アリスが傍にいる未来

 意識の再燃、焦燥に背中を押される形でヤハタは目を覚ました。曖昧だった意識の輪郭が急激に凝縮してカタチを得る。初めに気付いたのは、腕の中にアリスがいないことだった。

「――……アリス!」

 飛び起きて、すぐ隣でアリスが眠っていることに気付き、ヤハタは安堵の息を吐いた。アリスは清廉な衣に包まれ、吐息も穏やかに眠っている。その頬がほのかに紅潮していることを認め、ぎこちない挙動で手のひらを被せた。

「あたたかい……」

 熱が沁み込む。

 死後の肉体には存在しない温かみ、生きていることの証明である熱がアリスに通っていた。聖別の泉はアリスの命を掬い上げてくれた。途方もない安堵に、全身の緊張が流されていく。ヤハタはベッドに倒れ込むと、額へと腕を被せた。

 ずしりとのしかかった重みに目を細め、数秒後、それが右腕であることに気付いた。

 腕を持ち上げ、訝しむように見つめる。手掌を開き、指関節と筋肉が強張っていることを強く意識しながら動かす。よもや、と弄った左足にも傷はなく、なめらかな肌が感じられた。

 肉体の損傷の消失、付け加えれば叛逆者であるはずの自分が生かされていること。累積していく疑念を胸に、答えを尋ねようと、ヤハタは部屋の隅を見遣った。いつの間にか入ってきたのか、それとも初めからそこにいたのか、ボナパトとドクガが佇んでいた。

「おめでとうございます。あなたは世界に勝ちました」

 一礼とともに、世界の管理者である神は告げる。殊更に恭しく、どこか儀式めいた声音だったが、少女の目は柔和だった。それは隣の騎士も同じだった。

「……勝ったわけじゃない」

「確かにそうだろう。貴様は認められただけだ」

「俺は天界の叛逆者なんだろう? 処罰は下さなくてもいいのか?」

「貴様が娘とともに聖別の泉に沈んだこと、それが問題なのだ」

「ヤハタさん、私は聖別の泉の恩恵について〈死者の復活〉しか告げませんでした。けれど、泉にはもうひとつ〈生者の穢れを洗い流す〉という恩恵があります」水とは流れるもの。水とは雪ぐもの。「簡易に言い換えれば〈罪の帳消し〉です。あなたは生と死が混在した存在でした。それが故に生者への恩恵である〈罪の帳消し〉が適用され、また、死者への恩恵である〈復活〉が適用されました。罪のない者に危害を加えることは禁則事項に列挙される理のひとつです。私達には――」そこでちらりとドクガを見つめ「あなたをどうすることもできない」

「……だが、俺は死後にさえ天界へと牙を剥き、多くの天使を傷付けた。処罰を受けるくらいの罪は犯しているんじゃないか?」

「処罰されることを望んでいるような口ぶりだな」ドクガは揶揄しながら「そんなことは分かっている。だが、エウロパの軍勢と対峙したときに貴様が死んでいたことを知っているのはボナパト様と俺だけだ」たまらない、と訴えるように笑みを含んだ。

「嘘を吐いたのか? 禁じられているはずじゃ……」

「嘘とは、虚言を口で発することで嘘となるのだ。沈黙に言葉は伴っていないだろう」愉快そうに赤髪の騎士は応え、ボナパトを示す。「それに、たかだか元老の一人である俺にならともかく、神が語らない事柄を暴こうとする不埒者など神々の臣民にはいない」

 ふと、ヤハタは形容しがたい違和感を抱いた。真実を貴び、正義を標榜する神々の軍勢が、それが世界の中心に座する人物であるとはいえ疑義を抱こうとしないことに。まるで、連綿と編み上げられ、不変の理と化した〈禁則事項〉に逃げ道を用意しているかのよう……。

「少なくとも、今なら貴様を理解できる。怒りで盲目になっていたときとは違う」

 ドクガ・ハインリッヒは最後に羨むような声音で呟き、部屋から出ていった。

「……彼は、どうしたんだ」

 疑義を露わにしたヤハタへと、ボナパトは甘い吐息とともに囁く。

「ヤハタさんを失いたくないということですよ」

 それはヤハタにとっては俄かには信じがたく、ボナパトにとっては当然の感情と言えた。未来を見通すことで神々の安寧を保障し、同時に己の享楽を擲った男の言葉なのだから。

「さて、あなた達を下界に帰すには、もう少しやるべきことがあります。このままお待ちください」

 道化服の少女は慇懃に告げて背を向ける。そして、部屋から出ていく間際に、

「あなたの〈言い訳〉はきっと成就します」

「…………お見通しか」

「えぇ、神は何でも知ってるんです」

 帽子の鈴を鳴らしながら少女ははにかんだ。

 扉が閉められ、ヤハタはアリスと二人になった。部屋の中はシンと静まり返り、衣擦れの音がやけに大きく響く。何を思うでもなく、アリスの頭へと手が伸びる。ゆったりと被せ、金糸のような髪に指を潜らせて梳いた。アリスの穏やかな寝顔を眺めるうちに、ヤハタの胸中では熱い雨が雪崩を打つように降り始めた。

 緩んだ涙腺が決壊しないように必死に抑え、それでも嗚咽が込み上げてくる。

 ヴァローナと交わした言葉、アリスに語りかけた言葉――生きるための言い訳。

「もう叶っているよ、神様」

 家族を取り戻したいと願い、そして、確かに家族はここにいた。

 腕の中。温もりが失われることのない近くに。

 清算しなければならないことは残っている。たとえ摂理が許したのだとしても、ヤハタが犯した罪は彼の魂に染み付いている。雪ぐことは、きっと神様にもできない。

 傷付けてきた。殺めてきた。数え切れないくらい誰かの未来を奪い――ヤハタはここにいる。その記憶は氷でできた棘のように、魂に深々と刺し入れられている。幸せという名の熱を奪い、けれど、忘れることを願えば水となって消えてしまう。

〈生きるための言い訳〉は成就した。これから、ヤハタは〈熱〉とともに生きていく。

 彼は常人よりも多く死後の世界に関与した。誰も知るよしのない世界の理に触れた。

 けれど何も変わらない。何かが変わってはいけない。

 神様も、魔法も、終わりの続きの試練も、その答えもヤハタという人間に関与させてはならない。ふと、頭が痺れてきた。波間で揺れるような眠気に意識が流されていく。

 部屋の中に漂うシトラスの香りを吸い込み、目を閉じた。

 目が覚めたら凡人になっているように。市井の一人となっているように。

 等身大の人間として不格好に生きること。それだけが彼に求められていることだった。

 ただ、願わくば、アリスが傍にいる未来だけは残しておいて欲しい。

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未来強奪 -ghost rule- 亜峰ヒロ @amine_novel_pr

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