奇水雑話(史談)

奇水

巌流島雑考 沼田家記を再考する。

 日本で、あるいはもしかしたら、世界でもっとも有名な剣豪として、二天一流の宮本武蔵という人物がいる。

 正式な名前は「新免武蔵守藤原玄信」しんめんむさしのかみふじわらのはるのぶ

 もっとも、「玄信」を「はるのぶ」と読むのは確定できないという人もいるので、これはあくまで仮である。

 宮本武蔵は有名であるが、それだけに毀誉褒貶激しい。江戸時代から激しかった。近代になってから、もっと激しくなった。より正しくは、褒める方は剣聖とかそのあたりで打ち止めであるけども、貶すのだけがより激しくなった、というべきだろうか。そして21世紀に至り、ネットで散々叩かれている。ちょっと見かける範囲でも、むちゃくちゃ言われている。

 曰く、二刀流などできるはずがない、卑怯な手段で勝ち続けた、剣豪というより兵法家、まともに就職できなかった……云々。

 これらが妥当であるか否かについては、ここではいちいち論じない。また後の機会とする。ただ、論じないけども、一つだけ取り上げるとするのなら、「卑怯な手段で勝ち続けた」である。

 ネットで宮本武蔵の卑怯者であるという証拠によく挙げられるのが巌流島の戦いで、これは武蔵がわざと遅刻して小次郎を怒らせた――というよく知られる話ではなく、老人の小次郎を武蔵が弟子と共になぶり殺しにした……というものだ。

 元々、武蔵が巌流島で弟子などと一緒に小次郎を多勢に無勢で殺したという話は江戸時代から『西遊雑記』に伝わっていた(※1)。

 伝わってはいたけれども、武蔵非名人説などを語る直木三十五にしたところで、これらはほとんど取り上げていないようだ。

 私の記憶だと、だいたい90年代になってから『沼田家記』を典拠としてよく取り上げられるようになったと思う。

 なんでそれまでの同様の話がほとんど注目されなかったのか、理由はよくわからないが、記述された時代がかなり下ったものだからではないかと思える。何せ雑記は武蔵の死後百四十年経過している。どれほどの伝説の変形があるのかは解ったものではない。

 ――と、なれば、武蔵の死後、早いほど信用できるというのが道理となる。

 そうなると、武蔵の死んだ三十年ほど後に書かれた『沼田家記』の記述が、それらより信頼性が高くなる……と思われたわけだ。

 実際、この巌流島の決闘の真相として語られるエピソードには、『沼田家記』のタイトルを出している者もいる。だが、その内容についてはどうも伝聞であるらしく、些か正確とは言い難い。

 それで具体的に、『沼田家記』にはなんと書かれているかであるが、引用すると


延元様門司に被成御座候時 或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越 二刀兵法の師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島(後に巌流島と云ふ)に出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候

小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候

其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候

此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候

 

 ……まあだいたい、世間で知られてる内容の通りといえばそうであるが、かなり見逃されがちなのが


双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候

小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候

其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候


 ……の部分である。

 この部分だけ訳すると、


「双方ともに弟子を一人も連れてこないと約束していた。

 そして試合をすると小次郎は撃ち殺された。

 小次郎の弟子は一人も来ていない。武蔵は弟子と共に着てて隠れていた。

 試合の跡に小次郎は息を吹き返したが、武蔵の弟子たちは撃ち殺してしまった」


 というように、『沼田家記』での武蔵は、一度小次郎に勝ち、その後で弟子たちが殺したことになっている。


 のだ。


 このあたりが、ネットで流布している話との決定的な違いである。

 武蔵が弟子と共に多勢に無勢でなぶり殺しにしたというのと、武蔵がまず決闘で勝って、弟子たちが殺したという話では印象がかなりかわる。

 小次郎が老人であったとかも書いてないが、それはまた話が長くなるので省く。

 このあたりだけを取り出して考えると、武蔵と弟子が共に小次郎をなぶり殺したというのは、後世における物語の変異であるように思える。

 さて、ではこの『沼田家記』に書かれている記述は他のそれよりも成立時期が早いということは、伝説の変異は比較的少ないと考えてよいかもしれないが――

 それが元々の話の信頼性を保証しているわけでもない。

 極論を言えば、発端がデタラメな与太話であれば、変異があろうとなかろうとも関係ない。現代であっても、真実よりも胡乱で面白い話の方が長く残り続けるというのはよく聞くところだ。成立年代の早さは、この『沼田家記』に書かれていることが真実なのかをなんら保証していない。もっとも、その真偽をしるすべがないのだから、成立時期を頼りに論じているという部分はあろうと思う。

