと、いつかは朽ちていく運命にあるんだって」


彼女はワインを大量に飲みながらそんな話をしていた。彼女の話は唐突なものが多いので、僕はいつもどう反応していいのかわからなかった。そもそも、僕の人生の中で自然保護やトーテムポール、動物愛護なんてそこまで興味のないことだった。


仕事や家族の今後、僕にとって重要なことはそれらのことであり、そのこと以外に自身を消費する時間はなかった。


彼女は定職にもつかず、外国と日本を行ったり来たりしているらしく、彼女の話はどこか現実的ではなかった。何か遠くの世界。そんな印象だった。何より、彼女は若かった。僕よりもずっと。


「まさかそのトーテムポールを保護したいなんて言い出すんじゃないだろうな」


僕は冗談めかして言った。彼女が何を思って、トーテムポールの話をし出したのか僕にはよくわからなかった。 


「ううん、違うの」


彼女は首を横に振った。


「カナダにはトーテムポールを見守るウォッチャーと呼ばれる人がいるんだって。トーテムポールが自然のままに朽ちていく様子を見守っている人がいるらしいのよ。雨風に晒されて、なぶられて、朽ちていく。それが本来の自然の姿なのだと私も思うわ」


僕は本をほとんど読まなかったが、そんな風に彼女から聞く本の内容はいつも興味深かった。こんな風に彼女が僕の傍で物語を読み聞かせてくれたらどんなに幸せだろう。いつの間にか僕はそう夢見るようになっていた。何かとても心地の良いおとぎ話のようだった。


ただ、夜遊びが大好きで、化粧が大好きで流行りものが大好きな彼女がなぜカナダのトーテムポールなんかに興味を持っているのかは最後まで理解出来なかったけれど。


「この星野道夫さん、アラスカで熊に頭をカチ割られて亡くなったんですって」


「カチ割られて・・・」


「それも自然の一部よね。彼はきっと、交通事故で車に轢かれて亡くなったり、病院でチューブに繋がれて亡くなったりするより、熊に頭を割られて亡くなる方が本望だったのではないかしら」


彼女は言った。


「まさか、田舎には死んでも住みたくないと言い続けている女が、カナダの大自然の中で自然と共に朽ちたいなんて言い出すんじゃないだろうな」


彼女は、笑った。声を出して、コロコロと、屈託なく。 


この辺かと尋ねる運転手の声で我に返った。辺りは見渡す限りの田園風景が続いていた。鮮やかな緑。よく晴れた空。運転手は明確な目的地を知らされていなかったので、困ったように僕を鏡越しで見た。


「ここでいいです」


僕は言った。少しだけ、歩きたい気分だった。緑がそこら中に溢れていて、とても気持ちがよさそうだった。


「この辺は何もなかですねー。誰か友達でも尋ねんさっと?」


運転手は僕に尋ねた。僕は静かに微笑した。緑が眩しい。空がどこまでも広がっていく。時が止まったような場所だ。静かで、果てしない。


「お墓参りなんです」


僕がそう言うと、運転手はそうですかと頷いたまま、それ以上何も口にしなかった。


運転手にお金を払い、ドアを開けると、すぐに優しい風が入ってきた。静かだ。田園の緑がさわさわと音を立てる。理香、来たよ。時間がかかったけど、やっとここに来れたよ。


**


理香の死は、彼女のSNSで知った。へとへとになって仕事から帰宅した後、めったに開かないSNSを久方ぶりにチェックすると、その投稿が最初に目に入った。彼女の両親が理香のSNSに投稿する形でその訃報が理香の友人たちへと知らされたのだった。


理香がカナダに飛び立ってから1年近くが経っていた。


携帯を持つ手が震えた。嘘だ。一方で脳は冷静に事実を受け止めていたのか、彼女の姿を思い出していた。笑っている顔ばかりを。


何度も何度も読み返して、何度も何度も嘘であって欲しいと願った。涙はすぐに出てこなかった。歩こう、前に進もうとしたが、その瞬間に膝に力が入らず、体勢を崩し、床に手をついた。


情けない話だが、自分でもどうなったのかわからなかった。そこから長い間動けなかった。床が冷たい。そんなこともだいぶたってから気がついた。


理香が死んだ。


彼女は数ヶ月も前にこの世を去っていた。交通事故。僕は彼女がもうこの世にいないなんて思ってもみなかった。彼女が死んだ後も、僕はのうのうと笑って暮らしていた。いつもと変わらないように。


当たり前だ。僕たちは共通の友人もいない。誰一人として僕たちのことを知っている人間などいないのだ。


そう思うと、笑いにも似た声がこみ上げてきた。愚か過ぎる。なぜまた会えると思えたのだろう。涙がやっと出てきた。声を上げて泣きたかった。必死で泣くのを我慢した。我慢すればするほど、苦しかった。


僕には今も後悔し続けていることがある。


それは理香がカナダへ旅立ってからの絶望と、自分への失望、それから理香への恋しさがごちゃまぜになっていた時のことだ。


彼女への愛と憎しみ、それから怒りが数秒起きにやって来た。今離婚すれば、まだ間に合う。自由になって理香を追いかけたい気持ちや、その考えを否定する気持ち、それからあまりにも身勝手な自分への怒り、そんな気持ちが全て混在していた。


