死が二人を別つまで

さかな

第1話

「──以上が、今回の作戦である」


 文帝ぶんていが静かに目の前に座る将軍たちの顔を見渡すと、一人だけ異議あり、と唱えるものがいた。切れ長の黒い瞳に色素の薄い茶色の髪の、大陸西方の遊牧民を思わせる白皙はくせきの青年へと一斉に視線が向く。将軍たちの中でも下座のほうに座るその声の主は、文帝の乳兄弟で十二将軍の一人である範李淵はんりえんだった。


「なぜ、私の軍を最前線である左翼に配備しないのですか。恐れながら、私の軍が一番適任かと存じますが」

「……ここが一番激戦になるだろう。お前は最前線で戦うより、もっと大局が見極められる場所に居るべきだ」

「それはまた、随分と見くびられたものですね、我が君」


 凍てついた瞳が、静かに文帝を射貫く。現皇帝の懐刀として知られ、剣術の腕前で彼の右に出る者はいない、と恐れられる若き将軍。戦に出れば最前線で勇猛果敢に攻め入り、厳しいとされた戦局を何度もひっくり返し、幾度となく勝利をもたらしてきた彼の主張は、あまりにも正論すぎた。


 静かに成り行きを見守る他の将軍達は、この主張のどちらに部があるのかを痛いほど理解していた。それでいて、目の前の皇帝が簡単には頷かないことも。


「お前を侮っているわけではない。だが、今回の作戦はそれが最良だと私が判断した」

「その判断が間違っている、と申し上げているのです。私情で判断を誤るのは、愚王の行いと等しきこと。それは、貴方もおわかりでしょう」


 冷静沈着に切り返された言葉に、皇帝は眉を微かに跳ねあげる。自分に近しい者たちだけの軍議で気が緩んだのか、よほど気に障ったのか。普段感情をあまり露わにしない文帝にしては珍しく、怒っているのが見て取れた。


 彼とて、李淵の言葉が正論なのだと頭では十分理解しているのだ。隣国、烏国うこくとの国境線での戦いは現在泥沼状態に陥っている。大陸北東部に位置する恵国けいこくはあと二月ほどで雪に閉ざされ、行軍が難しくなる。冬までに決着をつけなければ、不利になるのはこちらの国である。だからこそ、この場にいる全員が戦局の厳しさを理解していた。決して生ぬるいやり方では勝てないと言うことも、李淵が最前線で指揮をとることが、一番勝利に近づくやり方なのだと言うことも。


「我が君。ご決断を」


 ひとひらの温もりさえ宿さぬ黒曜石の双眸が、ひたと主を見据える。それを後押しするかのように、幾人かの将軍達も返事を促す視線を送ると、文帝はたっぷり呼吸三つ分の沈黙ののち、大きなため息とともに席を立った。


「──範将軍の軍を左翼前線へ、しん将軍の軍を右翼中央へと配備する。これにて軍議は終了だ」


 最後にそれだけを言い残し、文帝は足音荒く部屋を出て行く。彼の退出とともにぴんと張りつめた空気が一気に緩んだのを感じ取り、背筋を伸ばして座っていた将軍達はほう、安堵の息をついた。今日の決着はずいぶん早かったな、あの御方もわかってはいるんだろう、やりたくないだけで、などという囁き声に、李淵は眉根を寄せて大きなため息をつく。


 本当なら、こんなことは言わせたくないのに。そう思って進言すればするほど皇帝は頑なになる。最近はあまり表だって抗議することはなかったのだが、今日はつい口が出てしまった。自分もまだまだだな、と肩を落として、李淵は退出の身支度をする。


「いつも嫌な役回りですまんな、李淵」


 そう申し訳なさそうに声をかけたのは、十二将軍を束ねる八柱国はっちゅうこく大将軍の一人、崔義英さいぎえいだ。今回の隣国との戦いで軍の最高責任者に任命されている彼は、幼い頃より二人の剣の師を務めており、文帝と李淵の関係をよく知っている。李淵が文帝に対して出過ぎた発言をしても咎められないのは、彼のおかげと言っても過言ではない。


