第2話

「はあ……」


後宮の外れの庭園の中の、小さな四阿あずまや。朱塗りの屋根の下、鈴を転がすような声ではや鳴き出した秋の虫の声をぼんやりと聞きながら、浮かない顔で杯を傾ける男がいた。たっぷりとした黒髪をかんざしでまとめ、ゆったりとした衣を纏う彼は、この国で唯一禁色を身に着けることが許されている人間である。肩を落としてため息をついては手の中の玉の御守りをもてあそび、杯をあおり、また手遊びに戻る。一体それを何度繰り返しただろうか。


「李淵、怒っているだろうなあ……」


またやってしまった、と利宝は柳眉を八の字にして呟いた。先ほど軍議の様子とは打って変わって気弱な様子で、丸く平たい御守りを手の中で転がす。つるりとした乳白色の玉には、桜の花と龍の文様が緻密に彫り込まれていた。昔、李淵の母が、利宝の母に送った玉の帯留めを、二つに分けたものの片割れである。十年前、二人が十八歳になってすぐの冬。利宝と李淵を逃がすために二人の母が犠牲になった大火の折に、唯一持ち出すことができた品だった。


指でつまんでゆらゆら、と御守りを揺らし、それをじっと見つめる。もう一つの片割れは、李淵が肌身離さず身につけている。お互い母を殺され、ほとんど何もかもを失い、身一つで逃げ延びた日のこと。燃えさかる炎の熱さと、兵士の怒号と、耳にこびりつく女達の悲鳴を。あの日から、ただの一度たりとて忘れたことはない。


初雪が降った日の夜。皇位継承権を持つ皇子を減らすために放たれた火はあっという間に燃え広がり、逃げ道を塞いだ。何とか避難しようと逃げ惑う人々の前に立ちはだかったのは、万が一にも逃げ延びることのないようにと武器を構える兵士だった。身の回りの世話をしてくれていた数少ない女官達も、自分たちの母達も、皆。利宝と李淵を逃がすために火にまかれ、兵士に斬られて死んでいった。放火の主犯である皇太子の外戚の名を取り、のちに「如栄じょえいの大火」と呼ばれる出来事である。


どうにか後宮を脱出し、街のはずれの山まで逃げてきた後。赤く染まる後宮を見つめながら、利宝は絞り出すような声で叫んで泣いた。自分たちはただ、後宮の隅で息をひそめて生きてきただけなのに、なぜ。皇位なんていらなかった。こんなことなら、後宮を追われることになっても継承権を返上して、どこかへ行けばよかった。もうどうしたって遅いのに、言葉と感情があふれて止まらない。母とミンファを、燐華りんか玉葉ぎょくよう祥藍しょうらんを返して、と願っても。みんな利宝の手の中から零れ落ちていってしまった。もう自分の傍にいてくれる人は、ただ一人だけだった。


『お前は……お前だけはずっと傍にいてくれ……もう、俺のために誰も死んで欲しくないんだ……!!』


感情に流されるままそう叫んだ言葉は、ひどくひび割れた声であたりに響く。もう、涙も声も気力もつきかけていた。今から思えば、そばにいた李淵だってきっと声をあげて泣きたかったことだろう。けれど彼はそんなそぶりは一切見せず、利宝の傷と泥にまみれた手を両手でつつみこみ、低く優しい声で言葉を返してくれた。


『一生涯かけて貴方を御護りします。そして、絶対に貴方より先に死なないと誓いましょう。ずっとおそばにいます、我が君』


あなたの望みは私の望み。必ずや、叶えてみせましょう。そう誓う李淵の手を握り返し、利宝は涙に濡れた声で絶対だぞ、と繰り返した。何度も言葉を重ねる利宝を落ち着かせる為もあったのだろうか。これを、と李淵が差し出したのは利宝に母が肌身離さず身につけていた二連の玉の帯留めだった。


『これは、昔ミンファが母上に貰った……』

『ええ、私の母が賢妃けんぴ様に送ったものです。別れ際にこれだけでもとおっしゃられて、お預かりしておりました』

『母上が……』


利宝は命からがら逃げるのが精いっぱいで、身一つで逃げなければならず、こういったものは何も持ち出せていなかった。壊さぬよう、きっと懐深くにしまわれていたのだろう。とろりと柔らかな乳白色をした二連の玉は、傷一つないままだった。


