最果てへ

 最果てへと近付くにつれ、そうだと分かる。生命の痕跡が薄れていくためだ。神は泉へと権能を沈め、かの地を聖域とされた。因果律を搔き乱すやもしれない泉へと神の臣民が近付くはずもなく、その威光によってあまねくところまで照らされている天界では、知能を持たない動植物までもが聖域から姿を消す。非常に細かな砂で構成された白いシュガー砂漠、吹き渡る風によって作られた波模様が延々と続く砂丘を越えると、泉は姿を現した。

 オアシスのように、満たされた、壮麗な光景ではない。水の溜まった窪地があるだけだった。そんなものが〈聖別の泉〉であると認識したのは、窪地を取り囲むようにして無数の天使が犇めいているためだった。はじめ、天上で翼を広げている一人の天使がヤハタを認めた。言葉が交わされた様子はなかったが、気付きの波は天空にも地上にも瞬くうちに伝播していき、彼等は一様に憎悪と侮蔑の炎を瞳に宿した。

(これはまた、大掛かりなことだ)

 天上に五百、地上に五百、合わせて〈一千の善〉が〈一の悪〉を睨み付ける。デューイ・マルカルの魔法と対峙したときに抱いた無力感が、ぐっと喉に込み上げてくる。

〈あぁ、これは無理だ〉圧倒的な数の暴力を前にして、かつての彼は諦めた。抗うことはできないと早々に判断し――それを責めることはできない――娘を腕の中に隠した。

 今はどうだろうか。

 抗戦がかなう。追い縋ることができる。まだやれることは残っているといった自負と自信が無力感を押し流す。それはきっと魔法を胸に宿したからなのだろう。

「アリス、掴まっていてくれ」

 娘が抱き着いたことを確かめ、ヤハタは緩慢に――あるいは不遜に――歩き出す。一千の軍勢を前にして、彼は身を隠すこともなく泉へとまっすぐに進んでいく。意識が朦朧としているのか、それとも自棄になっているのか。ヤハタの行動は、天使達の目には全てを諦めているように映った。

 最も近くにいた三人の天使が動き出す。彼等は各々の手に長槍を握り、鉾先をヤハタへと向ける。長槍のけら首に結わえられた軍旗がはためき、印章をまざまざと見せつける。神の代行者であることを示す印章、彼等は神へと叛意を示した〈異教徒〉を誅伐する。ヤハタの命は、軽くはなくとも、彼等にとって尊重すべきものではなかった。鋼の群れが迫り来る。殺意の体現を見上げ、ヤハタは己の魔法の〈名〉を唱えた。

 加速――あまりにも過ぎたる、零へと至り、世界を凍結させるほどの〈過速〉が訪れた。

 誰も魔法をかけられたことに気付かない。時を止められることは、それそのものが他者に危害を加えるものではないのだから。肉体の自由だけでなく精神の自由に至るまでが束縛されたとしても、ヤハタがその気にならなければ、天使達が傷付けられることは決してない。だが、たとえ〈加速〉の前後でヤハタの姿が消失したり、心身に傷を負ったりしたとしても、彼等は「叛逆者の魔法は加速である」と認識違いをするばかりで、加速の極限には考えが至らないだろう。すなわち、ヤハタが神に匹敵する魔法の発現者であると気付かない。

 もしも気付いてくれたなら、戦いは収着しただろうに。

 こんなことは無意味だ。そう感じることも傲慢なのだろうと思いながら、ヤハタは前を向いた。あと数センチも動けば眼窩と心臓、頚椎と延髄を貫くだろう場所に長槍の刃先があった。

 その場で屈み込み、槍の牢獄から脱ける。負傷したままの足を引きずり、砂に足を取られながら進む。額から浮き出た汗が目に入り、思わず瞑目した。

 時は流動していたことを想起する。

 背後で砂柱が上がり、天使達の間にどよめきが起こる。その理由が人間が魔法を発現したためか、負傷した足で四方からの攻撃を避けたことに対してなのかは分からない。

 ヤハタは天使の群れを一瞥した。彼等の覚悟は固まったようだった。

 すなわち、厄介なことにヤハタへの侮りを捨て去ったのだ。

 大地を震わせる一千の咆哮が轟く。

 ヒトの波が近付いてくる。視界を埋め尽くす真っ黒な敵意だ。

 アリスの矮躯へと腕を添え――決して振り落とすことのないように――ヤハタは半身を捻った。腕と背中を掠めつつ、二本の長槍が通り過ぎる。両脇を挟まれ、前に進もうとした刹那、進路を遮るように白銀の剣が鼻先を横切った。だが、複数の遊撃手に囲まれてなお、彼に焦燥が浮かぶことはなかった。

 どこまでも冷静に。意志の熱は失わないまま、心身はどこまでもフラットに保つ。

「零へ――」その言葉は祈りに似ていた。極地へと至ることを神に阿るように。凍結された世界の中でヤハタだけが自由だった。彼は天使の群れを見渡すと、ウィンチェスターの銃口を向けた。淡々と、一定のペースで撃鉄が下りる。ボナパトの「呪い」が刻まれた弾丸は、天使の肌に触れると溶けるように崩壊し、呪印を彼等の肉に刻んだ。魔力の調律を狂わせ、天使を無力化するための弾丸だ。ヤハタの望みは殺戮ではない。目的のために降りかかる火の粉を払おうとはしても、火種を没することはしたくなかった。

