第30話 書かなかった事実

〈終わり良ければ全て良し〉とはシェイクスピアの戯曲のタイトルで、本作により広く人々の耳目に触れる表現になったが、〈忘れられたガーゼ〉がこのフレーズ通りに行くには操のペンが最後に物を言うことになるのはいうまでもなかった。

 さて、小説の完成という点を除けば、今年は操にとって概ねフレーズ通りの一年であった。今日は大晦日を三日後に控えた十二月二十八日。城野は操の息抜きを兼ね、六甲山人工スキー場で一日ゆっくり人工雪と戯れる予定を立てた。

「いいなあ。僕も受験を忘れて、思いっきり滑りたいです」

 冬期講習が三十日迄あって、しかも新年間も無くセンター試験が待ち受けているのだ。松井は誘われても行ける身分ではなかった。朝食を城野宅で済ますと、八時過ぎに渋々予備校へ出かけて行ったのだった。

「スキーなんて、ホント、何年振りかしら」

 レンタカーにスキーとリュックを積みながら、操は運転席の城野に白い息を弾ませた。

 十一時前に自宅を出たが、高速を含め、渋滞カ所が結構あって、前戸宅の駐車場に着いたときは午後一時を若干回っていた。二台分の駐車スペースに前戸と遼子の車が納まっていて、城野は仕方なく前戸の母校のキャンパスに車を運んだ。

「ずいぶん起伏に富んだキャンパスね」

 曲がりくねった急坂と階段を上りながら、操が何度も立ち止まって息を整えた。これほど見晴らしが良く立体的な大学は、これまで訪れたことがなかった。

「あー、疲れちゃった。スキーが出来るかしら」

 弱音を吐きながら石段を上り、広いグラウンドを横切って前戸の家に着くと、遼子が玄関先へ出迎えた。今日は午前中の勤務で、先程帰ってきたところだった。

「羨ましいわ。私は今年、滑れないもの」

 お腹に手を当て、いかにも残念、との仕草で泣き言を言う。

「もう! 贅沢者! 何だったら、代わってあげましょうか!」

 操がにらみつけると、

「あーあ、言われちゃったわ」

 遼子は照れ笑いを浮かべながら、城野に助け船を求めた。

「操の言う通り、全くもって贅沢な悩みだよ。―――ところで、ご主人様は?」

 前戸の気配が感じられないのだ。

「昨日、予備校での冬期講習が終わってから書斎に閉じ籠もってしまって。ほら、竹井先生の数Ⅲの参考書の改定、頼まれたでしょう。今年中に微分のカ所だけでも仕上げるって、意気込んじゃって。あと僅かしか日にちがないのに、無茶だわ。城野先生からも、よく言ってくださいな。体をこわすって」

 ゲストルームへ二人を案内しながら、遼子は書斎に不満顔を向けた。竹井というのは高校時代の恩師で、石河・城野・前戸の高三の担任だった。前戸は特に竹井を気に入っていて、彼が理学部数学科を選んだのも恩師の影響だった。微分・積分学の権威で、以前、ある大学の助教授だったが、教授との折り合いが悪く大学を辞めてしまったと、他の数学の教師に聞いたことがある。竹井も前戸が大の気に入りで、

「俺はな、本当は数学なんかやりたくなかったんだ。第一志望は工学部の土木か建築だったんだが、ご覧の通りの弱視でよ、当時は工学部を受験できなかったんだ。だから仕方なしに数学をやったんだよ。お前は数学なんぞやらずに、土木か建築へ行けよ。男らしい仕事だぜ、桜の仕込持って現場監督するなんざ、お前に一番似合ってるよ。がたがた文句言うヤツをぶった切ってやればいいんだ。すかっとするぞ」

 愛弟子に自分と同じ道を歩ませまいと説得したが無駄だった。数学を志す者にとって、竹井の授業は素晴らしすぎて、知らぬ間に数学の虜になってしまうのだ。物理を選んだ城野も、医師を志した石河でさえ、竹井の授業で数学が好きになり飛躍的に成績が上がったのだった。