でも現実に、僕は結婚していて、自分一人の問題ではなく、そしてすでにもう理香は日本にはいなかった。諦めなくてはいけないとわかっていたけれど、諦めきれなかった。そして僕は思ったのだ。いっそのこと、理香が死んでくれたらいいのに、と。死別なら、諦めがつくと。 


実際に彼女の死の知らせを聞いた後、僕も死んでしまいたいと思った。でも死ぬわけにもいかず、代わりに毎日毎日泣いていた。


この世には彼女を思い出させるものが多すぎた。大きな川、きらきらと輝く水面、泣き声みたいなギターの音。


理香と初めて出会った隅田川にも仕事の帰りによく一人で出かけた。雨の日や曇りの日は気持ちが沈んだ。晴れの日は何も考えずにただただぼんやりとして長い間そこから離れることが出来なかった。


**


「佐賀ってどんなところなの?」


僕は一度も九州に行ったことがないと彼女に伝えると、彼女は特別に表情を変えるわけでもたく、淡々と、何もない、退屈なところだ、と言った。


「田舎で保守的で、閉鎖的なところよ」


なんとなく彼女は自分の生まれたところが好きではないのだろうとすぐに思った。


僕は彼女の滑らかな肌を触りながら、媚びるように言った。


「もしも行くとしたら、どこがお勧め?」


僕がそう尋ねると、いきなり彼女は目を輝かせて言った。


「筑後川!」


僕は有田焼巡りや吉野ヶ里遺跡など、僕の知識内の答えを想像していたので、少し驚いてしまった。


「か、川?」


「そう、筑後川!九州で一番大きな川が私のうちのそばに流れてるの。古くて赤い橋があって、そこで夕日を眺めるのが好きなの」


自分の好きなことを話す彼女はまるで少女みたいだった。一方で、興味がないことにはまったく興味を示さなかった。そして彼女の興味のあるものは、僕の想像の範囲外なので、僕は彼女の話をとても興味深く聞くことになる。


僕は彼女のそんなところが好きだった。まるで若い頃の僕を見ているようだった。僕はもう、無くしてしまったもの。


僕はだから彼女が好きだったのかもしれないとよく思う。


大人になるにつれて、会社で働くに連れて、結婚生活が長くなるに連れて、僕はどんどん変わって行った。自分以外の人間と折り合いをつけて生活しなくてはいけなくなった。もちろんそれを否定する気はない。ただ、無くしたものへの憧れだ。もう二度と戻っては来ないことは知っている。


「もうだめだと思った時、川を見るの。そしたら少しは元気になるのよ」


真っ白なシーツの中で理香は言った。長い髪が少しだけ乱れている。僕は性交の後、とても幸せな気持ちで理香の話を聞いていた。


お互いの体に触れる位置にいる。それが僕たちのすべてだった。


甘い沈黙が部屋を満たしていた。まだしっとりとした理香の柔らかな体を僕は抱きしめた。


「ねぇ、孝生」


彼女はいつも僕を呼び捨てにした。8歳も年下の小娘から名前を呼び捨てにされるのが、いつしか心地よかった。


「私が死んだら、私の骨を盗んでくれる?」


私が死んだら一緒に死んでくれる?という情熱的な言葉と同じ響きで、彼女は言った。


「一体、どういうお願いなんだよ、それ」


こんなことをお願いされたのはもちろん初めてだった。そうねえ、と含んだように笑った理香は言った。


「遺言よ」


理香は起き上がり、煙草に火を点けながら微笑んだ。


「私が死んだら、筑後川に散骨して欲しいの」


僕は彼女のちんぷんかんぷんなお願いに閉口して僕は言った。


「そんなこと、親に頼んでくれよ」


理香は心外だとでも言うように、口を尖らせた。


「うちの親、面倒臭がって絶対にやってくれなさそうだもの」


彼女はそう言って肩をすくめるの だった。


「なんで、俺なわけ」


僕がそう言うと、彼女は僕の髪をくしゃくしゃにして笑った。


「私の忠犬だからよ!」


僕はその言葉に不貞腐れた。忠犬。犬かよ、と悪態をつきながら、しかしそれはあながち間違ってはいないことも僕は知っていた。


彼女の目の色で、表情で、僕はすべて左右されてしまうのだ。


「やだよ、そしたら俺、犯罪者じゃん」


僕はそう言うと、彼女は笑って、話はそこで途切れた。


あれは冗談だった。タチの悪い冗談だった。


僕が彼女の死を知った時、彼女の肉体はもうこの世にはなかった。狭いお墓の中で、窮屈そうにしている理香の骨を想像した。


彼女はいつも、広い世界を夢見ていた。外国の話をきらきらとした目で話してくれた。僕はその目がとてもとても好きだった。


僕は、馬鹿だ。皆が僕を笑うだろう。それでも、僕たちにしかわからない言葉があるものだ。他の誰に理解されなくても。


僕は彼女の死を知ったその日から、彼女の為に罪を犯そうと決めたのだ。「彼女のため」と言うのは違うかもしれない。それはきっと自分自身のために。きっと僕にしか出来ない。そう思いたかった。


異国の地で死んだ年の離れた愛人の骨を盗む。僕はすぐに佐賀行きのチケットを購入し、妻に出張と偽り、騙した。


妻は事件が発覚すれば泣くだろう。いや、憤って、軽蔑するだけかもしれない。子どもとも二度と会えないかもしれない。正直、その覚悟はいまだにできていない。それでも僕は佐賀にいかないといけない。


