第3話

 八月の頭に、遊園地へ行くという約束は決行された。

 晴天。

 風も少なく、絶好の行楽日和ってやつだ。

 待ち合わせは遊園地の最寄り駅。ロータリーに下ったところ、と指定はしてある。

 ただ、やはり夏の快晴は、いささか熱を含み過ぎだった。

 午前九時前にも関わらず、天気予報では三〇度を優に超えていた。体感にしたらもっとあるだろう。

 橙色のレンガタイルが灼熱を反射する。ひとたび呼吸をしようにも、喉がからっからに干からびてしまう。

 ――既に、明坂大我は三〇分ほど待ち続けていた。実のところ、待ち合わせの時間までまだあと一時間もあった。

 すなわち、実際に世真宵誘が到着する時刻は午前一〇時。彼は早く着きすぎた。


「ったく、遠足前の子供かよ……」


 自分に悪態をついてみるものの、実際その通りだったので何も反駁できず大我は項垂れて近くのベンチに腰を下ろした。高校一年生の夏とはすなわち瑞々しい青春の象徴でもあった。少なくとも、大我はそう自覚していた。


「この日のために、ってか、夏休み、先輩と遊ぶために五月くらいからバイトして、貯金して……、そんな努力の積み重ねの結果、だからな。大事に、しないとな」


『一生の、思い出にしたいですね』――なんて、さりげなく、大我は誘に向けて宣言していた。あの時は、軽くあしらわれてしまったけれど、大袈裟なんかじゃなかった。

 中学三年で潰えた初恋。あの時は、何もかもタイミングを逃して、得られるはずだった幸せを失ってしまった。

 遅かった。

 幸せがいつまでも隣に居続けてくれるわけではない現実に直面して、同じ過ちを繰り返したくないと強く願った。

 ゆえに。好きになった人に対しては、先手を取らねばならない。向こうにわざわざ気持ちを察してもらおうなんて愚かで傲慢な所業だ。ならば、

 ――僕は、僕の口で、『恋』を告白しよう。


「あら、大我君? 随分と早いのね?」

「あひゃい!?」


 思案に耽っていたところで唐突に声を掛けられ、大我の喉からは変な声が洩れ出た。

 ベンチに座る、彼の目の前には人の影があった。

 ほっそりとした肢体のシルエット。薄桃色のフレアスカートに、灰色のタンクトップ。

 麦わら帽子の広い鍔の向こうには、オカ研部室で常日頃彼を射抜く、何でもお見通しの黒い瞳があって。


「……先輩?」

「えへへ。来ちゃった」


 世真宵誘もまた、集合予定時刻の一時間前に集合場所に到着していたのだ。夏風で彼女の髪がふわさ、と音を立てて揺れる。ただそれだけでほんのりといつかのミントの香りが大我の鼻腔をくすぐっていた。


「ええ!? 集合まであと一時間もありますよ!?」

「仕方ないじゃない! 昨晩鏡を見つめて、自分を占っていたら、早めにここに来る大我君が見えちゃったんだもん!」

「だもん! じゃないですよ! 可愛いけど」

「可愛いならすべてを許してほしいな?」

「許すも何もありませんが! というか僕は普通に嬉しいんですけど! けどけど!」


 大我の言語野が絶賛オーバーヒート中だった。

 何もかも、夏のせいだった。

 脈アリだ、と大我が確信しないわけがなかった。

 その確信の通り、デートは順調に進んだ。

 たとえば、コーヒーカップを、大の高校生が二人してぐるぐると滅茶苦茶に回した。フラつく身体を二人で支えあって、アトラクションから逃げ出した。げっそりとした顔を二人で見合って、吹き出した。


 デートは順調に進んだ。


 国内でも数本しかない木製の巨大ジェットコースターに乗った。急降下の恐怖よりも、レールから伝わる振動の大きさの方が怖かった。別の意味で。

 隣に座った先輩が身を乗り出して、高く腕を挙げる。

「ほら、大我君も!」と急かされて、同じように腕を突き出した瞬間、――落下だ。人目を憚らない、甲高い悲鳴が二つ、空から地上に向けて降り注いだ。


 デートは順調に進んだ。


 屋内のシアター型アトラクションでよく分からない英語音声のナレーションに首を傾げた。映画館のような場内に座ってシートベルトを装着。ブザーとともに背もたれが振動を始める。スクリーンに映されたスペースバトルに連動するように彼らの椅子も大きく揺れた。映像が終わり、外に出るころには正午を回っていて、近くにあったレストランに吸い込まれていった。