 瞼の裏でチカチカと光が明滅し、凍結は解かれた。背後の気配に振り返る。頭部に呪印を刻まれた天使が、意識を失いそうになりながらもヤハタを睨み付けていた。ゆったりと、威嚇のために銃口を向ける。それで退くだろうと、ヤハタは相手を侮っていた。天使は唸るような咆哮を上げ、長槍を突き出した。刃先がこめかみを掠め、血潮が噴き出す。

 ヤハタは僅かに茫然とし、傲りは命取りになると再認識した。眼光に鋭さが増し、彼は冷酷に気色ばんだ。発砲、続け様に弾丸を叩き込む。頽れた天使を見下ろし、片手でウィンチェスターの排莢と装填を行う。

「どうやら、呑まれかけたようだ」

 勘違いしてはいけない、囁きが全身に巡る。この魔法は決して頂へと至るものではないのだから。時の凍結――連綿と編み上げられてきた系図の末端に生じた、たった一人の人間によって未来が永久に強奪されることを世界は許さない。ドクガとの戦いに於いて、加速の上澄みにさえもタイムリミットは訪れた。加えて、連発による心身と魂の摩耗が伴う。時を支配する彼が決して神に縋れはしない理由が、そこにはあった。

 加速は強大だが、完璧ではない。

 おそらく、完璧という称号はドクガ・ハインリッヒにこそ相応しいのだろう。

 前を見据える。泉までおよそ九〇〇メートル、壊れたこの体でどこまで行けるのか。

 心に過ぎった影を振り払い、ヤハタは走り出した。天使の群れもそれに呼応する。彼等は弧を描くように天と地に展開していく。包囲網は完成されつつあった。それでも、行く手を阻まれながらもヤハタの足取りに迷いは見られなかった。

 天空が突如として明るさを増す。流星が降るように、焔の柱が降ってくる。

 加速を発現、足を動かすことをやめない。僅かに焔の落下点から外れたところで加速は途切れた。背後に降り注いだ焔は砂塵を巻き上げながら熱波を周囲に広げ、ちっぽけな人間の背中を厖大なエネルギーで押した。

 爪先が砂原から離れた。ヤハタは抗うこともできずに吹き飛ばされ、横転し、砂丘に突っ込む形でようやく静止した。背中には酷い炎症を負ったはずだ。それなのに痛覚は存在せず、口内で砂がざらつく感触を味わっているだけというのは不思議なものであり、己の魂が摩耗している事実を殊更に意識させられた。

 砂丘から体を抜く。目元の砂を拭い、瞼を押し上げたときには焔の壁が迫っていた。

 全てを灰燼に帰そうとする灼熱の殺意、罪のないアリスが腕の中にいることも厭わずに。危機感とともに加速を発現させようとしたとき、嫌な悪寒が背筋を走った。眼窩をなぞるように激痛が駆け抜け、立ち眩み、ヤハタは思わず蹲る。

 魔法は発現しなかった。

《加速は強大だが完璧ではない。連発は魂を削る》

 綻びが生じた瞬間がまさにこの時であることについて嘆くのは意味がない。一人で立ち向かえないことなど、彼は分かっていたのだから。圧倒的な数の暴力を覆せるような魔法でないことは初めから承知していたはずだ。

 それでも嘆かずにはいられない。それでも仕方のないことだと受容することなどできない。自分が潰えるだけならまだ許容できたかもしれない。だが、眼前にはアリスの死が迫っていた。混濁する魂の揺らぎに苛まされながらも加速を発現しようと努め、そんな彼を嘲笑うように、魔法の兆しは見えなかった。焔の壁は間近へと迫っていた。慈悲の片鱗もない熱塊を前にして、肝心なときにヤハタの魔法は沈黙した。

 呑み込まれる。

 一人では敵うはずもなかった。分かり切っていたことだ。

 それでは、一人ではなかったなら?

 焔の濁流が消える。ヤハタは緩慢に目を開ける。庇うように抱き締めたはずのアリスは腕の中にはおらず、代わりに、彼を覆うように薄緑のドームがあった。

《私がヤハタの剣になる》

 かつてのヴァローナの言葉だ。

(あぁ、違う。お前の魔法は誰かを傷付けるためではなく、守るためにあるのだろう)

 ヤハタはアリスに触れると、破顔し、訴えるように告げた。

「アリス、翼になってくれるか?」

 応えをしたかのように薄緑のドームは淡く輝き、天蓋から細かな光の粒へと崩れていき、ヤハタの背中に集まって翼となる。白翼が広がる、飛翔を追い求めて。

 全方位を埋め尽くすように、焔の濁流が再び迫っていた。今度は、ヤハタが蹲ることはなかった。大地を踏み蹴ると同時に体が垂直に上昇する。眼窩になだれ込んだ焔の海は行き場を求めて跳ね上がる。翼による上昇と厖大な熱波による推力とが合わさり、ヤハタは爆発的に加速した。乱暴に投げ出されるような形で空に舞い上がる。大地の天使も、天空の天使さえも俯瞰する高みへと――彼等は到達した。