理香の両親とも何度か連絡を取った。会社関係の者で、彼女と仲良くさせて頂いていたので、是非お墓参りをしたいとの趣旨をメールにて知らせた。


数日後、理香の母親から返信が届いた。理香も知っている人が来てくださると喜ぶだろう。そう、言ってくれた。


理香はよく家族の話をしていた。子供のときの話から、最近の家族での会話など、とても温かな家庭が想像できた。


生意気で、性格も少しひねくれていたが、両親に大切に育てられたことだけはよくわかった。将来、自分の娘も理香みたいに育ってくれればいいと思っていた。天真爛漫で、自由で、感情が豊かな人間に。


でも、もう忘れる。理香の家族のことも、僕の家族のこともすべて。


**


離婚届はずいぶんと前に書いた。妻とうまくいかなくなったのは、数年ほど前からだった。その頃は毎日が壮絶な罵り合いだった。


何が原因だったのか。それははっきりとわかっているのだ。お金。わかりやすすぎる原因だ。


気がついたときには、200万以上の預金が消えていた。


僕は元々お金に執着しない人間だったと思う。お金持ちとは言えないまでも、お金に困らない両親の元で育った。大学卒業後はそこそこの企業に就職し、給料も安定していた。


妻は元々専業主婦希望で、結婚と同時に専業主婦になった。セレブリティな暮らしとは程遠くても、暮らしに苦労することなどなかったと思う。


なのに、200万以上のお金が無くなっていた。


僕は妻を問い詰めた。何が起きたのかわからなかった。


長く沈黙していた妻は、淡々とことの経緯を口にした。長く会社員だった彼女の父は50代を過ぎて独立した。長年培った経験を元にコツコツと新しい顧客を開拓し、事業も軌道に乗ってきたところだった。


信頼できるビジネスパ-トナ-も 出来、すべてがうまくいっているように思えた。


しかしある日、ビジネスパ-トナ- は会社のお金をすべて持って行方をくらましたのだった。


妻の父に残されたのは借金だけだった。


「わたしがお金を工面できなくて、期日までに払えなかったら、どうなってたと思う?」


妻は僕に聞いた。その声には恐ろしいほど感情がなかった。自己破産、と口から言葉がでかかったけれど、僕は言葉を飲み込んだ。


「たぶん、父も母も二人とも首吊って死んでたわ」


そこまで冷静に言った後、僕を凝視する目から涙が溢れた。


「わたしはそれを見過ごせなかった」


僕はあまり彼女が泣いたところを見たことがなかった。彼女はあまり、感情を表に出さない人だった。


一人でこのことを背負い込み、小さく肩を震わせて泣く彼女をとても愛しく思った。


相談もなく、勝手にお金を貸したことについては心に引っかかるものがあったけれど、一人でこの思い荷物を背負わせたことに対する罪悪感さえ僕にはあった。


泣きじゃくる妻を見て、もうこのことは忘れようと妻に言った。ただ次は一人で抱え込まず、僕にも相談して欲しい、と。そのために、僕はいるんだ、と 。


僕は妻を愛していた。愛していたから、結婚した。愛していたから、許せた。


その日は、僕たちは抱き合って眠った。二人の隙間がないくらいに。妻をあれほど近くに感じたことはなかった。


それから平穏な日々が続いた。夫婦関係も特別悪くなった気はしなかった。あの日までは。


僕はこのことを親しい友人にも誰にも教えてはいなかった。


ただ、ある時、自分の親にぽろりと口にしてしまった。つい口が滑っただけだったのに、口にした後で、自分はどれ程このことを誰かに伝えたかったかを知った。僕の母親は僕の妻と家族に深い同情を示した。


そしてしばらく経った後、僕たちの口座に妻が母親に貸した金額と同等の金額が振り込まれていた。僕の母親からだった。


妻はそれを知った時、手をわなわなと震わせた。


怒りや恥ずかしさ、それから僕の裏切りに対して。彼女には、裏切りと映ったのだった。


それから妻は僕の両親に対して露骨に嫌悪を示すやり方で接した。僕の両親は始め戸惑い、それから妻に対し怒りを示した。


妻は僕の母親が口にするすべてのことを否定するようになった。もちろん、僕の両親の前では完璧な嫁を演じた上で。


しかし、妻と僕の母の間の緊張感は目に見えてわかり、子どもを交えての食事会のときでさえ、僕はいつもじっとりと汗をかきながら、緊張して、言葉一つ一つを選んで話さなければならなくなった。


はやくこの場は終わることだけをひたすらに祈った。


時間が経っても物事は解決するはずもなく、妻は僕の両親の否定から、そして僕を否定するようになった。


僕が何らかの失敗をすると、育ちが悪いと言って僕を罵るようになった。


僕が一番許せなかったのは、僕の育ちの悪さが子どもに悪い影響を与えると言われたことだ。子どもの前で。その時の妻の顔を僕は忘れないだろう。美しい顔が悪意に満ちて、歪んだ瞬間を。