 しかし、そもそもを言えば、巌流島の決闘についてもっとも早いのは『小倉碑文』ではないのか。

『小倉碑文』は武蔵の養子である宮本伊織が建てた、養父である武蔵を顕彰するために書かれたもので、この『小倉碑文』それ自体が武蔵の墓所に建てられた――いわば、武蔵の墓碑銘である。

 巌流島に書かれているテキストとしてもっとも早いものであり、巌流島の決闘について論じるのならばこの『小倉碑文』から検証するべきだろう。

 だが『小倉碑文』、武蔵について特に不利になることは書かれていない(※2)。当たり前ではある。顕彰するのに、不都合な話を書く人間はいない。『小倉碑文』は身内贔屓で間違いが多い、という評価を何度となく見た。そのあたりの意見の正否はさておいて、身内向けに書かれたものであるから真実は書かれてないのではないか、という批判は解らないでもない。むしろ妥当に思える。

 それでは『沼田家記』の方はというと、元々、細川家によって命じられて集められた各家の記録であり、準公文書に近いものとして扱ってよいものではないか、武蔵と沼田家は特に利害関係があったわけではないのだから信用していいのではないか、という意見に説得力がでてくるわけだ。

 しかし、そう簡単に信じていいものなのだろうか?

 成立時期の早さと、準公文書であるという理由で信じられてはいないだろうか?

 当時、考証史学という考え方がどれほどあったのかは別にしても、細川家の公文書――「細川家記」という名で知られる『綿考輯録』めんこうしゅうろくをよむと、剣豪の柳生但馬守宗矩が松山主水が宙に浮いてるのを見て戦いを避けたとか、到底信じ難い話が載っていたりする。

 どうにも私達が「公文書」でイメージするほど、厳密に考証がされているわけでもないようである。

『沼田家記』も先述の『小倉碑文』同様、身内贔屓で間違いが多いという可能性はある。もっといえば、各家に残された歴史書……書記は、自分の家の先祖の手柄を書き留めたものであって、その内容が妥当であるかというのは要検証事例なのだった。

 そういう前置きをしてから『沼田家記』を読むと、幾つかの不審点が出てくる。


 ・決闘の場所が「ひく嶋」である。

 ・死んでいるはずの無二が生きている(※3)。

 ・誰が書いたのかも、いつ起きた事件なのかも書かれていない。


 ……この内、新免無二の生存に関しては諸説あるので保留としても、「ひく嶋」とは何処だろうか?

 巌流島の名前が元は「舟島」であったというのはよく知られていたことであるが、実はこの島は別に「向島」とする事例もある(※4)。巌流島の決闘があった場所の地名は、実は一定していない、流動していたという可能性もあるが……この地域で「ひく嶋」として同定されるのは、まず「彦島」ではないかと考えられる。

 彦島は下関にある大きな島で、巌流島はこの彦島のすぐ傍にある小さな島のことであるというのが、一般的な解釈である。

 少なくとも、「彦島」が「巌流島」と呼ばれていたという話は聞かない。「ひく島」が「彦島」ではない可能性は残るけれども、それはやはり無理があるだろう。

 つまり『沼田家記』のこの記述を書いた者は、地理をよく知らなかったのだ。それはこの話が事件直後の記録ではなく、なんらかの形で伝わった話を元に、小倉から熊本に移動してから創作して書かれたことを示している。

 誰が書いたのか、いつ起きたのかも書いてないのは、創作ならば当たり前である。

 そして。

 不審点としては挙げなかったが、どうにも違和感がある部分はもう一つあって、些細なことかもしれないが、


 ・武蔵が勝ったのに、どうして弟子たちは小次郎を殺したのか。


 恨み骨髄に徹するほどに難い相手であったからかもしれない。だが、どうにも納得いきがたいところがある。

 先述したが、武蔵が小次郎にまず勝って、その後で弟子が殺したというこの展開は『沼田家記』について一番誤解されている部分である。この話のとおりだと武蔵は単独で小次郎に勝っていて、別に卑怯ではない。取り決めを破って弟子たちが渡ってきていたというのは確かに卑劣な行為ではあるが、その弟子たちも決闘に加勢していない以上、武蔵はそんなに卑怯卑劣と責められる謂れもなかろう。

