第4話(終)

「……ずっと前から知っていたんでしょう?」 

「ええ。入部した当初から、ね」


 分かりきったことなのに、いざ誘の口から白状させると、照れ臭くもなるわけで、大我の顔は火照っていた。


「出鼻をくじかれるのは、想定外でしたけど」

「あはは。ごめん、ごめん。君の困る顔を眺めるのが好きだから。狼狽えれば、狼狽えるほど、可愛いからね」

「まったく、後輩を困らせないでくださいよ」

「構われて嬉しいくせに」

「否定はしませんが……!」


 ともあれ、こうして好意が白日の下に晒されてしまっては、もはや逃げるという選択肢は喪われたに等しい。


「大我君。言いたいことがあるなら、今のうちに、ね?」

「言われなくても、そのつもりですよ、イザナ先輩」


 明坂大我の喉に唾液が流れる。砂丘だった声帯が潤う。

 息を呑んだ。震える唇を湿らせた。舌が滑らかに動くことを確かめた。表情筋を意図的に緩ませた。自然体、自然体。


 初恋の苦みを繰り返さないために。

 大我は、一歩を踏み出す、覚悟を放つ。


「僕は、先輩のことが、好きです」


 もう、今更目を閉じることはなかった。未来だけを映す、世真宵誘のその瞳の奥をじっと、見つめる。


「私は」


 大我は身を、乗り上げた。身体は彼の意図から切り離されて、操り人形のように誘の肩を掴む。


 一呼吸ぶんの静寂が、二人だけのゴンドラを満たしていた。


 誘の口が、ゆっくりと開く。犬歯が夕日を反射し、大我の視界の一部を臙脂色で切り取った。


 窓外から漏れる、澄んだ空気とともに、


「君の希望に添えることはできない」


 世真宵誘の返答があった。

 大我の視界に広がる世界が、その一言で凍り付いた。


 ――もう一度、いや、間違いじゃないのか。聞き間違いであって欲しかった。けれど、聞き違えなわけがなかった。聞き取ってしまった。意識を、真っ直ぐに、彼女に向けて。


 誘の肩を握った、大我の両手は、凍てついた世界に色が戻ってくると同時に震えはじめた。


 自分はいったい、何をしているんだ? すぐに、誘の肩から腕を引っぺがす。宙ぶらりんになった日本の腕は所在なさげにおろおろと蠢いていた。


 告白が、失敗に終わってしまった。


 たったそれだけの重大な事実が大我の目の前に壁となって立ちはだかる。すぐに超えられるような壁ではない。すぐに癒えるような傷ではない。


「一応、注釈を入れておくけど、」


 誘が言葉を続ける。それが大我の心臓を突き刺すナイフであることを、分かっていながら。


「別に君のことは嫌いじゃない。むしろ、好きだよ。大好きだ。友愛とかじゃない、ずっと前から一人の男の子として見ているよ」

「ずっと、前?」

「正確には、君が去年の文化祭で私に占われた頃かな。君の目を覗いた瞬間、君の彼女になった私の姿が映っていたんだ――運命っていうのは、まさにこのことを指すんだろうなってくらい、面白い偶然だって思ったよ」

「だったら……だったらっ、なんで僕の告白を否定するんですかっ。僕と付き合う未来じゃ納得できないんですかっ」

「きっと、大満足だよ。私的にはすごく、ね。だって、未来の君はさ、一途に私のことを慕ってくれるんだよ。ほぼ毎日、『大好き』とか『可愛い』とか『綺麗だ』とかさ、臆面もなく伝えてくれるんだよ? ――幸せじゃない、わけないじゃない」

「じゃあ、どうして……っ、どうして選んでくれないんですかっ!? 先輩は幸せになりたくないんですか!?」

「そんなの、幸せになりたいに、決まってる」


 誘は、また、悲しそうな笑顔を見せた。

 ――まただ。


 大我は唇をきゅっと噛み締めた。悔しかった。その悲壮感で突き刺してくるような表情は何ゆえのものなんだ。


 彼にはいっとう、分からない。


 幸せになりたいのに、幸せなアフターを望まない、そんな世真宵誘の本性が読み取れない。


 だって、理由を知らないのだから。本当の誘を知らないのだから。知らなかったのだから。


 未来を視たり、操ったりできる、大好きな先輩。


 明坂大我のうちに秘められた、世真宵誘という概念なんて、それくらいの、薄っぺらなものでしかなかった。


 彼女は、ろくに自身を曝け出さないし、対する大我は、先輩のように未来を視ることができなかった。


 そんな、すれ違いの行き着く先が、八月の始まり、観覧車のゴンドラ、二人きりの密室、告白の失敗に繋がっている。


 ――幸せな未来を一言で否定した、誘の瞳が白く濁った。


「ねえ、大我君。今までずっと、隠していたことなんだけど、」

「なん、ですか」

「私の預言ってさ、タダで運命を操れるような都合のいい道具じゃ、ないんだよ」 


 嫌な、予感がした。大我の膝は力を失くし、そのまま尻から席へと転がる。額から、こめかみを伝って顎のラインを下っていく、その汗はまるで氷柱を滑り落ちる水のように、冷たい。留まることを知らない。