僕はいつの間にか、妻の前でどう振舞えばいいのかわからなくなっていった。何を言っても否定され、何をしても嫌悪される。


僕は混乱し、絶望し、悲しみ、そして疲れていた。すべてが以前とは変わってしまったことを知った。


彼女の父親が事業に失敗しなかったら、妻が僕に相談してくれていたら、僕がぽろりと口にしなかったら、僕の母親がお金を送金してこなかったら。


そのどれか1つでもなかったら、僕たちはまだ幸せな夫婦でいられたのだろうかとよく考える。


もしもなんてないよ。理香はきっとそう言うだろう。


もしもその“もしも”がすべてなかったとしても、僕と妻はどこかで破綻を来たしていたのかもしれない。そしてもしも僕と妻がうまくいっていれば、僕は絶望した気持ちで隅田川のほとりに行くこともなかったのだ。


僕は歩いた。理香が生まれ育った場所を。


「ほんっと、何にもないなぁ」


僕は一人ごちた。こんなに田舎に育ったら、それはここを出て行きたくなるだろう。田舎には田舎の良さがあるとしても、未来だけを見ている若者には尚更だ。


そう思った瞬間に違和感を覚えた。理香の瞳。彼女は好奇心に溢れてはいたけど、彼女には希望しかなかったのだろうか、と。いや、違う。何かが違う。


花が咲き乱れていた。もうすぐ桜も咲くだろう。庭いじりをしているおばあさんと目が合ったので、こんにちわとにこやかに挨拶をしたが、怪訝な顔をされるだけだった。よそ者が歩いていると不安に思うのだろう。


僕は理香の生まれ育った家へと向かっていた。彼女のご両親へご挨拶したいだとかそういうことを思っていたわけではない。ただ、見てみたかった。彼女がどんな風なところで育ったのか。遠くからでよかった。ただ一目見てみたかった。


その家は、小さな集落の中にあった。洋風の大きな一軒家で、庭の手入れも行き届いていた。


ここで、理香は育った。僕はまた涙を浮かべていた。泣かずにはいられない。


人の家を見つめながら、くよくよしているうちに中から人が出てきて、うっかり目が合ってしまった。


黒目がちのその目が、僕を映した。似ている。薄い唇も決して高いとは言えない鼻の骨格も、濃い目の眉も、大きな目も、すべて。


彼女は僕を見て、怪訝な顔をした。僕はすぐに自分の立場を思い出した。見つかってはいけなかった。何をしているんだろう、僕は。僕は何か言わなくてはと言葉を捜した。


「えっと、あの」


僕がしどろもどろ、懸命に言葉を捜していると、彼女は思い出したかのように安心した顔をした。


「大坪さん?」


一瞬僕はその名前を忘れていた。すぐに理香の母親と連絡を取った時に使った偽名だと気づいた。僕の会社の大嫌いな上司の名前だ。


「はい、ご連絡せずにこちらへお邪魔して申し訳ございません。お墓参りだけでもと思いまして」


僕はすぐにまっとうな社会人に戻り、挨拶をした。僕がそう言うと、彼女は警戒心を解いた顔でにっこりと笑った。


「あら、それはよかったわ。お墓には理香はおりませんのよ」


僕はその言葉に拍子抜けしてしまった。もうとうに四十九日は過ぎている筈だった。もしかしたら、理香の遺言通り、筑後川に散骨したのかもしれないなと思った。その瞬間に僕は言い様のない安堵感を覚えた。


「お墓にいないって・・・?」


僕は遠慮がちに尋ねた。理香の母親は微笑んだ。


「せっかくだからお上がりになって」


「いや、僕は、その」


躊躇う僕を彼女は半ば強引に家の中へと招いた。広い玄関。上等そうな家具。理香はもしかしてお金持ちの子供だったのかもしれないな、などと思いながら。


通されたお座敷にはお香の匂いが漂っていた。畳の柔らかな感触を足に感じた。


そして、そこに理香は、いた。


いつも姿勢の正しい彼女がそこに座っているようだった。白い布を被せられた彼女の骨壷、彼女の骨。 


「ずっと、ここに・・・?」


僕は尋ねた。理香の母親は笑った。


「もう少しだけ、一緒におりたかね、って主人と話しました。18で出ていったもんですから。主人は何も言わなかったですけど」


そして続けた。


「18で東京に出て、大学卒業後もふらふらふらふらして。外国からやっと帰ってきたて思うたら、またすぐにどっか行って。困った子でした」


抑揚のある九州のアクセント。それは僕を切ない気持ちにした。善良な人たち。彼らにこれ以上どんな不幸も振りかかってほしくない、そう思った。


そこまで言うと、理香の母は立ち上がり、「お父さん!」と理香の父親を呼んだ。


僕は慌てた。急に後ろたさが襲ってきた。


「いや、あの、僕はこれで」


僕は逃げるように口にしたが、理香の母は取り合わなかった。


「せっかく来て頂いたのだから、ゆっくりなさって」


彼女は立ち上がり、庭へ向かってもう一度「お父さん」と呼んだ。そして少し経った頃、理香の父親が現れた。何か農作業をしていたのか、服に土がついていた。日に焼けた肌が九州と濃い眉が九州の男という感じがした。しかし目の周りの深い皺を見た時、僕はなぜか急に怯えた。いつか自分も、そうなるのだ。