『母の故郷では、玉を御守りとして渡すそうです。白は何色にも染まらぬ高貴な色。邪を祓い、厄災を跳ね返し、大切な人がいつまでも息災でありますように、と』


李淵の言葉と共にそっと手の中に落とされた御守りを握りしめて、利宝は涙を拭う。ふと空を見上げるといつの間にか雪はやみ、雲間からは煌々と輝く乳白色の半月が顔をのぞかせていた。もし、これが御守りなのであれば、どうか利宝の命だけではなく。そんな思いを込めて震える手で玉を一つ紐から外し、李淵へと差し出す。


『利宝様、これは……』


こんな大事なものを受け取れません、というような表情の李淵を視線で制し、そっと手に握らせる。もう、守られるだけは嫌だ。そんな思いを込めた誓いの言葉を利宝は紡ぎ、李淵はそれに応えた。それ以来、ずっと二人は互いのために生きてきた。


「我らふたり……」


あの日の誓いを思い出しながら、利宝は玉を揺らして歌うように唇へと言葉をのせる。いまここに答えてくれる片割れはいないが、何となく言ってみたくなった。


「決して袂を分かつことなく、死ぬまで共に傍にいよう」


どうか、ずっと傍にいて。死なないで。そう無我夢中で叫んだ言葉は一方通行ではなく。どちらが上でもなく、下でもない。主従という枠を超えた誓いの言葉を、あの時李淵は返してくれた。だからこそ今、利宝は「皇帝」として皆の前に立ち、政を行い、国のために──ひいては李淵のために、戦うことができるのだ。


「我は李淵のために生き──」

「……我は、利宝のために生きよう」


返されるはずのない言葉に、利宝がはじかれたように振り向く。そこにいたのは紛うことなき己の半身であった。仕方のない人だ、と微笑む瞳は柔らかく、軍議での凍てつく冷たい視線は微塵も感じさせない。続けて下さい、と促されて、利宝は最後の言葉を紡ぐ。


「死がふたりを別つまで」

「ずっと共にいよう」


一切の迷いなく利宝の言葉に応える李淵は、あの誓いから全く変わっていない。そうすんなり信じ切れるぐらいに、声も、仕草も、表情も、あの時と同じだった。変わったのは、年を重ねて精悍さを増した姿だけだ。


「利宝様。私は貴方を置いて死ぬことなどあり得ません。ですから、どうか国の命運を犠牲にして私を守るようなことはなさいませんよう」


よろしいですね、と念押しするように微笑まれて、利宝はわかった、と返事するほか無かった。全くもって、その通りなのである。信じ切れていないのは、利宝のほうだ。いつか李淵も傍からいなくなってしまうのでは、と幼子のように怯えて、保守的な方へと走ってしまう。そんなことをしても、李淵は喜ばないとわかっているのに。


「……李淵は手厳しいな」

「利宝様のためを思ってのことですよ。私の身を案じて下さるのは嬉しいが、もう少し他にやりようがあるでしょう」

「だって……俺はそれ以外に李淵に返せるものがないんだ……」


自分でもなんて気弱な、と思う。今まで一度も打ち明けたことのなかった、ずっと心の底で抱え込んでいた思いだ。その言葉を聞いた李淵は驚いたように目を見開き、数瞬の後やわりと微笑んだ。


「……私は多くのものを貴方からいただきました。異民族の血が混じる私がこうして貴方の傍で生き、剣を捧げることが出来るのは、ひとえに貴方のおかげです」


李淵は幸せそうに目元を緩め、懐からそっと玉の御守りを取り出した。利宝の御守りの片割れに優しく指を滑らせ、ぎゅっと握りしめて胸にかき抱く。


「混血の人間に対して、この国の人々は決して優しくない。今も、私を快く思わない人は沢山いるでしょう」


彼の言葉に、利宝がぐっと言葉に詰まる。李淵が命をかけて敵兵をほふり、時には同じ髪や目の色の人々と戦い──そうやって国に忠義を尽くす姿を見せてもなお、いつか裏切るのではという声は少なくない。


