第27話 手記


 ―――どうやら、俺の予想は外れてしまったな。

 天王寺駅から予備校への道を歩きながら、前戸は天を仰いで苦笑いを浮かべてしまった。猛暑の後の厳冬到来、この図式はほぼ成り立ち得ない状況に至っていた。すでに十二月半ばだというのに信じ難いほど暖かいのだ。あまりの暖冬に各地のスキー場は悲鳴を上げていた。積雪がなく、予約キャンセルが後を絶たないのだ。

「天候に左右される商売も大変だな」

 苦笑しながら独り言のようにつぶやくと、前戸は晴れた青空をもう一度見上げた。今日は土曜日でYMCC予備校での授業はないのだが、出版社へ寄ったついでに天王寺まで足を伸ばしたのだった。講師室へ寄り机に置き忘れた書類を取って、地下の食堂へ下りると松井が数Ⅲの参考書を読みながらコーヒーをすすっていた。

「よう」

 バナナジュースを二つ、テーブルに置くと、

「あ、先生。どうも有り難うございます」

 ようやく前戸に気づいて、ジュースの礼を言う。

「今日は自習室で勉強していたのか」

「ええ、ついさっきまで。コーヒーを飲み終えてから帰るつもりだったんです。アパートでするとどうしてもダレてしまうので、一度は予備校へ顔を出すようにしてるんですが、最近は自習室も結構うるさくて」

 向かいに腰を下ろした前戸に、松井は不満顔を向けた。この時期、私学行きが決まった受講生は目的をなくし、糸の切れた凧のようにフワフワと落ち着かなくなって、他の受講生からよく不満が出る。

「そうか。‥‥‥仕方がないな。我々のときは天王寺公園内に図書館があったんで、よくそこを利用したんだが。―――もっとも、あそこもうるさいことはうるさかったが」

 自分の受験時代を思い出すと、受験生の悩みは似たり寄ったりで、昔も今もあまり変わっていないのだ。

「アパートで勉強するのが、結局、一番いいのかも知れないな、この時期は。ところで、今日は操さん、こっちにいるんだろうね」

「はい、いらっしゃいます。たぶん今ごろ書斎でワープロを叩いていると思うんですが」

 操がいなければ城野のマンションへ行き、居間か書斎で勉強させてもらうのだが、彼女がいるところへ出かけるほど松井は無神経ではなかった。

「‥‥‥そうか。で、ここにいるというわけなんだな」

「はあ」

 前戸に言い当てられ、松井は正直にうなずいて頭をかいた。

「ところで、彼女の近くにいると、勉強がはかどるんじゃないか」

「ええ。操さんのそばにいると、何か建設的なことをしないと罪悪感を感じてしまうんです。不思議な人ですね。穏やかで静かなんですが、知れば知るほど計り知れない力というか、能力を感じるんです。大きな氷山みたいですね。見えている部分の何十倍もの実体があるということが、よく分かりました。僕なんか勉強する気がなくなると、机の前に座っている操さんを想像するんです。すると途端にやる気が出てきちゃったりして」

「そうだね」

 知的作業に対する操のひたむきさには、前戸も賞讃を通り越し感服させられてしまうのだ。絶望感に打ちひしがれ、死の淵を覗いてしまった。そんな体験が彼女に生と時間の究極の価値を教えたのかも知れない。

「ところで、‥‥‥〈手記〉は読んだかね」

 操が書いた手記を一週間前、遼子に見せられて前戸は既に読んでいたが、松井はどうなのか気になって聞いてみた。

「‥‥‥はい。一週間ほど前、ステーションビルの書店で。―――新聞の宣伝に載ってましたので、気になって」

 矢張り松井も読んでいたのだ。答えてから、内容を思いだして神妙な面持ちで俯いてしまった。

 鈴木操は最近、K社発行の女性誌に手記を載せた。その中で、彼女はかつて自分がいかに愚かな存在であり、ある人がいなければ遠(とお)の昔にこの世から消えていた運命であったこと。彼の存在が自分の生きる支えであり、彼との愛に殉ずる覚悟であることを、ときに悲しく、また、ときに詩情豊に、そして最後には力強く訴えかけていた。

 主張内容を敢えて三章に分類すれば、第一章は過去の懺悔であり、第二章は愛の讃歌だった。そして最終章は、この愛を邪魔する者には死を賭して戦うという、強い決意の闘争宣言といえるものだった。

〈あなたへ〉と題された手記を読んで、前戸はその内容に感動するとともに、何よりも彼女の隠れた才能に驚いてしまった。過去の過ちを語りながらも決して気品を失わず、しかも読む者に力強く迫ってくる筆致は、天性のもののように思われたのだった。

「操さんの手記を読んでいて、僕、涙が止まりませんでした。書店の人は変に思ったでしょうけど、そんなこと気にならないほどの内容だったんで―――。もう、その夜はなかなか寝つかれませんでした。これでますます操さんのファンになっちゃって」

 はにかみながら語る松井の賞讃を聞きながら、前戸はこれからやろうとすることに一層自信を深めたのだった。


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