「理香の会社の人が来てくんさったよ。東京からわざわざ」


理香の父親は僕に会釈をして、少しだけ笑ってくれた。慟哭。その目の奥には癒えることのない悲しみが沈んでいるように見えた。


「わざわざありがとうございます。理香も喜びます」


そう簡素に言って、すぐにまたその場を離れ、庭仕事に戻った。


僕は少しほっとした。理香の両親を目の前にすると、やっぱり萎縮してしまう。


「理香が死んでから、いつも庭いじりばっかししてね。気が紛れるとでしょうね」


僕は庭の手入れをする理香の父親の姿をぼんやりと見ていた。


「理香が一瞬だけ佐賀に帰って来た時期がありました。うちの人は無口な人ですが、嬉しかったとでしょう。まだ日の落ちんうちから二人で飲み初始めてね。飲兵衛が二人。それはそれで楽しそうでした」


彼女は遠い昔の、もう戻らない日々を思い出していた。その目は僕をまた泣きたい気持ちにさせた。


これ以上いたらまた泣いてしまう。僕が泣いたら変だ。だけど、ここは泣いていい場所だ。誰もが優しく理香を思い、彼女を愛している人たちの場所だ。


僕は頷きながら話を聞いた。合間に理香の骨壺を盗み見た。僕はもっとさみしくて、悲しい骨壷を想像していた。でも、そうではなかった。守られている、この家に。この場所に。


**


理香の短い人生の中で、佐賀に戻ってきていた時期があった。高校を卒業し、東京の大学へ進学し、カナダへ留学した後。その話を理香から聞いたことがある。


「長く付き合っていた男の子がいたの。大学時代から5年くらいかな。20代のほとんどよ。同じ大学、同じゼミだったの。そして同じ佐賀の人だった」


僕たちはよくお互いの過去の恋愛について話した。僕の話を彼女がずっと聞いていることもあれば、僕が彼女の話をずっと聞いているだけの時もあった。


「喜怒哀楽の激しい私とは正反対の人で、喜怒哀楽の感情がほとんどない人だったの。信じられる?私、彼が悲しんでいるところも本気で怒っているところも喜んでいるところさえ見たことなかったのよ。5年もそばにいたのに。」


そう言って彼女は笑った。そして続けた。


「私、大学を卒業してしばらくしてカナダに留学してた。彼は同じ頃、佐賀に戻ったの。東京での生活に疲れたのね。彼は私がカナダに行くことに反対しなかった。私は少しだけ寂しく思ったけれど、カナダに行ったわ。カナダの生活は楽しかったし、私を好きだと言ってくれる男の子もいたのよ。本当よ」


「嘘だなんて思ってないよ」


僕がそう言うと彼女はなぜか僕を軽く叩いた。


「それでもしんちゃんの関係は壊れなかった。あ、しんちゃんってその彼の名前ね」


“しんちゃん”。名前なんて聞いてない。僕は少しだけ不愉快な気持ちになった。名前は想像力に具体性を与える。


「本当はカナダで暮らしたかったの。すごくきれいなところでね、自然がすぐそばにあるのよ」


そういう彼女の目の前には、カナダの街並みが広がっているようだった。


「でも、カナダには残らなかった。だって私、しんちゃんを愛していたから。彼と離れて暮らすなんて考えられなかったから」


理香は言った。


「それなら結婚してよかったじゃないか。俺が25の時には・・・」


そう言いかけてやめた。愚かなことを口にしようとした。理香はそれについて何も言わなかった。


「愛していた。私の人生で、彼だけ。それは間違いなく言えることよ」


理香はそう続けた。僕には何の気遣いもなく、迷いの無い声で。


僕は彼女の話を黙って聞いた。少し不快な気持ちになりながらも、彼女の愛した男性の話を聞くことが出来るのは、自分にも妻がいるからだとわかっていた。


お互いに、お互いには属していないのだ。だから理香も僕に話せた。


「カナダから帰ってきて、佐賀で仕事を探したわ。私は学歴もそこそこあったし、英語も話せた。だけど、私に出来る仕事なんてなかった。


毎回書類審査落ち。新卒じゃないってこういうことなのね、って痛感した。


私、就職もしないで、飲食店で一年間アルバイトしてたのよ。しないで、って言う言葉は間違ってるわね。出来なかったのよ。


たまに面接に呼んでもらえたと思ったら、恋人はいるか、結婚はするのかって毎回聞かれた。この21世紀に、よ。


私、いつも打ちひしがれて、負けた気分だった。しんちゃんは何も言わなかった」


理香には悪いけれど、僕は理香から“しんちゃん”の話を聞く度に、彼は理香のことを好きではなかったのではないかと思っていた。なんだか理香と彼の関係はとても不思議なものに思えた。なぜなにも言ってあげなかったんだろう、彼女が悲しんでいる時に。