 落下を防ぐために広がろうとしたアリスを制し、ヤハタは右手に握るウィンチェスターと、胸ポケットから取り出した呪印ボナパトの弾丸を示した。

複写トレースしてくれ。物量には物量で対抗するしかない」

 瞬時に翼は掻き消え、重力に招かれるままに落下するヤハタの周囲に莫大なウィンチェスターの群れが現れた。

「雨を降らそう、アリス」

 一千の撃鉄が一斉に下りる。連なり、重合した発砲音は雷鳴の如く轟いた。

 真っ黒な弾丸の雨が降り注ぎ、天使の肌に触れると一斉に呪印の花を咲かす。純白の砂漠は一瞬にして蠢く闇へと変貌した。生身で落ちていくヤハタに対して反撃する余力のある天使は僅かだった。急激に高度が下がり、耳鳴りに襲われる。焦りに襲われることはなかった。彼は娘を信頼していたし、それに応えるように白翼が彼の背中に再構築された。

 翼が大きく広げられ、落下速度は減衰した。直角に近い弧を描いてヤハタは方向転換する。地面すれすれを這うように飛翔する。目指すべきは〈聖別された泉〉、ただそれのみ。

《おとうさん、じぶんでとべばいいのに》

「娘に甘えたいときだってあるのさ」

 実際には、死んだとはいえ肉体を抱えるヤハタには飛翔が適用されなかっただけなのだが、それを娘に告げることはなかった。泉まで五〇〇メートルを切った。向かう先にはトマホークと見紛うばかりの巨大な剣が幾太刀も浮かんでいた。

《どうする? よける?》

「いや、まっすぐ進んでくれ。委細は俺が調整する」

「りょう、かい」

 大剣の投擲に合わせてアリスは尖るように加速した。相対速度も甚だしく、大剣は瞬くうちにヤハタの髪を掠めるまでに迫ろうとしていた。


 思考がひどく穏やかなのが分かる。ここは戦場だというのに、命のやり取りを孕んだ極地だというのに、逸るどころか冷めている。不気味なほどに冴えている。

 背筋を伝う嫌な悪寒がない。眼窩を貫いた痛みも消え去り、肉体は至極好調だ。

 気構えの問題などと精神論で片付けるつもりはほとほとないけれど、魔法の発現に失敗したときと比べて違いが生じたのかと問えば、一人で背負わずともよくなったことだろう。

 アリスを抱えて進んでいた道を、アリスと共に歩くようになった。

 いつまでも守らなければならない存在ではない。子供は強くなる。

 娘の魔法は制約のない変幻、父の魔法は零へと至る加速。その組み合わせは反則だった。

 万物の創造と時の支配――父娘は組み合わさることで神に迫らんとする魔法を発現した。


 大剣の刀身に手を置き、ヤハタは跳び越えるように足を胸へ引き寄せた。加速の解除、空中で静止していた大剣が滑り出す。一刀をいなせば続く二刀目が迫っていた。

 間断なく発現される魔法、静止、止水の如き刀身の上を駆け抜ける。柄を踏み蹴ったところで動き出した。アリスの白翼が空を押し付け、肉体は加速する。世界は流線へと変化し、光とともに背後へと流れていく。風圧に阻まれているためか、世界は静寂に満たされていた。

 喧騒は遠い。命のやり取りをしているとは、自覚できないほどに。

 娘と共に空を飛翔する時間は、ひどく安穏を得られるものだった。

 泉まで二〇〇メートル。ウィンチェスターを構え、照準はさほど定めず、威嚇のためだけに弾丸をばら撒いた。一瞬の怯みを突き、天使の間を掻い潜って進む。

 泉まで一〇〇メートル。最後の一人として進路に立ちはだかるのは長身痩躯の騎士。見覚えがある。彼はドクガの隣にいた騎士だ。

「逆賊め」騎士の唇が憎悪とともに動く。言い返してやりたい。誤解を解きたい衝動に駆られる。せめて彼等が敬愛するボナパトの無事だけでも告げてやりたいと思うものの、言葉を発する余裕もなくヤハタとエウロパは切り結んだ。

 エウロパはきっと競り合いを所望していたことだろう。けれど、目的は彼の背後にあった。

 競り合う腕の力を緩めた。エウロパの剣が肩透かしを食らったようにガクリと突き出され、押されるままに任せ、刃が交じり合う一点を支点としてヤハタの体はぐるりと旋転した。覆い被さり、越えてゆく。エウロパの背後には泉が広がっていた。

 背中の翼が崩れ、アリスへと戻る。ウィンチェスターを放り捨て、娘を抱きしめる。縺れた足ももどかしく、ヤハタは泉に飛び込んだ。

 聖別された泉に、娘の〈強奪された未来の続き〉を託して――。

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