 誘はどうして、いつも大我を瞳に映さなかった。彼女が見ているのは未来。明坂大我の幸せ。毎日更新され、その度に昇華される、たった一人の人間では背負いきれないくらいの幸福な日々。――だが、その中の彼自身はいつだって隣に寄り添ってくれる女の子を抱きながら、涙を流していた。


 その女の子は、いつも悲しげな笑顔で大我の髪を撫でていた。世真宵誘と瓜二つの女の子だった。


「……貴方の映す、僕の未来で、僕はいつも貴方に抱きしめられながら、泣いていました。まるで、形だけの幸福に囲まれて、本物の幸福を得られない、空っぽな人生でした」

「だろうね。だって、君は僕と繋がることを幸せと定義しているから。でも、それじゃ、君が傷つくだけだよ」


 ――だから、私は君との永遠を壊してやろうとした。それが、私にとって不幸せでも、大我君にとっては幸せだと思ったから。幸せであってほしいと強く願っているから。


「……未来を組み替える代わりに、先輩が失うものって」

「私の中にある記憶だよ。古いものから、一つずつ、ね」

「占いをすればするほど、失うんですよね」

「ああ。もちろんだよ」

「だったら、どうして、占い続けるんですか。――もはや、占う理由も分からなくなっているんじゃ」

「確かに、もう、預言と改変の力が手に入った当時の記憶は残っていないね。占い続けている理由も、だ。だけどね、過去の私は用心深かったようでね、日記を書き続けていたんだ」


 誘の日記は中学三年生の夏から始まっていて、その日、彼女は初恋の相手から振られてしまったらしい。偶然か、必然か――、この遊園地のこの観覧車のゴンドラの中で。


 振られたことを忘れてしまいたいと願って、そして、気づいたら、未来預言と未来改変を手に入れてしまったのだ――、と日記には記されてあったらしい。


「――怖かったんだろうね、初めて誰かの記憶が見えて、誰かの未来を勝手気ままに改変できた感覚がね。それから暫くしてね、昔のことが思い出せなくなって、まだ、そのときは単に忘れっぽくなっただけかな、ってくらいで済んだんだけどさ、いつだったか、日記を見返して、記憶にないことが記されていて、ようやく記憶がなくなっている異常にも気付いたんだよ。――占いを、始めたのは、その後からだよ」

「その後から?」

「――初恋を、忘れようとしたんだ、実際にね。そのために、人の運命を幸せな方向へと変えてきた。別に皆を不幸せにすることもできただろうにね。最初は友達のお悩み相談的なものから。そしたら、見事ね、その友達が好きな人と結ばれたものだから、評判を呼んじゃってね。それから中学校生活が終わるまでずっと『占い師イザナ』なんて呼ばれていたらしいの。ちょっと恥ずかしいね」

「……先輩は、無事に忘れられたんですか、初恋」

「忘れてなかったら、ここには来たことがあるって答えていただろうし、こんなにはしゃがなかったと思うよ」

「じゃあ、もう、占いの必要性、ないじゃないですか」


 誰かの未来を占えば占うほど、誘の中身が空っぽになってしまう。誰かと過ごした、温かい思い出も、冷たい思い出も、すべて誰かの未来を願うために消費されてしまうのだ。


 ――このまま、占いを続けていれば。僕との思い出すらも。



「すべては、君のせいなんだよ、大我君。君のことが気になっちゃったから」



「え――っ」

「文化祭の日。私に占われた君のせいなんだよ。あの日で、ようやく、私は初恋を忘れられたんだ。解放されたんだよ。でもさ、君はね、本当に罪な男だったんだよ。さて、君の罪、なんだと思う、大我君?」

「……まさか、そんな、運命的なことがあるんですかね」

「こればっかりは運命だったんだよ。さあ、答え、言って」


 高鳴る鼓動を抑えつつ、大我は真っ先に思い浮かんでしまった最悪で最高の結論を述べた。


「先輩の『初恋』を奪ったのが、僕だった」

「大正解だよ。ね、罪な男でしょう?」

「……大罪人ですね。先輩は晴れて初恋を忘れられたけど、忘れるために願ったものが僕の幸せで、幸せな僕の隣には、先輩がいた。それも、幸せそうだったんですよね。運命を、感じないわけがない、ですよね」