理香はしんちゃんから愛されていたと確信を持って話すので、理香には言わなかったけれど。


「そして一年後、あまりに就職できない私を見て、しんちゃんが言ったの。結婚しよう、って」


理香は煙草に火をつけた。一口吸った後、煙を吐き出した。何か重い塊を、自分の中から吐き出すように。


「ね、孝生はなんで奥さんと結婚したの?」


理香は突然僕に聞いた。


「なんで・・・って」


僕は言葉を選んだ。理香に悪く思われないように、でも嘘にならないように。僕は、ずるい男だ。でも僕の口から出てきたのは、意外な言葉だった。


「この人となら永遠を誓えるって思ったからかな」


僕は素直に言った。言った後でちょっと後悔した。「愛してる」よりもたちが悪い。


結婚式の日、僕たちはとても幸せで、とても笑っていて、永遠の愛を誓った。あの日、あの瞬間に嘘はなかった。少しも。


「そう、あなたたちは幸せね」


理香はそう言って煙草を消した。「幸せ」という言葉は皮肉ではなく、なんだかひどく無関心なように聞こえた。


「私、おかしな話だけど、しんちゃんから“結婚しよう”って言われて、なんと答えたのか覚えていないの。でも物事がいろいろ決まって行ったから、うんと言ったのだと思うわ」


人事のようにそう言う理香は、不思議そうにその時のことを振り返った。


「私ね、結婚に特別な夢を持ってた女の子ではなかったの。自分の結婚式なんて想像もしたことがなかった。だからなのか、物事が決まっていく様子をとても他人事のように見てた」


それから彼女の両親に彼を会わせて、彼の両親にも会いに行ったのだと彼女は続けた。


「友達の多くが私やしんちゃんに祝福を言って、しんちゃんはびっくりするくらいに嬉しそうな顔をして。私、見たことなかったの。彼があんなに嬉しそうに笑う様子を。あぁ彼は私といれて幸せなんだなって思った」


暗い夜だった。雨が降り始めた音が聞こえた。理香は淡々と話を続けた。


「だけど私は、心のどこかで違和感が消えなかったの。家を探して、契約して、それから引越して、二人で使うものが増えて行って、私は朝起きて、朝食を作って、彼を送り出して、お掃除して、だらだらしたり、テレビなんか見たりして。


それからスーパーに買い物に行って、夕食を作って、彼の帰りを待つの。そして彼が帰ってきて、二人で食事をする。特別おいしい料理ではもちろんなかったけど、彼はいつも無言でご飯を食べた。


二人でテレビを見て、眠りに付く。時々セックスをして、私は働いてもないから疲れていなくて眠れなくて、彼の寝顔を見ながら本を読む。そういう毎日だったの」


“主婦”という人種の生活はいつでもそんなものだ。僕の妻も。僕の妻は望んでその立場に付いたけれど。


「少しでも働いてたら違ったかもしれないけどね。もしくは結婚に夢でも持っていたら」


僕の妻はどうだったのだろう。そのどちらでもないような気がした。そして理香の話を聞いていると、いつも妻のことを考えている自分に気が付いた。少し理香に悪い気がしたが、理香もしんちゃんのことを話しているのでお相子だろうとも思った。


「私はいつもしんちゃんだけを待っていた。もう外の世界なんて関係なかったし、外国なんて本当に本当に遠い世界みたいになってしまったの。


そして私、それが悲しかったの。


私が望んでいたことはこんな生活じゃないと毎日思っていたわ。私はだんだんイライラするようになって、しんちゃんに少しづつあたるようになって、時々意味もなく一人で泣き続けることもあったわ。


しんちゃんはいつも困った顔をしていた。でも、何も言わなかった。何も、よ。


ある日、いつもと同じようにしんちゃんを待っていた。満月だった。私、突然思ったの。あぁ私はもうここにはいれないって。行かなきゃって」


なぜ彼女がそこにいれないと思ったのか、正直僕には理解が出来なかった。


「かぐや姫みたいだね」


僕が茶化すと、彼女はそれを気に入ったらしく、“かぐや姫”と口にして、それから笑った。


「すぐに荷物をまとめた。当面の生活に必要なものだけをスーツケースに詰めて、出て行こうとした。


その時、しんちゃんが帰ってきたの。彼、すごく驚いた顔をしてた。どこに行くの?って彼は聞いた。私は、出て行くわ、って一言だけ言った。


どこに行くのか自分でもわからなかった。彼は意味がわからずに、私の手を掴んだけれど、私はその手を振り解いたの」


理香はたぶん僕が隣にいたことを忘れていたと思う。ただずっと、一つ一つ、確認するように、自分に言い聞かせるように話していたことが印象的だった。


「私はひとまず実家に戻った。行くとこって意外とないものね。彼は私を迎えに来てくれて、でも私は頑なに会わなかった。


翌日から何度も何度も電話をしてきて、私はそれをすべて無視した。そしてある日、電話はかかって来なくなった」


少しの沈黙の後、やっと僕のことを思い出したかのように彼女は僕の名前を呼んだ。


「孝生、私たち、愛し合ってたの。本当に深く深く」


彼女は言った。それはなぜか懇願するかのように、救いを求めるかのようだった。


僕には正直理解が出来なかった。もし彼女がしんちゃんを愛していたなら、そしてしんちゃんが彼女を愛していたならば、2人は一緒にいることを選んだはずだ。何を犠牲にしても。


僕がそう言うと、理香は本当に悲しそうな顔をした。そして小さく笑った。


「そうね、そうかもしれないわね」


彼女は続けた。


「最後に二人で話した日、大雨が降っていた。彼の車の中で。


憔悴しきった彼を見た時、私は自分がしたことにやっと気がついた。私は、彼をとても傷つけたのだって。あんな彼を見たのは初めてだった。


彼をあんなに傷つけることが出来たのは、この世で私しかいなかったということにも気がついたの。でも、もうすべてが遅かった。


私たちはたくさんのことを話した。いつも抱き合うことで解決していた問題を、初めて二人で話したの。こんな風に話し合えてたらって私はずっと思ってた。あの5年間、話せなかったことをあの数時間で話したの。