 ―――竹井先生も、改訂版を前戸に依頼する年になってしまったのか。

 柔道と居合いで鍛え抜いた、頑強な恩師の体躯を思い浮かべると、城野は寂しくなった。

「さあ、操さん。私たちはダイニングへ行きましょ」

 高校時代の思い出に浸っている城野を残し、ヒソヒソ声で告げると、遼子は操の手を引いて奥のダイニングへ入ってしまった。

「さて、四人分のお紅茶が入りましたから、殿方のところへお運びしましょう」

 何か魂胆があるらしく、遼子の態度はやけに恭しい。操が怪訝顔を浮かべると、

「操さん。達夫さんのところへ紅茶を持って行ってくださらない? 小説のことで、お話がおありでしょう? 私も城野先生に少しお伺いしたいことがありますので、二人だけにしてくださると助かるんですけど」

 遼子は澄まし顔で意味有り気に笑い、二人分の紅茶を操の前に差し出した。

「まあ! 私は邪魔者というわけね!」

 操は遼子をにらんで怒ってみせるが、すぐ吹き出してしまった。

「はい、はい。分かりましたよ」

 苦笑いを浮かべ二人分のティーカップをトレイに乗せると、操は書斎へ消えてしまった。

「城野先生。お待ちどうさま。どうぞ、紅茶が入りましてよ」

 操が見えなくなると、遼子はゲストルームへ紅茶を運び、いそいそと城野の向かいに腰を下ろした。

「ね、先生。ご存知なんでしょう、達夫さんの初恋の人を。どんな人か話してくださらない?」

 魂胆の中身がようやく判明したのだ。頬杖を突いて、遼子は待ち切れない素振りで城野の顔をのぞき込んだ。

「そういう事は前戸に聞いてもらいたいね。そんな話をして、君たちの夫婦仲にひびを入れる役回りは御免こうむりたいから」

 ティーカップを置いて、城野が笑いながら断ると、

「それくらいでひびが入るほど、私たちの夫婦仲は脆(もろ)くはありませんわ。それに、これは達夫さんの了解を得ているので、御心配は無用ですから」 

 遼子は予期した答えをさらりと受け流した。

「本当に、俺に聞けと?」

「ええ。『城野がよく知っているから彼に聞いたらいい。遠い昔のことで、俺は忘れてしまった』ですって」

「ふぅーん」

 城野は苦笑いを浮かべてしまった。一緒に暮らすようになって昔のことがあれこれと話題に上り、遼子に追及され前戸も困り果てたのだろう

「まず、名前からお聞きしたいわ」

 承諾の「し」の字も口にしていないのに、遼子はせっかちだ。

「確か、西田輝恵といったと思うんだが。何せ、三十年近く前のことで、自信はないよ」

 正確に覚えているが、遼子の気持ちを考え、城野は笑いながらぼかしてしまった。

「どこで知り合ったんですか」

「高校の通学電車でね。前戸の乗る一つ手前の駅から彼女が乗ってくるんだ」

「それで、二人はどうなりましたの?」

 矢張り心配なのか、遼子は身を乗り出してきた。

「いやぁ、どうにもならなかったよ。それだけ」

「えっ! それだけ?」

 意外な結論に、遼子は目を丸くしている。

「彼女はね、我々より一年下だったんだが、我々が浪人したもんだから、同じ学年になっちゃったんだよ。おまけに前戸と同じ大学に入ったんだ。彼女が同じ大学に入ったと知って、前戸は痛くくさっていたよ。『こんなことなら、現役のときに今の大学受けとくんだった』って。現役のときでも十分合格できたからね。それが浪人して彼女と同じ学年になっちゃったから、『縁がなかったんだな』って、交際を申し込むのをやめちゃったんだ。おそらく若気のいたりで、ヤツのプライドが邪魔したんだろうな。そういう意味では縁がなかったんだろうね」

