第2話
明坂大我の初恋について、端的に述べるならば『関係性の終焉』の一言で終わる。
中学二年の終わり、彼は一人の女の子に恋をした。濃い茶色のボブ・ヘアーが似合う明るめの女の子に。
名前については本編と一切関係しないので割愛するが、ともかく中学生、思春期真っ盛りの明坂大我少年は、ひたすらに恋をしていた。
きっかけなんてクソほどに些細なことだ。
机上から落っこちた消しゴムを取ってもらったから、とか、体育の時間にはぐれモノになった二人がたまたま彼と彼女だったとか。
別にドラマチックな始まりを求めているわけではないんだけど、脳髄を浸す桃色の快楽物質は些細で凡庸な始まりすらもドラマのように仕立て上げてしまうのだから不思議だ。
何はともあれ、恋に落ちてしまった身を拾い上げることなってなかなかできないわけで、相手がいないのならば相手になろう、とするのが明坂大我なりの道理であり、徐々に彼女との距離を詰めていった。
まずは警戒されないように話の輪に入っていく。
彼は決してコミュニケーションに自信がないわけではなかった。得意という訳でもないけど、興味がある人間には積極的に話しかけに行くようなタイプ。ゆえに自然と距離は縮まっていった。
また、共通の趣味を探るために、アンテナを広く持った。二人の趣味がたまたま同じだったことは幸いだった。明朗な性格とは裏腹に彼女はインドア派で、大の濫読家だった。対する僕もまた、本は人よりも読んでいるという自負はあった。お互いの好きな本を推していき、翌日には読んだ本の感想を伝え合う毎日。
もちろん、周囲から噂されないわけがない。だって、彼と彼女はよく話をしているから。加えて、下校時も途中までは一緒に帰っていたくらいだ。中学生諸君からしてみたら、もはや噂でも何でも勝手にしろ、って宣言しているようなものだった。黒板にチョークでデカデカと相合傘を書かれることはざらにあったし、面倒臭いちょっかいをかけられたことも数知れず。
「気にしちゃだめだよ、大我君」
いつかの帰り道、彼女はそう言って、燻った大我を宥めた。
「人の噂も七五日ってやつ。私と君が一緒にいるのが、当たり前だと認識していないから、みんなが噂するってだけ。だったら、みんなにとっての当たり前になってしまえば、これからもずっと本の話ができるよ」
彼女の教養に満ちた言葉の遣い方が、好きだった。
大我は、彼女に言われた通りに耐えて、耐えて、耐えた。
夏休みの手前くらいになると、噂も徐々に立ち切れていった。からかう人の一人や二人はまだいたものの、しつこくにじり寄ってくる輩はいなくなった。諺っていうのは先人の偉業だな、などと呑気に彼は感心していた。
夏休みになった。僕らを邪魔する存在はついにいなくなった。けれど、よくよく考えなくとも、彼らは中学三年生であり、受験期真っ只中である。
一緒に遊ぶ、という発想には至らなかった。
少なくとも、彼は。
しかし、図書館に集まって勉強するという生活は始まった。二人とも地頭がよく、塾にも通っていなかったので、図書館が開館している日は二人して自転車を漕いで勉強しに向かったものだ。
そうして、ありきたりな夏休みは過ぎていく。
別に特別な事象は必要なかった。だって、明坂大我にとっては、片思いの女の子が目の前にいるだけで何もかもが特別になってしまうからだ。恋とはすなわち、幻覚作用を促す毒のようなもので、なんと中毒性もある非常に厄介な薬物のようなものだ。
受験生の一年はことごとく流れていく。大我は結局、彼女と碌なイベントを起こすこともなく、受験を乗り越えてしまった。勉強に夢中だったからか、はたまたそれ以外の理由からかは本人のみぞ知ることだが、彼は結局、卒業するまで何もアクションを起こせなかった。
その頃になると、恋の新鮮味が薄れてしまって、まるで彼女と一緒にいるのがさも当たり前のような感覚に陥っていた。ずっと、彼女と一緒にいられるわけじゃないのに。
遊園地に行こうよ、と彼女が大我を誘ったのは、卒業してから一週間が経った日のことだった。結局彼は自分から彼女を誘うことができなかった。
初めてのデートだった。楽しかった。だから、終わりが近づくにつれて、胸が苦しくなった。
――きっと、僕らはこれから離れ離れだ。
進学する高校も違えば、生活はがらりと変わる。
だから、なけなしの勇気で告白はした。
夕方、暗がりに沈む観覧車の中で。
遅かった、と返された。彼女は悲しそうに笑っていた。
明坂大我の初恋は、その日を以て断絶した。それから、一度も大我は彼女の姿を見ていない。
できるなら、僕の知らないところで幸せになっていてほしい――なんて、願いは、きっと彼自身のエゴに過ぎない。
※
世真宵誘は、預言者だ。これまでありとあらゆるものに付随する未来を閲覧してきた。また、閲覧に限らず改変すらも行ってきた。能力の発現条件は、至ってシンプルだ。対象の両目を覗くだけ。
たったそれだけで誰の未来も言い当てる。
加えて、自らの意志でその未来を良くも悪くもデコレイションできる。すなわち、魔女を超えて神と似て非なる存在。
――なんて、非科学的な厨二設定を先輩自身から聞き出してしまった明坂大我後輩は何故か、その説明ですんなりと納得してしまった。
いかなる論理が彼の脳内で働いたかは脳外科のみぞ知る、のかもしれないが、ともかく彼は先輩の言うことにやたらと従順だった。
腐っても、使い魔風情であり、使い魔は魔女の束縛から逃れられなかった。
