第29話 マイ Everything(私のすべて)


「先生、今日も夕食は僕らで作らなきゃいけないみたいですね」

 天王寺駅で鳳行きの各停電車の後部二両車両に腰を下ろすと、松井が右隣の城野に微笑みかけた。予備校での冬期講習を終えて、二人はこれから杉本町まで帰るところだった。最後部の車両だと杉本町駅での歩行距離が最短なのだが、松井はいつも後部から二両目の車両に乗る。最後部や最前部は事故のとき怪我をする確率が高い。だからそれらを敬遠するのだという。子供の頃から母に言われ、知らず知らずに身に付いてしまったらしい。

「そうか、お母さんがそんな癖を‥‥‥」

 松井からその話を聞かされたとき、城野は松井志津の稔への気持ちが痛いほど分かった。母と子の二人だけの生活。その中で、必死に息子を守ろうとする母親の、悲しいまでに深く強い愛に胸を打たれてしまったのだ。

 松井の影響であろう、城野もいつのまにか最前部と最後部の車両は避けるようになってしまったのだが、その彼が隣席の松井に渋い顔を返したのは、操が昨日から書斎に籠りきりだからである。小説の構想を練っているのだろう、昨日も帰宅すると、操は昼食も取らずに前戸から渡された情報ファイルに見入っていたのだった。

「今夜の夕食は寿司でも取ることにして、少し手を抜こうか。野菜は、駅前のコンビニで惣菜を買って間に合わせよう」

 城野の苦笑いの提案に、

「いいですね。作る時間だけじゃなく、後片づけも節約できるんで助かっちゃいますね」

 松井は屈託なく笑った。五時過ぎだが冬休み中ということもあって、車内は乗客がまばらで、前の車両まで見渡せるほどだった。松井はしばらくの間、見晴らしのよい高架の車窓を眺めていたが、南田辺駅のホームへ電車が滑り込むと、

「先生。当局は入試制度、特にセンター試験をいじりすぎると思いません?」

 隣の城野に目を移して、受験生らしい素朴な疑問を口にした。

「そうだな。ところで、その点については前戸が面白いことを言っていたな」

 前戸の分析を思い出して、白い歯を覗かせ城野が続けた。

「君たちはIQ(知能指数)神話というのを知らないだろうが、かつては幅広い信者を持っていたんだ。IQ神話というのはIQの高い者は高成績が得られるという考えなんだ。だから小学校へ入るとIQテストがなされてね、そこで高得点を取ると、『お宅のお子さんは良い頭をお持ちですから、しっかり勉強させてくださいよ』なんて親が教師に言われるんだよ。知能指数による一種の差別教育だな。ところがね、五十年近く前に南カリフォルニア大学のギルフォードという教授が、IQがそれほど高くないのに高い学業成績を示すグループを発見したんだ。そして彼らの特性を計るものとして、創造性テストというのを考案したんだよ。つまりね、IQテストは知能の量しか計りえていないんじゃないか。創造性こそ知能の質を計るものだ、という主張を展開したんだよ。このようにIQが低くても高い学業成績を示すグループの存在が明るみに出てくると、IQ神話が急速に崩れ出したんだ。ま、そんなわけでIQ神話は大っぴらには語られなくなってしまったんだが、いまだに根強い信者を持っていることは事実なんだ。いずれにしてもIQと創造性が学業成績と高い相関があることが分かったんだが、これら以外で高い学業成績を示す第三のグループの存在が新たに発見されたんだよ。つまりIQや創造性が高くないのに、高い学業成績を示すグループがね。心理学の分野は結構面白いんだよ」

 松井の真剣な表情を和らげるため、城野は一呼吸おいて彼に微笑みかけた。

「ところでこの新たに発見された第三グループの特性は、高い達成動機を持っていることなんだ。達成動機というのは物事を成し遂げたい、他の人より立派になりたいという動機と思えば良いだろう。そしてこの達成動機というのが、入試制度をいじる大きな要因ではないか、というのが前戸の一仮説なんだ。ま、話を元に戻すとね、先程の説明から分かるように、高い成績を示す者は統計的には三つのグループに分類できるんだよ。IQの高いグループ、創造性の高いグループ、それに達成動機の高いグループの三つにね。そして、これらの関係を車を例に分かり易く説明すると、IQは排気量、創造性はターボと思えばいい。他が同じ条件なら排気量の大きい方が小さい車より速く走るだろう。ところが小さい車にターボチャージャーを取り付けると大きいものに勝てるんだよ。今の例でIQと創造性の関係は分かってもらえたと思うんだが、この両者は遺伝規定性が強い、つまり親が高ければ子も高いという関係があるんだ」