 勿論、武蔵が勝ったというエピソードそのものが嘘で、実際は弟子と共に殺したという可能性はある。

 武蔵だって人間である。沼田家に頼る以上、自分がやった卑劣な真似を正直に語るはずもない。考え得る限り辻褄の合うような言い訳を作ることだってあるだろう。

 いずれこのあたりのことは、聞いてる方だってぴんとこないのだと思う。

 武蔵が一度勝ってから、弟子たちが殺したという話より、武蔵が弟子たちと一緒に殺した――という話の方がすっきりしているし、そう覚える方が武蔵が卑怯者であるという先入観にも整合していくわけであるし。

 そういうわけで、世間の人は『沼田家記』の内容をろくに検証もしないまま、さらに誤解したままに引用を繰り返し、「武蔵は弟子たちと共に老人の小次郎を殺した」という、書かれてもいない話がまことしやかに再生産されていくのが現状なのだった。


   ◆ ◆ ◆


 しかし、この武蔵がまず勝ってから弟子たちが殺すというやや迂遠なプロセスについては、『沼田家記』が沼田家の手柄を書いた本であるという点に絞って考えてみれば、別の解釈ができる。

 まず、この場合の沼田家の手柄になるのは「武蔵を庇い、護衛して木下家にまで送り届けた」という部分である。というか、肝心の沼田延元が絡むのはその辺りしかない。そして恐らくこの話を手柄話とするためには、武蔵は守るに足る人物である必要があった。

 弟子たちと共に決闘の約定をした相手を殺してしまうような卑怯者を庇うようでは、庇った沼田延元の格に関わる。先祖である延元が立派な人物であるからには、守られる武蔵もまた、それなりの人物であるのが望ましい。

 そのために、そうであることを証明するために、のだ。

 そのことによって武蔵は決闘の正統な勝者であるとして沼田家によって守護される資格を持ち、それは同時に強者であることの証明もされた。

 その強者である武蔵も、小次郎の弟子たちに狙われると立ち行かない。

 あるいは、小次郎の弟子たちに狙われる、武蔵が正統な勝者であるにも関わらず沼田を頼らざるを得ない――という理由のために、武蔵の弟子たちは小次郎を殺したのかも

 小次郎の弟子たちに狙わなければ、武蔵を守る理由が生じないからである。

 あとこれはもしかしたら無関係かもしれないのだけど、『沼田家記』がまとめられた寛文十二年頃の熊本では、新免弁助が活躍していた時期でもある。

 新免弁助は宮本武蔵の最後の直弟子の一人、寺尾求馬助の息子で、師である武蔵の遺言に従い、求馬助は技量優れたる息子に「新免」を再興させたという――

 この話自体の真偽はさておいて、新免弁助は相当の名人だったようである。

 正確な時期はわからないけど、この頃、武蔵の再来と言われた弁助の登場によって二天一流はかなり勢力を伸ばしたそうだ。

 、沼田家記のこの記述は、そのような二天一流の伸長が関わっているのかも

 今をときめく二天一流だって、その開祖も集団でかかられると逃げるしかなく、自分の先祖はその武蔵を庇い、護衛をした。決闘でどれほど強かろうと、所詮、個人の兵法者の武勇なんてたかが知れたものだ……

 という意図があって、伝承を元に書かれたのかも

 そう考えると、このエピソードにある武蔵勝利→弟子たちによる撲殺というプロセスは後付されたもので、元々は西遊雑記などと同様に、武蔵は弟子たちと一緒に小次郎を殺した話だったのかも

 それを手柄話として改変し、この形にしたのかも


 だとか、などばかりだけど、まあ、こういう解釈もできる……、くらいの話。


 この小次郎を弟子たちが殺したという話そのものが沼田家の創作ではないか、と考えたりもしたが、武蔵が弟子と共に巌流を殺したという記述は、『沼田家記』の百十年後に書かれてて、それが先述した『西遊雑記』である。

『西遊雑記』を改めて紹介すると、古川古松軒ふるかわこしょうけんという人物が九州を巡った紀行文で、下関で採取した話として『沼田家記』と同様に武蔵が弟子たちと共に船島へと渡り待ち受け、四人で小次郎を殺したという話が載っている。

 興味深いのは『西遊雑記』よりも七十年早い『本朝武芸小伝』にも、武蔵の弟子たちが島で待ち構えているという話があるが、こちらは武蔵が殺したというもので、話の結末は異なるものの、導入部で巌流が問答している箇所が『西遊雑記』とほぼ同じである(※5)