そして彼が言ったの。離れるくらいなら、いっそのこと殺してくれた方が楽だって」


僕は何も言えなかったけれど、理香はそんなこと期待していなかった。


「私、物事をシリアスに考えないお気楽な女の子だったけれど、その言葉を聞いた時、人生で始めて死にたくなった」 


僕はもうどういう風に言葉を繋げていいのかわからなかった。 


「死んでたら、俺、理香に会えなかった」


生きててくれてよかったということを茶化したように言ってみたが、理香は笑わなかった。


「そうね、孝生。でも私、実は幽霊だったりして!あの時本当は死んでたりして」


そう言ってやっと彼女は小さく笑った。


それは嘘ではないのだろう。彼女の一部はその時にもう死んでしまっている気がした。


それは僕にも理解が出来た。僕の一部が結婚生活と共にゆっくりと死んでいったように。そしてきっとほとんどの人の人生が、人生のどこかで自分の一部を失うのだ。  


「あの時、一緒に死んでてもよかったかなぁ」

と、理香は言った。


死ねなかったなら、理香は続けた。


「あの時、私の目を潰して、彼の耳の中を焼いてしまえばよかった。レベッカ・ブラウンの小説みたいに」


理香の好きな小説らしいが、もちろん僕にそれがわかる筈もなかった。


「なんでいちいちそんなに物騒なんだ、君の話は」


僕がそう言うと、理香は真剣な顔をして反論した。


「物騒?ロマンチックな話よ」


耳を焼くだの、目を潰すだの、僕にはそれがロマンチックなこととは到底思えなかった。理香の考えはどこかで少しおかしかった。そしてどこか、病んでいた。


「あ、でもだめね。しんちゃんは音楽がとても好きだったから、耳が聞えなくなるのは可哀想ね。やるなら彼の目を潰して、私の耳を焼くべきだったわね」


理香はまだ言っていた。真剣にそれを言っているようだった。


理香だって、音楽が大好きな癖に、耳が聞えなくなってもいいと思ったことが僕にはショックだった。しんちゃんが音楽が好きだからなんて、そんな気遣いなくていいのに。


彼女の話は突飛なものか極端な話ばかりで僕の思考回路はついていけなかった。なぜ愛し合う2人が、耳を焼いて、目を潰さなくてはならないのか。僕の想像の範囲外だった。  


「そしたら、私たち、もう離れられなかったじゃない」


彼女はびっくりするほど、真っ直ぐに僕を見てその言葉を言った。


「・・・。普通は、それが結婚なんだけど。


眼を潰すでも、耳の中を焼くでもなく、区役所に言って、紙にサインすれば、二人は離れなくて済んだよ」


僕は言った。だから僕と妻は今苦しんでいる。その紙一枚があまりにも重くて。


「でも孝生、私たち、もうそんな風にしか愛し会えなかったの。お互いから何かを奪って、可能性を無くしてしまうしか方法がなかったの」


そう言った理香は本当に悲しそうな顔をした。

 

「でもこれだけは言えるのよ。しんちゃんの幸せを誰よりも願ってる。この世で一番に」


そう言った後、彼女は僕の髪の毛をくしゃくしゃにして言った。


「孝生の、幸せももちろん祈ってるわ!」


理香の笑った顔が好きだった。理香といるといつも幸せだった。僕にとって理香は現実逃避でしかなかったからかもしれないけれど。


理香はその後カナダに旅立った。ス-ツケ-スには希望ではなく、絶望を詰め込んで。外国に行くって、もっと希望のあることじゃないのかよ、と理香に聞きたかった。


**


「東京にはいつ戻られるとですか?」


理香の母親の言葉で我に返る。


この旅は、僕に思い出させる。少ない思い出たちを。それらを再生することしか、もう僕には出来ない、その思い出たちが、擦り切れるまで。いつか、無くなるだろうか。

 

「明日、帰る予定にしています」


僕は言った。彼女の骨壷を盗んで、筑後川に散骨する。理香の両親には悪いけれど、それが僕のやるべき仕事だ。


「あの、いつ納骨するんですか?」


我ながら変な質問だとは思った。だけど、聞かなくては。理香の母親は静かに笑った。


「納骨はしません。理香は筑後川に散骨して欲しかったみたいだけどね、ふふふ」


そう言って笑う彼女の母親はとてもかわいらしい女性だった。


「もう、どこにも行って欲しくないんですよ。私も、主人も」


僕はなんだか、自分の正体を見抜かれている気がした。


“骨を盗む”気はもう失せてしまっていた。この人たちから、理香を奪えない。理香は、ここにいる。これからもずっと。それは束縛ではない。ただの愛だ。それは決して不幸なことではない。


