第10話

押したドアがガランという音を奏で、中に入るとまだBGMもなくただマスターがグラスの手入れをしている音だけが流れている。


「マスター、入っても大丈夫?」


俺の声に気がつき、マスターは手を止めこちらを向く。


「こんばんは、前田さん」


マスターは俺よりも年上だ。いわゆるバーのマスターという感じで、白髪まじりの髪の毛をきっちりと上げ、銀縁のメガネをかけている。体を特段鍛えているという話は聞いたことがないが、だらしない体はしておらず、スマートだ。服の着こなしも上品で、嫌になるくらい真っ白なシャツにグレーのジレを着ている。いつもびっくりするのがマスターの靴だ。客席からは見えないはずなのに、その靴はきれいに、しかしいやらしく光らないように磨かれている。物腰も柔らかだが、話もうまい。聞くのも話すのもどっちもいけるタイプなのはマスターとしては大きな売り込みポイントになるだろう。


「最近はどうですか?順調ですか?」

「ええ。ああ、そうだ。前田さんにご紹介したい人がいまして。」


思い出したように話だしたが、これは確実に狙っていた流れだろう。

こちらのマスター、落ち着きもあるのだが、なかなかに頑固な一面がある。俺も会社もそれをわかっているので、本人があまり数字を強く求めてこないところもありよほどの内容でなければ「店主の意向」ということでそれを踏まえた上でなんとかしている。


「こちらの女性なのですが、新しい店員として雇いました。週に3日、19時〜3時までの店のオープン準備からクローズまでを働いてもらいます。」


マスターが案内した女性は身長は150cmもなく、顔は幼い、髪は短く、どこか危うげな様子を感じられる。お願いしますというような挨拶をしているが声も小さく何か言っていることしか聞こえない。通常の面接で言えば確実に落とすだろう。しかしMumoは人手が足りているが、営業時間を伸ばすように計画をしているところだったし、すぐに人は必要になってくるだろう。ただバーとはいえ接客業だ。こんなようなスタッフで大丈夫か、いや−


「前田さん、彼女はMumoで働きます。経営上のこともあるでしょうが、そこは私がなんとかしますし、これで売り上げが落ちても前田さん達に支払う額は変えませんし、私が彼女を戦力になるように鍛えます。何もご心配するようなことはないかと。」


止める気は毛頭なかったが、何が懸念になるのかに頭を巡らせた。そしてそれは一瞬にして見ぬかれていた。


「わかりました。でもマスターだけにお任せはしません。私にもお手伝いさせてください。」

「初めまして、こんばんは。Mumoの営業協力をしています、前田一といいます。これからたまに会うことになるかもしれませんがお願いします。」


私がお辞儀をすると彼女もぺこりという音が聞こえてきそうなお辞儀をした。おそらくマスターのことなので、何かしらの理由があってのことなのだろうし、もう仕方がない。


「そこで前田さん、うちの店で新しくやりたいことがありまして。ご相談よろしいですか?」


珍しくマスターから提案がでてき、思わず背筋がピンと張る。今まで俺や他の会社メンバーからの提案をしたものの、店で何かをやるということについてはほぼほぼ『Mumoらしくないから』と断られてきた。


「彼女に歌ってもらいたいと思っていまして。実は、路上で歌っているところをスカウトしたんです。ちょうどうちの店にくる途中に彼女を見かけましてね。歌声がうちの店にぴったりだと思ったんです。」


「歌?」


そもそもこの店には楽器はおろか、マイクスタンドの代わりになりそうなものすらない。もちろんカラオケなんてものも備え付けていないし、一度マスターはMumoらしくないと反対さえしている。


「リクエストいいですか?」


敬意を払いつつ、しかし子どもにお使いを頼むように落ち着いた言葉で1音ずつ紡ぐ。マスターはこちらを悪戯っぽく見てから、少女に耳打ちをする。


少女は俺のことをかなり気にしながら、足跡にかき消されそうな音量の咳払いをする。


瞬間、部屋の空気が薄くなった気がした。

少女の方からは隙間風が通る音が聞こえ、老人の方からはスコッチが喉を通る音が聞こえる。

彼女の奏でる振動が俺の耳に伝わってくる。

振動は音となり耳は音を繋がってまとまった集合体として認識する。

結論から言ってしまえば彼女の歌声は綺麗で、BGMには向いていなかった。

そして彼女の歌はどこのラジオ局からも、地上波のTVからも、ネットのサイトからも聞こえたことはなかった。

彼女は自作の歌を歌っていた。


歌詞が嫌になるくらい耳につく。


ー嘘つきな自分が嫌いで


ー本当の自分を出したくて


ー本当の自分が嫌いで


ー仮面のままで生きたくて


ー仮面なしの僕を


ー愛してくれないか


Mumoに静寂が訪れる。

数秒の後、感傷の波から帰ってきたマスターが手を鳴らす。

一組の手からのみの拍手の音は一層少女の歌声の切なさを引き立てる。


「どうですか?彼女の歌。」


マスターが静寂を壊す。


「Mumoはこれから彼女の舞台になるんですか?」


「いいえ、彼女は基本的にはバーテンダーとして働いてもらいます。」


「今後は、芸能プロダクションのサポートも視野に入れたほうがよいですか?」

砕けて言う私へむけてマスターは掌を見せる。


「これから楽しみにしておいてください。これからもおねがいしますね。一さん」

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東京ブルース 猫犬 @robrien

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