 ……デートは、順調に進んでいた。


 細部のミスすらも許されていない台本のように。

 けれど、ミスがないということは大我の青春巻き直し計画が滞りなく進んでいることを示している。今日の終わりに告白をして、いい返事をもらうための最適解を選べている。

 順調に進み過ぎていることに、無論大我は危惧の一つも抱いていなかった。

 ただ、幸せを噛み締めることだけを念頭に置いていた。


「お昼ご飯、食べたらどこ行こうかしら?」


 テーブルで二人は向かい合わせになった。お互いの料理は注文済み。店内アナウンスで呼び出されるまでの間、机上にはマップが広げられていた。


「空中ブランコはどうでしょう?」

「……お昼ご飯の後の選択としては悪手じゃない?」

「となると、ジェットコースターも選択肢から外れますよね」


 遊園地のマップに照らし合わせて、次に向かうべき場所を決めようとする。が、どうにもしっくり来ない。

 まるで、次に行くべきところはそこじゃないぞ、と見えざる手に唆されているような。

 うんうんと唸っていると、誘が助け舟を流した。


「ねえ、大我君。私、生まれてこの方、動物園に行ったことがないの」

「へえ、近くにあるのに。……じゃあ、遊園地は?」

「ずっと昔に、行ったこと、あるのかもしれないけど、もう忘れちゃったかな」


 受け答えの歯切れの悪さに、疑問符を打つ。けれど、さして気にすることでもなく、大我はさらっと流した。


「道理で、普段より意気揚々なわけですね。……先輩が、子供みたいです」

「私を子供扱いするなんて、一〇年早いよ?」

「だったら一〇年分、聡明になってあげますよ。先輩よりも賢くなってあげます」

「生意気なんだから、ばか」

「先輩こそ」


 生意気ですよ。と、唇が開こうとして、大我は固まってしまった。思考のフリーズ。白い肌と黒く深い瞳がばっちり彼を見抜いていた。その瞳孔の奥で、何やら映像が動いているように見えた。あくまで、大我の姿は反射されず、何か、別のものが、見えている。

 いや、そんなこと、よりも。

 ――目と鼻の先に、先輩の唇がある。今にも触れてしまいそうな位置に、触れただけで壊れてしまいそうな輪郭のパーツが、そこに、在る。


「……ふふ、驚いちゃってる?」


 悪戯な笑みが向けられ、大我の筋繊維に張りつめていた緊張の糸がほぐされた。

 ――勘弁してくれ。


「悪質な悪ふざけですね、先輩」

「真面目な顔しないでよ。からかっちゃって、ごめんね?」


 ちょうどその瞬間、明坂大我の目に映った世真宵誘は、何故か残念そうな笑みを浮かべていた。

 その表情は何度か目撃したことがあるもので、しかし、いつにも増して悲壮感に溢れていた。

 彼はたったそれだけの悪戯な失敗に、初恋を重ねてしまって、わざと唇の端を吊り上げることくらいしかできなかった。


 誘の目は、笑いながら、やはり大我を映していなかった。

 映すことができなかった。


 嗚呼。――また、彼女は誰かの未来を操っている。


 その誰かが恐らく、自分であることに大我は僅かな不快感を抱いてしまった。

 まるで、「君は私の力がなきゃ、私を楽しませることすらできないんだ」と見下されているような気分だった。



 ※



 昼食の後も、形式上、デートは順調に進んだ。

 動物園を一周した。真っ白な虎をガラスのドームから覗いて目を輝かせたり、実物の象やキリンのスケールの大きさに圧倒され、思わず息を呑んだり、あるいは小動物とのふれあいスペースでヒヨコを両手ですくって、「可愛い……」と本音を漏らしたり――大我の脳内にあるイザナ先輩フォルダは彼女の一面ですぐに埋まっていった。

 動物園を回ったら、ジェットコースターの二周目をして、乗りはぐれていた空中ブランコに乗って。絶叫と歓声を常に隣で聞いていた。

 聴覚が、視覚が、嗅覚が世真宵誘で満ちていく。

 その度に、言い聞かせてやるのだ。このデートは最初から最後まで、先輩に仕組まれた完璧な計画だったことを。

 気付かされて、見えないところで歯噛みする。

 心の底から楽しいはずなのに、同じくらい心の底から悔しかった。顔に貼りついた微笑の裏で、大我はどんな表情をすればいいのか分からなくなっていた。

 観覧車の前にできた僅かな列に並んだころには午後四時を回っていて、西日が園内を煌びやかに彩っていた。もうじき園内に閉園を報せるオールド・ラング・ザインが鳴り響くだろう。スコットランド民謡であるところの『蛍の光』が。