「そしてね、理香もそれを望んでいる気のするとですよ。ここにおりたかとじゃなかろうかと思うとですよ」


彼女はその言葉を確信して言った。


「いつか私も主人も同じお墓に入ります。どちらが先かはわからないけれど、その時はあの子は笑って迎えてくれる気がするとですよ。あの子が小さかった頃みたいに」


そう言って彼女は笑った。泣いてはいなかった。


「カナダから理香が久しぶりに帰って来た時、理香はよう言いよりました。小さい時から飼っていた犬や、随分前に無くなった理香の祖母の気配のすると。久しぶりに私が帰って来たから二人が会いに来てくれとるみたいって言うとですよ。変な子でしたね。


今日大坪さんが来てくれとるけん、理香はもしかしたら会いに来とるかもしれんですね」


彼女はそう言ったが、僕には理香が僕に会いたいのかわからなかった。


僕は空港には行かなかった。たった一度の約束も守れなかった。僕は、理香を選ばなかった。そんな男に、彼女は会いたいと思うはずがない。


「お花、きれいですね」


僕は苦し紛れに話題を変えた、大輪の白い百合の花。


「理香の婚約者だった子が持ってきてくれるとですよ。」


“しんちゃん”のことだ。僕は黙って百合の花を眺めていた。


「あの子も、可哀想にね。理香があんなにひどかことしたのに。もう理香の顔も見たくなかったやろうに」


理香の母は言った。


「でも、不思議なもので、私は今でも二人の仲よか姿しか覚えてないとですよ。まったく、不器用な子たち」


不器用。そんな風に理香を思ったことがなかった。世の中を舐めた態度で、飄々と生きている気がしていた。


僕はもう一度、百合の花を見つめた。百合の花越しに理香としんちゃんの愛し合った記憶が見えるような気がした。大輪の百合の花の香りを嗅ぐ理香と、それを幸せそうに見つめるしんちゃん。


二人の交わした会話まで聞こえてくる気がした。理香は、笑っていた。白昼夢。これは僕の妄想なんだろうか。それとも僕は理香の記憶の中にいるのだろうか。


なぜ百合の花なんだろう。薔薇が似合う気がするのに、なぜ真っ白な百合の花なのだろう。僕には、わからなかった。 


「では、僕はそろそろお暇します」


僕がそういうと彼女はふっくらと笑った。立ち上がって、少し考えた後で僕は彼女に尋ねた。


「最後に質問していいですか?」


理香の母親はとても不思議そうな顔をした。


「理香さんはどうやって亡くなったんですか?」


その質問をした時、彼女はさみしそうに笑った。


「あの子は最後の方、お肉や乳製品を食べないヴィ -ガンというやつでした。動物の権利がどうのこうのって、私たちにもいつも説教して。


デモにもよく参加して、少し過激なこともしてたみたいです。どこかの農場に仲間と抗議活動をしに行こうとしよって、ドライバーが運転を誤って」


彼女はそれ以上口にしなかった。僕もそれ以上尋ねることはなかった。


「動物保護なんてね、いいことでしょうけどね。でも、私には」


一瞬口ごもった後で静かに、続けた。


「どうしてもあの子と結びつかんとですよ」


僕は理香の笑顔を思い出した。屈託なく、げらげらと笑う彼女を。


僕は理香の家を出た後、なんとか花屋を見つけ出して、その店にあった真っ赤な薔薇の花をすべて買い占めた。


僕の理香のイメージだった。しんちゃんは百合の花だった。今は理香には薔薇よりも百合の花の方が似合う気さえしていたが、薔薇の花を買ったのは僕の最後の意地だった。


お墓には行かなかった。どうせ理香はそこにはいないだろう。だから、赤い橋が見える場所に来ていた。ちょうど夕日が沈むところだった。透けた月が出ていた。


「ごめん、理香」


僕はたった一度の約束も守れなかった。


僕は花束を川に捧げた。この垢抜けない大河に薔薇の花は似合わない気もしたけれど。理香が天国でいつも笑ってくれますように。それだけをひたすらに祈った。


そして顔を上げた時、同じように夕日を見ている男性に気がついた。僕にはすぐにわかった。あの女の子が愛した男性だ。


僕らは長いこと、同じ景色を見ていた。彼もまた彼女を愛していた。心の底から。


東京に帰ったら、妻と話そう。妻はもう僕を愛していないかもしれない。僕ももう妻を愛していないかもしれない。それでも話し合わなくては。


それが別れになるとしても。


佐賀の夕日を心に焼き付けて、僕は歩き出した。東京へ。


**


【あとがき】


これは今から7年前に書きました。普段の文体とは変えて、とにかくひねりもなく、簡単に、と意識して書きました。おかげでさらっと読める短編になりました。


いろいろと至らぬところが残る小説ですが、もう書きたいテーマがこの頃とは変わってしまったので、大きな変更はせずに、2019年3月に修正と加筆だけしました。


暗に意味してることもいろいろとある小説ではありますが(特にラストの理科のお母さんのセリフ)、世に問題提起するには力が足りないなぁと思った課題の多い小説でもありました。


それゆえ7年間誰にも見せず放置してしまっていたのですが、小説は読まれないと意味がないもの。評価は読んだ人に任せることにして、こちらで発表することにしました。


細かいところはほとんど創作ですが、この頃自分に起きた出来事をベースに話を膨らませました。7年後に自分で読み返して、その当時どんな気持ちでパソコンに向かっていたか思い出して、なんとも言えない気持ちになりました。 


読んでいただき、ありがとうございました!


慧 

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彼女の骨 Sui @suiogata83

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