『西遊雑記』に最初されたこの話は、元々は下関に伝わっていたというから、『沼田家記』のこれと同一のソースであったと思われるが、時代にはかなり隔たりがある。

 あるいは、古川古松軒は熊本にまで来ているようなので、『沼田家記』の話を聞きかじって下関の話とした可能性もないでもない……しかしそうすると、『本朝武芸小伝』の方が何処から出てきたのかと言う問題が生じる。それとも順番が逆で、『本朝武芸小伝』の内容を元にして、下関に伝承が後世に形成された可能性も考えられるが、『沼田家記』との相似を考えると、武蔵が弟子と共に巌流島に行ったというのは、やはり下関に伝わる、古い物語だったのだろう。

 それでこの話が事実かどうかについては、火のないところに煙は立たないというが、世間の噂が火のない所に湧いて出ることもよくあることである。

 そういうのは、現代ではネットで無数にみられる。江戸時代だってそうだろう。拡散の仕方、速度が異なるだけで、過去でも同様に、出所もわからない、根拠も不明な噂や伝聞がまことしやかに流布して定着していったこともあったろうと考えられる。

 だからやはり、この話の真偽は不明である。

 いずれ『沼田家記』の記事を再考して解ることは、恐らくは小次郎を贔屓し、武蔵を悪者とする伝承が、どうも細川家が熊本に転封する以前の、武蔵の生前から下関周辺にあった――

 このくらいであろう。


   ◆ ◆ ◆


 細川家が小倉から熊本に転封されて後、小倉に移ってきたのは奇しくも宮本武蔵の養子、宮本伊織の仕える小笠原家である。

 武蔵もしばらくは小倉で生活していたようであるが、晩年は熊本で過ごした。

 その理由については、世間であるような細川忠利に招かれたという話はどうも俗説でしかないようであるが、ではどうして居着いたのかはよく解らない。

 かなりの高待遇での歓待を受けていたから、それで居心地が良かったという、その程度のことなのかもしれないが。

 存外と、巌流島の決闘の伝説のせいかもしれない。この決闘の詳細については別項で改めて論じるつもりであるが、ことの真偽はさておいて、すぐ近所に自分が弟子たちと共に小次郎を撲殺したなどという噂があったわけで……。

 小倉での生活は、さぞ武蔵にとっては居心地が悪かったろうなあ、などと思う。










(※1)「赤間が關にて土人の言傳へを聞しに、板本に記し有とは大ひに異なり、佐々木、武藏之助と約をなし、伊崎より小舟をかりて舟島へ渡らんとす。浦の者ども岩龍を止めていふには、「武藏之助は門人を數多引具して先達て舟島に渡れり。大勢に手なし〔諺・多勢に無勢ではかなわない〕といふ事あれば一人にては叶ふまじ、今日は御渡海無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言をはまず、かたく約せし事にして、今日渡らざるは士の耻辱なり。もし大勢にて我を討なば耻辱は彼に有りて我になし」といひて押て島に渡を、浦人の云しごとく、門人の士四人與力して終に岩龍討る。」

 西遊雑記から。後述の本朝武芸小伝との類似がある。

 

(※2)「爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。」

 小倉碑文の該当箇所の書き下し。原文は漢文。この書き下しには誤訳があるという指摘もあるが、ここでは触れない。


(※3)「作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武藏掾玄信後改氏宮本(後略)」

 泊神社に宮本伊織が残した棟札から。

 作州の顕氏に神免なる者があった。天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を継承したのを、武蔵掾玄信という。(武蔵は)後に宮本と改氏した…という記述で、これを受けると無二は天正年間には死亡していたことになる。


(※4)「於小倉之絶島[向島ト号、又曰舟嶋。今亦曰巌流嶋」

 武公伝より。向島、あるいは舟島とある。当時は異聞があったものらしい。


(※5)「君不知や。今日は巌流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり。此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」と云。巌流が曰、「吾其の巌流也」。渡守驚(き)さゝやひて曰、「君巌流たらば此船を他方につくべし。早く他州に去り給ふべし。君の術神のごとしといふ共、宮本が黨甚だ多し。決して命を保(つ)ことあたはじ」

 本朝武芸小伝より。武蔵没七十年ほど後に書かれたもので、西遊雑記よりも七十年早い。

 

以上、史料は播磨武蔵研究会より引用させていただいた。

http://musasi.siritai.net/

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