「最後の達成動機も、遺伝の影響を受けるんですか?」

 遺伝と聞くと、松井は会ったことのない父親の影響がどうしても気になってしまう。

「いや達成動機は遺伝的要因とは関係なくて、幼児期における母親の育児態度に影響されるんだ。これは精神分析学派の創始者、フロイトの説だけどね。小さいときに母親に自立心を養われたり、物事を成し遂げる態度を身に付けるようしつけられると、達成動機の高い子供が出来るんだそうだ。そしてこの達成動機を先程の車の例に当てはめるとね、知能の量も質も高くないというんだから、軽四輪のエンジンを考えるといいだろう。六百六十ccでターボも付いていない車が、二千ccに勝てるとしたら、これは運転技術が良いこと以外には考えられないだろう。実際、達成動機の高い人というのは向上心が強くて、友人を選ぶ場合一つを取ってみても、自分より優れた能力の持ち主を選ぶ傾向があるらしい」

「ふぅーん。成績の良い者というのは知能の量が大きいか、質が良いか、それとも達成動機が高いかの、何れかというんですね」

「相関が高いというだけで、現実の成績は方法論や努力に影響されるのはもちろんなんだ。僕や前戸先生は、現実の成績に最も影響を与えるのは方法論だという考えなのは君も知っての通りだよ。ただ高い評価を得る教師というのは達成動機を刺激する授業に努めているのは事実で、前戸先生の授業を受けている君は重々承知だろう。達成動機は一年くらいの短期決戦では、刺激によっては持続可能だからね」

「ところで、それと入試制度をいじることと、どんな関係があるんです?」

「うん。この点は穿った見方かも知れないけど、君の志望する東大の合格者の知能と無関係ではないのではないかと、前戸は言うんだ。東大合格者の平均IQは思ったより高くないらしいんだ。逆にいえば東大には達成動機の高い人たちがたくさん合格しているということになる。ところが彼らは大学に合格すると、遊び出して余り勉強しない。なぜなら大学に合格して目的を達成しちゃったからね」

 軽口を叩いたつもりだったが、松井は真剣な表情を崩さなかった。

「それに遊ばない人たちも、大学の最先端を行く研究分野ではどうしてもIQや創造性の高い人たちに較べ限界がある。それがノーベル賞受賞者の数で東大が他大学に大きく水を空けられている原因じゃないか。なら高IQ者や創造性の高い者を多数東大に合格させよう、それに適するテストを導入しよう。昨今の入試制度の改革は、そんな流れの中に位置づけることもできる、というのが前戸の考えだよ。もっとも酒を飲みながら冗談交じりに喋ったことで、本気にされると困るんだが」

 城野は再度軽口を叩くが、今度も松井は真剣な表情を崩さなかった。

 城野と松井がJR阪和線の車両内で入試制度、特にセンター試験変更理由を語り合っていた頃、城野宅では二人の想像に違わず、操は書斎で小説の構想を練っていた。前戸から情報ファイルを受け取ると、操はその日の内に読んでしまった。かなりのボリュームだが、時の経過に沿い分かり易く整理してあったので思ったほど手間取らなかった。

 読み終わると、次の作業は小説の構想を練ることだが、まずテーマを決めねばならなかった。そしてこの点は、前戸が予期した通り、彼女は愛をテーマに選んだ。母の愛、神の愛、恋人同士の愛に、怒り・不安・苦悩を対応させることにした。恋愛を組み込んだのは、医療ミスという深刻な問題の暗さを中和したかったのと、多面において、より際立たせたいという意図があったからだ。

 テーマを設定すると、次は主人公を決めて、小説の粗筋を頭の中で描かねばならない。主人公はナースと決めていた。問題はどこの科のナースにするかである。小児外科か一外はすでに決まっていた。

 ―――どちらがいいのだろう‥‥‥。

 小児外科では直接的すぎるから、矢張り一外のナースがいいだろう。そう考えて職員名簿を見てみると、随分たくさんいて驚かされてしまう。

 ―――この中の誰をヒントにしようか。

 迷いながら名簿を見ていると、所々に前戸の覚え書きらしい書き込みがある。最初のそれは、あるナースの氏名の上に、一外→一内と朱書きされていた。第一外科から第一内科へ移ったということだろう。丁度いい。この人物をヒントにさせてもらおう。