「物心ついたときからずっと夷狄いてきだ、蛮族のいぬだと罵られ、一方的に虐げられることも多かった。ここは、私が生きるのに向いている場所ではなかったんです。軍に入ったのも、義英様にどうしてもと請われたから。ただそれだけでした」


利宝が他の皇太子たちに嫌がらせを受ける一方で、李淵もまた不当な扱いをずっと受けてきた。もともと、恵国に降伏した西戎せいじゅうの貢ぎ物の一つとして、李淵の母ミンファはこの国へとやってきた。だが当時の皇帝は貢ぎ物の娘に興味を示さず、数年で当時の宰相補佐であった範備翠はんびすいへ下賜された。彼は李淵が範姓を名乗ることこそ許したが、それ以外のものは一切与えなかった。後宮へ留め置かれていた時に似た境遇の者同士、親交を深めた利宝の母賢妃がミンファを乳母として後宮へ呼び戻さなければ、下女にも似た酷い扱いをされていたかもしれない。なにより、実父よりも李淵を息子のように可愛がり、目をかけてくれる剣の師の義英との出会いはなかっただろう。


常に北狄ほくてき東夷とういの脅威に怯え、西戎と常ににらみ合いをしなければならないこの国の人々が、異民族の風貌を憎むのはある意味仕方のないことかもしれない、とも利宝は思う。だが、李淵にとっては理不尽極まりない、一方的な暴力に等しい差別だったに違いない。


「軍に入れられたとき、同時に少し安心もしました。ああこれで死に場所が出来た、と。利宝様や賢妃様に恩義はありましたが、それ以外この世界には何の未練もない、いつ死んでも良いと思っていました」


初めて聞く李淵の告白に、利宝はそうだったのかと得心がいった。確かに、無理矢理義英に引っ張られ、軍に放り込まれた当初はどこか投げやりというか、命を省みない無謀な作戦や行動を多く取っていたように思う。もっと命を大事にしろ、と利宝が再三叱っても大丈夫ですと突っぱねられるだけで、その行動は変わらなかった。死に場所を探していたのと言われれば、その行動にも合点がいく。


「だから、あんな使い捨ての駒みたいな無茶な作戦でも従っていたんだな……」


昔を思い返しながら利宝がそう呟くと、李淵は苦笑しながら頷く。あの頃は私も子どもでした、とこぼす彼の表情に、先ほどまでの陰りはもうどこにも見えなかった。


「貴方がこれを私に下さったとき、私は初めて死にたくない──生きたい、と強く思った。貴方を一生お守りし、貴方に守られるだけの価値がある人間になりたい、と。そう願いました」


その言葉に、利宝は息をのんだ。李淵は多くのものを自分にくれるのに、自分は何一つとして彼に返せない。そう思っていたのは間違いだったのだと、改めて思い知らされる。利宝が彼の存在に救われたように、李淵もまた、利宝の存在に救われていた。その事実を知って、胸のなかにじんわりと温かいものが広がっていく。


「利宝様──貴方が、私に生きる意味を下さったのです」


だから、と続ける言葉を待たずして、利宝が李淵の元へと駆け寄る。信じてなくてごめん、自分のことしか見えてなくてごめん──色んな言葉が渦を巻き、浮かんでは消えてゆく。李淵はそんな利宝の様子に、全てわかっていますよ、と頷いた。


「……信じて、いるからな」

「ええ。必ずや、貴方に勝利を捧げて見せましょう」


この剣と、玉の御守りに誓って。そう言って不敵に笑う己の半身に、利宝は笑み崩れた。李淵なら絶対に大丈夫だと、そう信じ切れるものがそこにあった。



そして、半月後。李淵はその言葉通り、膠着こうちゃく状態だった戦況をひっくり返し、恵国軍に勝利をもたらした。烏国に狙われていた国境近くの備州びしゅうは雪に閉ざされる前に無事に冬支度をすることができ、民は皇帝と将軍へ深く感謝したという。

その後も、李淵は文帝の忠実なる剣として数多くの戦果を挙げた。文帝もまた善政をしき、多くの改革を行い、国を豊かにすることに努めた。「文範の治」として讃えられるその治世は、後に恵国が大陸東部を支配する一大帝国になるための礎になったという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死が二人を別つまで さかな @sakana1127

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