「自惚れた台詞だけど、その通りよ。あの時はね、占いの結果をどう伝えればいいか迷ってしまったんだよ。君じゃなかったら、雑に幸せな出来事が起こるよ、って告げればよかったんだけどね。君はね、未来を改変するまでもなく、私との未来を歩んでいた。気付いたら、当たり障りない占い結果を信じて、占いをされた当人は私の前から忽然と姿を消したんだよ。あのとき、私は未来を改変し損ねたんだろうね」

「春から今日まで、未来を改変できるタイミングなんていくらでもあったはずでしょう?」

「無理だったんだよ。君の未来を見てから、君のこと、ずっと気になっていたんだから」

「じゃあ、両想い、ってことですね」

「違い、ないけど。でも――、君は、私と付き合ったら、不幸せになる、ずっと、泣くことになるから」

「それでも、僕は先輩との幸せな未来を確かに歩んでいたのでしょう?」

「刹那的な幸せは思い出として、積み重なったよ。でも、積み重なったものは古くなれば切り捨てられていく。私が失うのは、エピソード記憶だけで、君に対する知識は消えないんだ。すなわち、私の中での君のプロフィールはひたすら豊富になっていく。ただ、思い出だけが削がれた、知識だけがね」


 ――いつ、どこで知ったのか分からない、『僕のこと』だけが彼女の中に堆積されていく。僕だけが憶えている思い出を語って、イザナ先輩は何度も悲しそうな顔で、笑うのだろう。ごめん、憶えていないやって。きっと、何度も何度も何度も何度も、同じような喪失を繰り返していたら、辟易してしまうのは目に見えていた。自分の中で積みあがった絆をたった一言で否定されてしまう。悲しい未来であることは簡単に予期できた。耐えられるか、否か。挫けてしまうような気がして、そんな自分の弱さが惨めだ。


 でも。それはきっと、誘も同じのはずで。


「先輩は、僕のことが好き、なんですか?」

「言われなくても、分かるだろう?」

「言わなきゃ、分からないです。ほら、使い魔は魔女の指示がないと動けないんですよ」

「それは、ずるいよ」

「ずるくないです。いいから、さっさと」

「――言ったら、大我君を不幸せにしてしまうんだよ……!」


 先輩の身体が、飛び出した。真っすぐに大我の胸へと吸い込まれていく。膝を崩して、彼女は唯一の後輩を抱きしめた。強く、強く、離したくないと言外に言い放つように。


「辛いんだよ、私だって! 好きなんだよ、大好きなんだよ! 分かっているでしょう、両想いだって! ずっとずっと気になっていた! なんなら、今すぐにでも結ばれてキスの一つや二つくらいしたい! そんな、ちょっと破廉恥な願望まで抱いているよ、それくらいには好きなんだよ……!」

「じゃあ、僕を選んで、くださいよ。ずっと、僕の傍にいてくださいよ……!」

「できないよ! 私は人と目線を合わせれば、ほぼ自然に誰かの未来を変えてしまうんだから! そうすれば、いつか君との記憶も失われてしまう! そんなことも分からないなんて、馬鹿だよ、大我君は! ばかばか、ばか――っ!!」

「そんなに罵倒しないでくださいよっ! 馬鹿な自覚はありますが限度っていうものがっ」


 とす、と。誘の弱弱しい拳が、大我の肋骨を叩いた。彼女の顔がゆっくりと持ち上がる。せっかく、薄化粧をしただろうに、涙でぐちゃぐちゃになってしまった悲痛の表情が。


「ばか。ばか。大好きなんだよ。大我君の、おおばか」

「イザナ、先輩……」

「でも、君に悲しい思いをさせるのは、嫌なんだよ……っ。好きだから、悲しい顔をしてほしくないんだ、寂しくなって欲しくないんだよ……っ」


 全部、好きだからだ。好きが、世真宵誘のハッピーエンドを拒むのだ。彼女のわがままな結末を否定して、好きな人の無難な幸せを願うのだ。


「ずっと、笑ってほしいんだ。たまに喧嘩してもいい。けど、すぐに仲直りをして、一緒にご飯を作って、デートもいっぱいしてほしいな。君を一人にしたくないんだ。それくらい、私は君のことが好きで好きで仕方がないんだよ。だから、君との幸せを拒もうとするんだ」

「それが、僕にとって、最高の幸せだったとしても?」

「最高を見誤り過ぎじゃないかな。君が悲しんでいる世界が、最高の世界なわけがない」

「僕の未来がそう定義しているのに?」

「そうだよ。僕が振ることで、君の世界はもっとよりよく」


 詭弁は続かなかった。



 大我の唇がおもむろに、誘の唇に吸い込まれていたからだ。



 まるで、次の未来が改変されたかのように。


 誘が驚く暇すらも、与えなかった。


 都合三秒ほどの永劫が、柔く、離れていく。


 何が起こったのか分からない様子で、所在なさげに瞳を潤ませていた彼女の手前に、大我の顔は近づいた。目と鼻の先よりも、近く。再びキスしてしまってもおかしくないくらいの位置に。