 ―――年齢はどのくらいがいいのだろうか。

 二十代は少し若すぎるように思うし、かといって四十代ではヒロインに激しい恋をさせるのは抵抗がある。三十代にしよう。三十代だと遼子と同年代だから、彼女の性格を移入できる。

 ―――恋人は前戸さんを参考にしよう。

 彼の職業はドクターでもいいが、ストーリーに幅を持たせるためには医療関係者以外がいいだろう。何にしよう。主人公が苦悩するためには新聞記者がいいだろう。かつて心臓病で一外に入院していたとき、彼女と恋に落ちた。この設定がテーマに最も適合するだろう。ここへ小児外科のドクターに捨てられた彼女の後輩を登場させる。そしてその後輩から医療ミスの存在を知らされた彼女が、恋人に告げるべきかそれとも沈黙を通すか、悩み苦しむところで第一章を終わる。第二章は、ミスを知ってしまった母親の病院に対する怒りと、子供に対する愛を柱に据えよう。そして最後の章は、大変なミスを犯した執刀医の不安と、彼に対する神の愛を軸にしよう。

 ―――よし、これで行こう。

 小説の粗筋が練り上がったので、椅子の背にもたれて体を伸ばす。

「あー‥‥‥」

 心地好い解放感と、何とも言えない充実した気分が心と体を満たしてくれる。が、それは束の間だった。壁の掛け時計が目に入ると、操はあわてて椅子から立ち上がった。五時三十一分を指しているのだ。

「さあ、大変! 食事の用意をしないと」

 買い物カゴを持って急いで家を出ようとしたとき、城野と松井が帰ってきた。

「お帰りなさい」

「あれ!」

 出迎えた操に二人は意外な表情を浮かべた。

「どうしたの? 二人とも、変な顔をして」

「いや恐らく今夜も晩飯にはありつけないと思って、我々二人が調理する気でいたのに、買い物に出かけるのを見たからだよ」

 城野が笑いながら玄関へ入ると、松井も相槌を打って彼に続いた。

「ごめんなさい。でも、もう昨日のようなことはないわ。一応の筋は出来たから」

「そりゃあ助かった。これで三人とも飢え死にせずに済みそうだ」

 城野の軽口に、

「もう!」

 ふくれっ面を向けてから、操はドアを閉めて買い物に出ようとするが、彼に止められてしまった。

「今夜は寿司でも注文して食べよう。これから買い物に出ると遅くなるし、それに風が強くて雪も少し降っているよ」

「えっ! 雪が―――。そうね、久し振りにお寿司を食べるのもいいわね」

 寒さは苦手だし昼食抜きなので、この時間からの買い物は正直億劫だった。

「それじゃ、僕は書斎をお借りします」

「はい。すぐコーヒーを持っていくから」

 書斎へ駆け込んだ松井の背中に声をかけ、操は居間へ入ると城野の向かいに腰を下ろし、ゆっくりと三人分のコーヒーを挽く。

 ―――ああ、この安らぎ‥‥‥。

 コーヒーの香りにも酔ってしまいそうな、そんな安らいだ気分に浸れるのだ。心地好いムードに満たされ目の前の城野を見つめていると、これまでの彼とのことが、まるでドラマの筋立てのような錯覚に陥ってしまう。

 ―――この人とは、随分不思議な巡り合わせだった。

 もし、あのとき、百万遍の交差点をこの人が通らなかったら。

 ―――もし、あのとき、喫茶店にこの人がいなかったら。

 それに、もしあのとき、ローカル紙をこの人が読まなかったら‥‥‥、恐らく今日という日はなかっただろう。そんな気がする。

 ―――数え切れない偶然で結ばれた関係。

 それを、この人は運命と呼ぶ。前戸達夫なら、多分、確率の問題だと言うだろう。人生とはそんなものだとも―――。

 ―――可笑しな二人‥‥‥。

 操はくすっと笑った。余りにも違う人生観を持った二人が、強い友情の絆で結ばれているのが可笑しかったのだ。

 ―――この人は、それも運命だと言うだろう。

 私がこの杉本町という町で暮らすことになったのも運命で、松井稔が私たちのマンションの一室で、受験勉強に励んでいるのも運命―――。そして、私のこの切ない想いも、運命と言うのね‥‥‥。

 ―――ずるい人。

 微笑みながら、操は城野をにらみつけたが、夕刊に目を落とす城野には彼女の視線は届かない。

「‥‥‥マイ・エブリシング」

 操は城野をにらんだまま小さくつぶやいた。

 ―――私のすべて、‥‥‥か。

 英語の意味を確認すると、城野は紙面に落とす目を細め、口元を少し緩めたのだった。


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