第26話 手ごたえ
早起きは三文の徳という意識はないのだが、長年の習慣で、城野の寝覚めは早く、寝室の時計が六時を指すと彼はベッドを出て隣室へ向かう。夜型人間の操は朝が苦手で、城野がベッドを出ても気づかず、軽い寝息をたてて眠っていた。仕事の整理が前半の山場を越え、先週の水曜日から城野と同居していた。
日課の運動パタンを終えて城野が廊下へ出ると、丁度、操が寝室のドアを開けた。気密性が高く、気合いも抑え気味だが、矢張り隣室での激しい動きは寝室まで伝わってきて、目が覚めてしまうのだ。
「おはよう。相変わらず早いのね」
欠伸を手で隠して、眠そうな目で城野を見上げた。
「おはよう」
笑顔で挨拶を返すと、彼はバスルームへ消えてしまった。これまでは操の生活に気遣いを見せていたが、仕事の整理が着くと城野は頓着しなくなった。というより、夜型のリズムを自分と同じ昼型に変えようとしている節がある。操の健康を考えてのことであろうが、長年慣れ親しんだリズムは体に染みついて容易に変えられるものでなく、変更には時間が必要なのだ。
―――でも毎朝、こんなに早く起こされたんじゃ‥‥‥。
変わらざるを得ないだろう。苦笑いを浮かべながらダイニングへ入ると、彼女は朝食に取りかかる。献立は決まっていて、ご飯と味噌汁が必ず食卓に並ぶ。東京にいるときはほとんどがトーストとミルクで、味噌汁にご飯などは考えも及ばなかったが、ここ杉本町ではそれが当たり前のように受け入れられるところが可笑しかった。
―――夫婦か‥‥‥。
男女が一緒に暮らすというのは、こんなものかと思ったりもする。炊飯器が炊き上がりの合図を送るまで、ほのぼのとした気分に浸りながら操は朝刊に目を通す。まず社会面から読み始める。別に理由はないのだが、昔からの癖だった。
M新聞の社会面に大きな見出しで、〈医の責任〉と出ていて、サブタイトルは〈誤診で死んだ坊やにささげる〉となっていた。深刻な記事内容に見入っていると、城野がバスルームから出てきた。
「どうしたんだ。味噌汁が沸騰しているよ」
「あっ! 御免なさい。新聞記事に夢中になっていたもんだから」
慌ててガスを止めた。
「何か興味のある記事でも載っているのか」
「ええ、医療過誤を病院が認めて、しかも両親の求めに応じて反省文と経過を冊子にまとめたんですって。ほら、ここ」
操に言われて、城野も紙面をのぞき込んだ。
「ほう‥‥‥」
残念なことに、こんな病院は滅多になくて、大抵は隠すことに精力を注ぐのだが―――。恐らくここに至るまで、両親は想像を絶する辛苦を嘗めてきたはずだ。読み終えて城野は黙って箸を口に運んでいたが、
「ね、健さん。浪速帝大病院の医療ミスはどうなっているのかしら」
操の声で箸を動かす手を止めた。彼女もこの記事から、浪速帝大病院のミスが気になり出したのだ。
「かなり進んでいるよ。先日、前戸に聞いた話では、ほぼ核心に近いところまで来ているらしい」
「というと?」
「まずね、ガーゼ失念ミスの情報を整理すると現在のところ手元の情報は三人の人物に収束するんだ。小児外科のナースと小児外科医、それに彼と付き合っていたナースの三人に」
「最後のナースは小児外科のナースじゃないんでしょう?」
「そう、小児外科ではない」
「それじゃ、そのナースも小児外科医から聞いたと考えて、情報源として小児外科に確定していいんじゃないの」
「前戸も九分九厘の確率でそう考えている」
「あとの一厘というのは?」
「先程のナースはICU勤務の親友がいるんだよ。だからガーゼ失念ミスがICUで行なわれた可能性もないとはいえない。―――もっとも前戸に言わせると、その可能性はほとんど無視して良いらしいんだが」
「それじゃあ、矢張りガーゼ失念ミスは小児外科で行なわれたと考えていいのね」
「そう思って間違いないだろう」
「先程おっしゃってた、ほぼ核心に近いところまで来ているというのは?」
「小児外科で行なわれたと仮定するとね、執刀医は確定できているらしい。それに手術年もほぼ確定していると言っていたな。後は手術の行なわれた日か、遺族さえ確定すれば良いわけだ」
「でも遺族が確定できたとして、病院がそんなミスはなかった、言い掛かりだ、とシラを切ったらどうなるのかしら」
実際の医療ミスでは、そんな対応をする病院が大半で、操も取材過程で嫌というほど目にしてきたのだ。
「その点は十分考えられることだが、シラを切るのは病院にとって得策ではないし、シラを切り通せるものではないと思うよ。それに‥‥‥」
「それに?」
操が小首を傾げて城野の次の言葉を待っていると、
「うん。‥‥‥そうだな。この医療ミスは前戸が知った段階で、明らかになる運命だったように思えてならないんだ。そんな気がするんだよ」
城野は言葉を選んでいたが結局、理由にならない理由を述べて苦笑いを浮かべた。うまく言えないが、そんな気がしてならなかった。
「そうね」
操には城野の言わんとするところがよく分かっている。報道の仕事に携わっていた身には、真実発見のためには何が一番重要かは自ずから明らかなのだ。使命感に基づくこだわり。これが真実を隠蔽しようとする側にとって最大の恐怖なのだ。恐らく前戸達夫は、この事件に生涯、心の関わりを持つつもりなのだろう。
「朝刊の記事にも書いてあるように、子供の病状悪化に伴う不安と悲しみ、特に母親のそれを考えると堪らないわ」
「前戸もそれを言っていたよ。それからね、どうしても手術日か遺族を確定できないときは君の力を借りたいと言ってたな」
「私でお役に立てるのかしら」
「君のジャーナリストとしての力を借りたいんじゃなくて、別の意味の力なんだ」
「別の意味の力?」
「時間がくれば話すよ。それは最後の手段だから」
含みを残して、城野は笑いながら書斎へ消えてしまった。
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