「――運命が全部、貴方の手に収まってると思うなよ。いいか、先輩。僕が幸せって言っているんだ。だったらそれでいいんだよ。貴方の示す無難な選択肢なんて要らねえ。そんなの僕にとっては欺瞞だ。先輩が僕を避けようっていうなら、別に構わない。けど、好きなんでしょう? できないと思うよ。

 それに、僕はイザナ先輩のことが――世真宵誘っていう女の子しか見えていないんだよ。いいか、恋は盲目ですよ、そして男はいつだって、狼だ。好きな女の子の手前ではこうやって格好つけたくもなる。けど、別にただ格好つけているわけじゃなくて、本気だから、こうなっているんだよ。

 あー、もう、何言っているか、自分でもよく分からないな。ともかく、ともかくだ、よく聞いてくれよ、イザナ先輩」

「……………………………………は、はい」

「僕は、貴方が好きだ。そして、貴方は僕のことが大大大大好きらしい。どさくさに紛れてキスをしても、惚けた顔、してるし」

「そ、それはっ、大我君が無理矢理……、無理矢理……? でも、ないかも、しらない、な」

「じゃあ、何ですか?」

「………………………………………………………………………………………………………………ふ、不可抗力っ?」


 思わず、大我は吹き出してしまった。しかし、成程、的は射ているような気がした。


「僕のことが大好きな先輩が、嫌だったなら謝ります。さすがにちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない、です」

「い、嫌なわけがない。むしろ、嬉しかったよ」


 涙を拭いた誘は、大我の隣に座った。観覧車は頂上を通り過ぎたところだった。二人の目に映るのは、同じ斜陽。


「好きなんだよ、私は。本当なんだよ?」

「知っていますよ、ちゃんと」

「でも、生きていたら、誰かの未来を勝手に変えてしまう。君との思い出を、少しずつ失っていくんだよ」

「ああ、そうかもしれない、ですね」

「それでも、いいの? 悲しくて、寂しいかもしれないけど」


 相変わらず誘は、踏み出せない様子で前髪を手で弄っていた。大我はこの日、初めて、大きなため息を吐いた。

 もちろん、呆れてしまったからだ。


「先輩、いいですか。ちょっと、僕の顔を見つめてください」


 振り向いた誘に、大我は顔を合わせる。ちゃっかり、逃げられないように両肩を掴んでみると、彼女はふふっと困ったような笑顔で、「逃げないよ、ここにいるよ」と囁いた。


「で、何の話かな、大我君。婚前のプロポーズなら、ちょっと早すぎるかもしれないけど」

「実際そんな感じのものですよ、黙って聞いてください」


 もう、大我の鼓動は高鳴らない。だって、もう、今更だ。先輩からのお熱い愛の告白に圧倒されてしまったのだ。


 なんというか、してやられて内心悔しがっていた。けど、心の底から清々しかった。



「先輩、僕の目を、僕の目だけをずっと、じっと見つめていてください。その上、僕の未来だけを映さないでください。等身大の、今の僕だけを映してください」



「ふっ、あは、あはは。予想外の告白だね。うんうん」

「なにか、おかしかったですか?」

「いや、最高の告白を受けて、私は幸せ者だなって、つくづく思っただけだよ」

「僕は、きっと先輩以上に、幸せ者ですよ。で、返答が、欲しいんですが」

「言われなきゃ、分からない鈍感さんかな? わたしの聡明な使い魔さんは」

「幸せな魔法にも、呪文は必要ですよ?」

「言ってくれるね、大我君」

「貴方の、唯一の後輩ですから」


 二人して、笑顔の交換をして、もう一度、今度はお互いの想いを吹き込みあうための接吻を。


 長い長い、交わりを。


 唇を離す。唾液の糸をお互いに舐めあって、改まった空気が間を流れていった。


「大丈夫。もう、私には君だけしか見えない」

「そうですか。なら、付き合ってください」


 今度はもう、迷いなんて要らなかった。


「付き合ってあげる。未来視とか未来改変とか頼らなくても、私がいればそれだけで、幸せになれるような、そんな二人になろうか」

「――そうしましょうか、イザナ先輩」


 二人は知らず知らずのうちにお互いの手を絡めていた。皮膚越しに伝わる熱気を握って、


 嗚呼、ようやく。




「ようやく、貴方が――僕をその目に映してくれた」

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恋は盲目、或いは欠落、されど何度も記憶を重ねて。 音無 蓮 Ren Otonashi @000

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