「ふふ。なんか、いいね。夕日に照らされた観覧車に二人っきりで乗るっていうシチュエーション」

「使い古されているような気がしなくもないですけどね」

「わざわざ新奇的である必要はないでしょ? こういうのの方が、青春っぽい。青くて、若くて、瑞々しい、気がする」


 誘は相変わらず、どこか遠くを眺めていて。彼女が遠くを眺めているとき、その瞳孔に映る未来の映像が見えないことに大我はもはや安心感すら抱いていた。


「青春を、してるんですよ。僕らは」


 断定だった。青春なんて曖昧な概念は、こちらが勝手に解釈してしまえば、その通りになる。まるで。誘の目によって変容していく未来のように。


「なかなか臭い台詞を吐くのね、大我君も」

「そう、ですかね」


 照れ臭くなって、大我は髪を掻いた。

 ――これから、僕は告白をする。恋を打ち明ける。

 関係性を崩壊させる。

 揺れるゴンドラに乗り込む。誘に続いて、大我が足を地面から離し、着地。お互いに向き合って座ると、すぐに外から勢いよく、扉が閉ざされた。ばん、とふすま戸が閉まる音がして、暫く二人の間には静寂が滞留していた。

 誰にも邪魔されない、二人だけの密室空間が完成する。

 ならば、大我は次の一手をすかさず繰り出さねばならないのだが、彼の唇が重いとは裏腹に急激に乾いていく。まるで乾ききった砂丘の砂粒が口元に吹きかかったようだった。これまで滑らかに動いていた舌も、乱れることのなかった呼気も、崩れることのなかった表情も、一気に瓦解していく。


「さて」


 口火を切ったのは、誘だった。どうしようとも、目が合ってしまう。彼女の瞳が彼を射抜いた。もう、何度目か分からない。未来預言と未来改変。


 ――いや、いやだ。やめてくれ。


 きゅっと誘は瞼を閉じて、交差させた腕で顔を遮った。恐る恐る切れるような目つきで外の世界を覗く。至近にある腕の肌色だけが、彼の味方だった。


「早速だけど、君の目見せてもらっていい?」


 唐突な要望に、大我は応えることを憚った。見つめれば、これからの幸せが蔑ろにされてしまう。信憑性はない。

 誘と大我の利害が一致するならば、確定した未来はこのまま変わらないのだろう。けれど、そうじゃなかったら?

 被害妄想が膨らむのはどうしてだろう。

 ――いつも、彼女の目は僕を映さず、僕の未来予想図だけを描いていた。誰かの幸せを願って、イザナ先輩は預言を行使している。行き過ぎた社会奉仕のために彼女は占いを捧げているのだ、なんて僕は信じ切っていた。

 明坂大我は、恋をした女の子を誰よりも疑っていた。疑える資格を持っていた。

 ――だが、元を辿れば先輩の預言は、『未来を変える』ものだ。先輩が好んで使っているのが、良い未来視ならば、当然悪い未来予知もあるわけで。

 たった今、大我を覗く誘の瞳には――孤独で朽ちていく、明坂大我の最期が映し出されていた。

 ……勘弁、してくれませんか。先輩。

 硝子の背もたれに遠慮なくもたれる。疲れた腕を放り投げて、しかし、決して誘と目を合わせないように死んだ目でゴンドラの床に張り巡らされた十字の模様をじっと見つめていた。現実から目を逸らしていた。


「……はは。突拍子もないですね、先輩は。なんで、今、この瞬間、僕を占おうって思ったんですか?」


 ――だって、僕は。

 ――――貴方に占われなくても、幸せなのに。


「たまたまだよ、たまたま。君の顔を眺めていたら、未来を滅茶苦茶にしてやりたくなっただけ」


 それは大我の思いつく限りで、限りなく幼稚な答えだ。

 神様ぶっている。


「言い訳になっていませんよ。人の運命を勝手気ままに滅茶苦茶にしないでください」

「本当はしてほしいくせに。やせ我慢をしちゃ駄目でしょ?」

「貴方に幸せにしてもらわなくても、僕は幸せですから」


 ゴンドラが緩慢とした動きで、徐々に円の頂点へと上昇していく。地上が遠ざかり、真下にある人々の並みも豆粒になった。大我の心臓は、バクバクと力強く脈打っていた。


 吊り橋効果を肯定する気など、大我にはさらさらなかった。


 だが、少なくともムードだけは高まっている、そんな予感が彼の脳裏によぎっていた。次に続く言葉は王手であらねばならない。震える唇に、からからに掠れた声帯に鞭を打ち、明坂大我は、告げ――、


「そっか。君は、つまり――私のことが好きなんだね」


 ――なかった。


 未来預言は、何もかも、お見通しだ。

 そんなことは、周知の事実だった。だが、さらっと先手を打たれたことにより、大我の思考には亀裂が生じた。


 ――運命は世真宵誘の手の内で転がっている。

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