「それじゃ、彼女は達夫さんの気持ちを知らないんですか」

「多分ね」

 何もなかったと知って安心したのか、遼子の目に微笑みが浮かんだ。

「ふぅーん。で、どんな感じの人ですの?」

「‥‥‥うーん。どんな感じだろうね」

 城野は腕を組んで思い出す振りをした。似ているのだ、遼子に。前戸が遼子と同棲事件を起こしたとき、城野は西田輝恵の影を見ないわけに行かなかった。

 ―――あの時は父兄たちが騒ぎ出して、大騒動になりかけた。

 教え子と同棲するなんて、もっての外だと非難して。城野も雑誌の取材を受けたが、何故か明るみに出ることはなかった。遼子の親が金で解決したのは、その後知ったが、いずれにしても容易に沈静化する気配がなかったのは事実だった。

「同棲をやめないのなら、退職してもらう」

 理事長に詰め寄られたとき、前戸は、

「なら、退職しましょう」

 と、答えてしまった。

「確かに自分は不注意だった。しかしいま遼子を突き放せば、一体どういう結末を生むか分かっているだけに、それは絶対出来ない」

 迷いのない毅然とした前戸の態度に、城野は痛く感銘を受けてしまった。

 ―――男の責任というやつかな‥‥‥。

 困った理事長が、同席していた城野に前戸の説得を求めたが、

「じゃあ、私も前戸と一緒に辞めます」

 返ってきた、意外な城野の返事に、

「えっ! そんな‥‥‥」

 理事長は茫然自失の体で絶句してしまった。

 前戸の同棲には、城野も強く責任を感じていたのだ。A1クラスで遼子を見たとき、

「おい、前戸。西田輝恵にそっくりな女生徒がいるぞ!」

 と、真っ先に伝えたのは城野だったからだ。

「‥‥‥城野先生にまで辞められたら、講座の遣り繰りは不可能になって、うちは今以上のダメージを受けてしまいますがな」

 二人の決意が固いのを知り、理事長は頭を抱え困り果てていたが、

「分かりました。私が、何とかしましょう」

 結局、城野とともに前戸を擁護する側に回ってくれたのだった。

 あのとき予備校を辞めていたら、今ごろ二人はどうしていただろう。少なくとも、今日のこの日はなかったはずだ。

「ねぇ、どんな感じの人ですの?」

 なかなか返事をくれない城野に、遼子がしびれを切らしてしまった。ぼんやりと考え込む彼の顔を間近にのぞき込んで返答を促す。

「さあ、どんな感じだったんだろう。三十年近くも前のことなので、すっかり忘れてしまったよ。さきほどから思い出そうと努めているんだけど、やっぱり駄目だな」

 城野は背もたれで体を伸ばし、身を退いてはぐらかしてしまった。

「そう‥‥‥」

 城野のうそを信じたのか、それとも期待外れでつまらなかったのか、遼子はそれ以上西田輝恵について尋ねなかった。

 さて、二組の男女の各ペアが入れ代わってしまったが、ゲストルームのペアとは対照的に、もう一組のペアの目は過去と違う未来に向いていた。

 ―――あんなに綺麗な花弁を庭に散らして。

 書斎へ向かう操は廊下で足を止めて、ガラス越しに庭の椿を眺めていた。散る花は哀愁を醸し出すが、この庭の花弁からはそんな匂いは嗅ぎ取れなかった。むしろ散ることに喜びを見いだしているようにさえ思えるのだ。

 ―――綺麗な花じゅうたん。

 幾重にも降り積もる、ピンクの花弁に包まれて眠ってみたい気がする。廊下にたたずんだまま、ぼんやりとメルヘンの世界に浸っていると、

「遼子か」

 奥の書斎から前戸が呼んだ。微かな操の気配を嗅ぎ取ったのだろう。

 ―――さすが、剣道の達人ね。

 口元に微笑を浮かべ、ドアをノックして書斎へ入ると、前戸は机に向かってペンを走らせていた。向かって右手にパソコン、左手には参考文献と思しき書物が山のごとく積まれてあった。部屋には小さな明かり窓が二つあるだけで、程よい暗さが保たれていて、アカデミックなムードが漂っていた。黙って操が、電燈の下の前戸を見つめていると、

