第28話 アンカー
十年分の出来事が襲って来たこの一年、特に年の後半に大きな事件が降って沸いたが、その因縁の年もあと一週間で新年を迎えることになってしまった。今日はクリスマス・イブ。昼食のためにワープロを叩く手を止めたものの、操は机に頬杖をついたままなかなか腰を上げそうになかった。
「ふぅー」
画面をにらんで再び大きな溜め息を吐いた。前戸なら、ため息の理由を三つに分析するであろう。第一のそれは、城野がイブの夜、恩師の通夜のため京都へ出かけてしまったこと。二人で食事をする予定が、流れてしまった。
さて第二の理由は、前戸が今日、操に会いに来ること。冬期講習が終わってからだから、五時過ぎになるだろう。
―――松井君と一緒だと助かるんだけど。
邪心を持っているわけではないが、二人きりで会うとなぜかドキドキしてしまう。恐らく操にとって、前戸は趣味やライフスタイルその他に多くの共通項が有り過ぎ、話しているとふっと引き込まれてしまう魅力があるからだと思う。
最後の理由は、まだ不確定で断定はしかねるが、前戸の操に対する依頼の内容だった。操の予想だと、それは医療ミスを題材とする小説の執筆であった。ある程度の覚悟は出来ているが、矢張りいざとなると緊張してしまう。自分の才能に自信がないし、期待外れのものになりはしないかと不安なのだ。そんなわけで、今日の操は自分でも可笑しいくらいソワソワと落ち着きがなく、ワープロを打つ作業が全くといってよいほど捗らなかった。五時過ぎにチャイムが鳴ったときは、ドキッと、思わず胸に手を当ててしまった。
「こんばんは。前戸先生も一緒です」
インターホンから流れる声を聞いて、操は第二の溜め息理由が杞憂に終わり、ほっと胸をなで下ろしたのだった。
「城野先生が出かけられてるんだったら、僕も書斎の机を借りて、ここで勉強します。センター試験が近づいてるのでちょっと焦り気味なんで」
二人に断ると、松井は城野との勉強部屋の書斎へ駆け込んでしまった。
「どうぞ」
操が居間のテーブルにコーヒーを運んでくると、前戸はコーヒーの礼も忘れテーブルに身を乗り出した。
「城野から聞いてもらっていると思うんだけど、最後の詰めに手間取っちゃってね。操さんの助けを借りたいんだ」
「私の助けといいますと?」
「うん。出来れば僕が集めた資料を基に小説を書いてほしいんだ。それにより遺族が医療ミスの存在を知ることが可能だし、病院内部の情報掘り起こしのキッカケになるだろう」
「‥‥‥私に出来ますかしら」
重大任務だけに、口に出して頼まれると矢張り怖じ気づいてしまう。
「あれだけの手記を書ける人だから、出来ないはずはないよ」
「あれは夢中で書き上げただけで、‥‥‥恥ずかしいわ」
操は赤くなった頬を両手で隠した。
「あれを読んで感動したよ。遼子ほどじゃないかも知れないけどね。で、思ったんだ。もし俺が力尽きても、アンカーとしての操さんが必ずバトンを受け取ってゴールを目指してくれると。‥‥‥勝てる! この勝負は確実に我々が勝利すると確信したよ。最高の最終走者にバトンを手渡す喜びに、体が震えてしまったよ」
操には自分のことをいつも「僕」と言っていたが、チームメートに話すように違和感なく「俺」に変わってしまった。
「そんなに煽てられると困るわ」
「いや、とんでもない。煽てじゃなくて真実だよ。手記を載せた雑誌の部数が、従来の五倍以上に伸びてるんだから」
驚くほどの反響で、出版社からの執筆依頼が既に入っているのは城野から聞いていた。
「でも小説なんて、これまで書いたことがありませんし‥‥‥」
「たくさん書けば良いものが書けるなんてもんじゃないよ。惰性で書かれたものより、最初の作品の方がよっぽど素晴らしいものが出来上がるって、どこかで聞いたことがあるよ。それに、誰かも言ってたしね。―――初心、忘るべからずって、ね」
天狗にならないよう、操がよく引用する諺を持ち出し、前戸が笑いかけた。
「ええ、‥‥‥」
確かにそうだが、初めての試みで、うまく行くのか正直いって、全く自信がないのだ。コーヒーカップをのぞき込んで、しばらく考え込んでいたが、
「でも、当然のことでしょうけど、世間の注目を浴びるものじゃないと駄目でしょう。そうでなきゃ、遺族に医療ミスを知らせるという目的を達成できませんもの。ね、注目を浴びる小説の条件というのをお聞きしたいわ」
ようやく顔を上げて前戸の顔を覗き込んだ。
「それは俺なんかより、操さんの方が余程ご存じなんじゃないかな。俺が言えることといえば、歌謡曲が売れるためにはメロディーと歌詞、それに歌い手が良いこと、これくらいだよ」
不況に喘ぐ出版界が、それこそ鵜の目鷹の目で探す秘宝のようなもので、一介の予備校講師に即答可能な易問ではないのだ。それに可笑しなことを言って、操の構想を乱したくなかった。前戸は無関係な歌謡曲を持ち出し難題からの逃走を図ったが、操は彼の意図通りには動いてくれなかった。
「ヒットする歌謡曲で一番大事なものはメロディーでしょう。次に歌詞で、最後は歌い手だわ。‥‥‥小説でいえば、歌い手は書き手としての作家といっていいんじゃないかしら。メロディーは骨組み、つまり構成で、歌詞は登場人物の個性かしら。―――この中で、前戸さんは一体、私のどこを買ってくださっているの?」
歌謡曲と小説の対比という乱暴すぎる提案でお茶を濁す意図だったのに、操は前戸の提案に意義を見いだしてしまった。
「そりゃあ操さんの構成力と、作家としての力量だよ」
「それじゃあ、構成についての前戸さんの考えを、お聞きしたいわ」
「いやぁ、難しいな」
鋭い追及に前戸はたじたじで冷や汗が出る。
「でも、私に難題を押しつけられるんですもの、答えていただく義務がありますわ」
既に完全に操のペースにはまってしまった。
「‥‥‥そうだね。テーマがしっかりしていて、そのテーマが小説全編に力強く流れていること。しかも読む者に、それを意識させない奥ゆかしさがあることかな」
「なるほど‥‥‥。それじゃ、登場人物の個性については、どうお考えですの?」
操は容易に追及の手を緩める気配がなく、前戸は歌謡曲を引き合いに出したことを悔やんだが後の祭りだった。
「読者に好まれるキャラクターは、強さ、優しさ、美しさの何れか、または、その全部を持ち合わせているように思うんだが‥‥‥」
これに、弱さ、幼さその他の要因をどのように加味するかを考えると、頭が痛くなってしまう。前戸が額に手を当てて、難しい顔で眉間にしわを寄せていると、
「分かりました。前戸さんのご意見はよく分かりましたわ。私も大いにそれを参考にさせて戴いて、挑戦してみることにしましょう」
ニッコリと微笑みかけて、操は前戸を難題から解放し、彼の依頼を応諾したのだった。
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