「あまり利宝りほう様を追いつめてやるなよ」

「……わかっていますよ。そろそろ、頭も冷えたころでしょうから」


 これからどこに行くのかを完全に見透かされ、李淵は苦笑を浮かべながら言葉を返した。利宝とは文帝の名である。李淵、剣の師である義英、幼少より利宝の才能を見出し、目をかけていた宰相の劉子藍りゅうしらんの三人だけが、その名を呼ぶことを許されている。


 李淵もわかってはいるのだ。熾烈な皇位争いの末、実母をはじめ心を許せる者をほとんど亡くした彼の孤独と、唯一無二の友を死地に向かわせたくない、という甘い幻想を。


 しかし、だからこそ李淵は許せない。そうやって自分を信頼せず、ぬるま湯のように中途半端に自分を守ろうとする彼が。何より、皇帝に弱みを作ってしまう自分が一番嫌だ、と思う。


「自分がいなければ、なんてくだらないことを考えるんじゃないぞ」

「――お見通し、ですか」


 自分の考えを言い当てられた李淵は自嘲気味に笑った。何度、そうやって考えたことだろう。自分が利宝のそばにいることで、弱みを増やしてしまっているのではないか。彼の甘さを引き出してしまっているのではないか、と。だが義英は勘違いをするな、と怒りをはらんだ声で李淵に詰め寄った。


「お前の考えてる事なんぞ、すぐわかる。いいか、政治にも権力にもあまり欲がない利宝様が、なぜ皇位につくことを承諾したのか、わかるか」

「皇位争いと疫病で、皇位継承できる皇子がほとんどいなくなってしまったからでは?」


 利宝の母は三代前の皇帝の子孫である薄氏はくしの娘だが、有力な後ろ盾がおらずほぼ庶子の皇子といっても良い身分だった。本来なら皇位など回ってこないような末席の皇子であるものの、他の妃の産んだ皇子と違って影響力のある外戚がおらず、また彼はあまり権力に固執する質でもない。それゆえに、外戚の専横で荒れ果てた朝の次の皇帝にと請われた。皇位争いから逃れ、母方の遠縁を頼って亡命をしていた利宝に拒む権利はほぼなかったと言っても良いだろう。そう李淵は考えていた。


「確かにそれもあるが、それだけではない。お前が軍にいるのが心配だったから、と」

「……は?」


 我ながらなんて間抜けな声だ、と李淵は義英の言葉を聞きながらぼんやりと思った。曰く、若い頃あまり処世術が上手くなく、将軍達と衝突してばかりだった李淵が勝ち目のない死地に向かわされ、消されないようにするためだ、と。皇帝になれば、采配の最終決定権は利宝自身が握ることになる。だから、自分は皇帝になりたいのだ。そんな思いを義英に漏らした後、利宝は皇帝になることを承諾したのだという。


「わかってるだろ、李淵。利宝様が『文帝』であるための拠り所が、お前なんだ。決して弱みなんかじゃねえよ」


 その言葉を聞いた瞬間、李淵が大きく目を見開く。義英の台詞は、自分でも驚くほど心の中にすとんと落ちてきた。利宝は李淵のために。李淵は利宝のために。昔二人で誓い合った約束がそういう形で彼の中に生きているのだ、と。そう理解できたからだ。


 最初は義英に無理矢理放り込まれただけの李淵が、軍に身を置き続ける理由。剣の腕と軍師のまねごとが上手いだけで、決して人付き合いが上手い方ではない李淵が地位にこだわるのもまた、利宝の為である。知識や才はあっても、色んなものに対して優しすぎる彼が皇帝であり続けるため。李淵が地位と権力を欲しているのは、そのためだけに他ならない。他人に聞かれればなんと勝手な理由で、と言われるかもしれない。だがそれが李淵の生きる理由であり、全てであった。


「さあ、わかったらとっとと利宝様のところへ行け、馬鹿弟子」


 どん、と背中を叩かれてつんのめりながら、李淵は頷いた。きっと今頃落ち込んでいるだろうな、と手のかかる主の顔を浮かべながら、部屋を退出する。後宮の外れ、利宝の私室がある区画の端に、小さな庭園がある。あまり人に弱みを見せたがらない彼が向かうならば、きっとあの場所だろう。そう見当をつけて歩き出した李淵の表情は、先ほどとは打って変わって明るいものだった。

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