夏休みを翌日に控えた、納涼坂高校。
終業式を終えた生徒達はすぐさま意気揚々とクラスから解き放たれた。
もちろん、明坂大我も例に漏れないが、彼には待ち人がいた。そして、彼女はオカ研の部室をねぐらとしている。ゆえに、急がなくてもいい。
どうせ部室棟最奥の部室を開ければ彼女はいるのだから。
「先輩、夏休みの予定は決まっていますかー!?」
部室のふすま戸を勢いよく開く。
ピシャンと高音が腕越しに響いた。
「予定がないなら遊びませんか! っていうか予定ないですよね遊びましょうよ!」
「……いきなり失礼かましちゃって、どうしたの、大我君。君も夏に侵されてしまったの?」
「……まあ、そういうことにしておいてください。後輩は先輩と親密になりたいので一緒に遊びたいんですよ」
「犬かしら」
「犬でもいいので遊びましょうよ」
「使い魔だったわね」
「使い魔でもいいので遊びましょうよ」
大我史上、最も圧で攻めていた。押して駄目ならもっと押せ。考えなしの脳筋理論である。
「別に、構わないけど。どこに行きたい? 希望があるなら言ってみなさい?」
「先輩と一緒に決めたいです。それとも、先輩は僕にエスコートしてほしいんですか?」
「ふうん、そっか。君が私をエスコートするには一〇〇年早い、というものだよ。むしろ、私がエスコートしてやりたいくらいだね」
「なら、先輩が全部決めますか? そうしたいなら丸投げしちゃいますけど」
細い顎のラインに人差し指を当てて、僅かに思考。
上を向いていた誘の目が、手前の大我を捉えた。
「いや、その選択肢は悪手だよ。何せ私はろくすっぽ家から出ないからね!」
「えばれることではないと思いますよ」
「そう? そうかな……」
誘はしゅん、と首をすくめた。
大我からしてみれば、彼女の生態は予想通りで、特段驚くべきことでもなかった。
そもそも、オカ研は運動からかけ離れた文化部なわけで。
たとえば五〇メートルを人力で走ろうとする陸上部が隣にいたとしても、誘は『いかにして五〇メートル間にワームホールを形成するか』という似非科学的なことばかりを考えるような少女だ。
思考に脳の全リソースを割くことで、ついには本来の目的である『五〇メートル走りきること』を忘れてしまい、泣く泣く五〇メートルを一二秒台で走り終えるとかある。
ざらにある。目撃情報は多数寄せられている。
――誘のことだから、どうせ家に籠ってオカルトの研究でもしているのだろう。
などと、大我は決めつけていた。
事実、彼女は預言者として目覚めてから、ずっとその系統の知識を集めていると公言していた。
誘の預言は後天的なものらしい。彼女自身は、もう、目覚めたころの記憶を忘れてしまっているようだが。
「先輩、遊園地行きませんか? 僕の地元にあるんですけど」
「あー、あそこかな、動物園が併設されてるところ? 行ったこと、ないや」
「そこです。近いし、入園料も他と比べて安めなのでおすすめですよ。……実を言うと東京に出ても、ただ疲れちゃうだけかなって思ったので」
「あー、なるほどね。東京はそもそも人が多いし、夏休みだから、余計にそういうレジャー施設には人が集まるもんね。遊ぼうにも人が多すぎて満足に遊べないとか、ありそう」
「そう! そうなんですよね! 対して、地元の遊園地は平日だったら人も少なく、あまり列に並ばずにアトラクションを楽しめるんです! いざとなれば動物園を回ってもいいですし」
「ふふ。なら、決まりだね」
誘の瞳が輝いた。
呼応するように、大我の鼓動が大きく跳ねた。
自然と口の端がにやけそうになるのを耐えて、彼は爽やかさを保つよう努めて、改めて、
「では、イザナ先輩。僕と一緒に遊んでください」
「いいでしょう。遊ぶからには、たくさん楽しみましょう」
誘も声を弾ませて、約束に乗った。
大我から見れば、自分よりも先輩の方が乗り気であるかのように映っているかもしれない。恋は盲目だった。
明坂大我は。
――世真宵誘とのデートで、初恋の苦みを乗り越える。
固い決意だった。
「楽しみだね、大我君」
「ええ。もちろん。とっても楽しみですよ」
彼女は相変わらず、窓辺を眺めていた。
いつだって、世真宵誘は空の向こう側のどことも分からない、何かを、見つめている。
見つめているようで、ただぼう、っとしているだけなのかもしれないけど。大我的には、その目線が独り占めできたら、もうそれ以上のことは要らないくらいだった。
「一生の、思い出にしたいですね」
「大袈裟だねえ」
「大袈裟くらいでいいんですよ。ここに僕らが集まっていること自体が偶然の連なりで、一期一会なんですから。運命とまではいかなくても、僕は先輩と出会ったわけだから」
「ふふ。伝わっているよ。大我君の気持ちは」
誘の口元が緩んだ。
夏の日差しが彼女の真っ白な肌を照らす。乱反射して、大我の瞳の網膜へと吸い込まれる、虹色の色彩。
微笑んでいるのに。
悲しそうな顔をしているように見えた――のは、大我が恋に盲目だから、だろうか。
二人だけの箱庭を覗く者は誰一人、存在しておらず、つまるところ二人の関係をジャミングする因子は存在しない。
安泰だと、大我は勝手に思い込んでいた。
「……一生の、思い出になるといいね」
閉塞的な部室で、誘は誰に言い聞かせるわけでもなく、ぽつりと呟いた。
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