「おう! 操さんだったのか」

 前戸がようやく顔を上げた。筆記に集中して油断したのか、それとも遼子と信じ込んで疑わなかったのか、剣の達人も操に気づくのが遅れてしまった。

「驚かせて済みません。紅茶を運ぶ役目を仰せつかりましたの」

 操には珍しく、茶目っ気たっぷりにトレイを持ち上げた。

「それはありがたい。丁度飲みたいと思っていたところなんだ。ところで城野は?」

「遼子さんとゲストルームで。彼女、何か聞きたいことが御有りらしくて」

 中央のテーブルにティーカップを並べながら、操は可笑しそうにくすっと笑った。

「あーあ」

 椅子の背もたれで大きく体を伸ばし、パソコンの電源を切り万年筆のキャップを締めると、前戸は立ち上がって操の向かいのソファーに腰を下ろした。

「操さんに大変な仕事を押しつけて誠に申し訳ない。昨日、城野に怒られてしまったよ」

 姿勢を正し、正面の操を見て、前戸は深々と頭を下げた。

「いいえ、気になさらないでください。それより私の方こそ、ご期待に副えないじゃないかって考えると、恐いわ」

「それこそ気にしないでもらいたいね。資料にも書いたように、ミスの存在を知っている人物はかなりの数に上ることが分かっているんだ。彼らのうちの何人かは、小説が出れば必ず沈黙を破ってくれるよ。それに遺族が名乗り出てくれれば、もうこっちのもんだ。大丈夫だよ」

「‥‥‥でも、評価に耐え得ない程度のものでしたら、沈黙を破れないし、遺族に知らせることもできないわ。結局、医療ミスが明るみに出るか否かは、私の書く小説にかかっているんですね」

 かなりのプレッシャーを感じているらしく、操は不安を声ににじませた。

「いや、そんなに責任を感じてくれる必要はないよ。‥‥‥実は、他に有効な手段がないわけじゃないんだ」

「えっ!?」

 操は驚いて顔を上げた。

「先日渡した情報ファイルには敢えて書かなかったんだけど、ファイルに載っている人物の一人は、金を渡せば手術日を教えてくれるらしいんだ。他にもう一人、同様の感触を得ている人物がいる」

「どれくらいの金額ですの?」

「うん。相当な金額だけど、出せない額じゃないよ」

 前戸は具体的な金額を言わなかった。相手が提示していないので言いようがないのだが、もちろん大凡の検討はつく。情報を出し渋っている人物は、医療ミスが白日に晒されることによって前戸が経済的利益を得ると勘繰っているのだ。そして、自分もそのおこぼれにあずかろうという腹なのだ。

「どうしても駄目なときはその人物に金を渡せば手術日は分かる。名前を出さなければ教えてくれるらしいから。だから操さんはリラックスして小説を書いてくれればいいんだ」

 前戸の説明で、彼がなぜ情報ファイルに書かなかったか理解したようで、操の目から不安な色が消えてしまった。

「有り難う。前戸さんは私に賭けてくださったのね。でもそれを知ったら、ますますプレッシャーがかかりそうですわ」

 言葉とは裏腹に、操は軽口まで叩く余裕が生まれたのだった。

「さあ、城野と遼子が待っているだろう」

 前戸に促されて、操も彼と一緒に書斎を出た。並んで広い廊下を歩いていたが、

「矢張りマネー・イズ・サムシングなんですね。お金は大切だということはよく分かっていましたが‥‥‥。でも、この情報だけは、出来ればお金で買いたくないわ」

 立ち止まって前戸を見上げると、

「そうだね。バット・ノット・エブリシングだから」

 全てじゃない、と言う代わりに、彼は英語の諺を続けた。

「‥‥‥ええ、本当に」

 前戸を見上げる操の背後では、鮮やかなピンクの花弁が、ガラスの向こうで風に舞っていた。


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整形外科医南埜正五郎追悼作品【幼児の胸部に忘れられたガーゼの、被害者遺族を求めて】(大阪の旧帝大小児外科での35年以上前のガーゼ失念ミス) 南埜純一 @jun1southfield

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