海が太陽のきらり

猫柳蝉丸

本編






――さよなら。



 そう、さよならだ。

 別れを切り出す代わりに交わしたキスの後で、陽子は僕にそう言った。

 海の中から空を見上げ、陽光の煌めきを感じる中で。

 まるで切り取られた詩篇の一部のような光景の中で。

 そうして、僕は、口を開いた。

 もう二度と会う事も無いだろう陽子に向けて。

 心の底からの別離こそを望んで、正反対の道を歩くのだろう陽子に向けて。

 僕も。

 さよなら、と。



     *



 今年も僕は両親に連れられて二人の田舎を訪れていた。

 勝手知ったる他人の家と言うべきだろうか。小学生の頃から毎年訪れているのだ。クラスメイトからは今時田舎に帰省してどうするんだと問われがちだけれど、存外に僕は両親が出会ったというこの田舎が嫌いではない。

 何しろ都会と言うほどではない僕の街とはかなり違う。

 里山がある。小さいながら海もある。内陸県育ちの僕にとって海があるのはとても大きい。雄大で寄せては返す波を砂浜で見ていると心が落ち着く。もしかしたら忙しない都会の喧騒に少し疲れてしまっているのかもしれない。いや、住んでいる街がやはりそれほど都会と言うわけでもないのだが、それでも。

 けれど、少し疲れてしまっているのは確かだった。

 特に夏はそうだ。プールも海も嫌いではないのに、人の波に呑まれるのはあんまり好きじゃない。楽しそうにはしゃぐクラスメイト達を見ているのもそれほど嬉しくない。クラスメイト達が悪いわけじゃない。僕が夏にはしゃぐ気分になれないだけだ。薄着のクラスメイト達を見ていたくないだけなんだ。

 そのせいだろう。僕は泳ぐのは好きながら、泳ぐ事自体は上手いと言えなかった。泳ぐ機会が減っている現代人とは言え、このままでいいはずもない。もしかしたら増水や難破で泳ぐ機会もあるかもしれない。だからこそ、この田舎の海岸は一人で泳ぎを練習するにはうってつけの場所だった。これまでの帰省で僕以外の姿を見た事も無い。傍から誰かに見られてからかわれたり笑われたりする事も無いだろう。

 そう、思っていたのだけれど、その日に限って僕は先客の姿を見つけてしまった。

 最初に目立ったのはよく焼けたきつね色の肌。

 次に気になったのはポニーテールに纏めている長い黒髪。

 そして、この田舎では過剰とも言える露出の白いビキニを着用している。

 この田舎では一度も見た事が無い、恐らくは僕と同い年くらいの女の子。

 素朴な雰囲気の海の中、陽光に照らされて、飛沫を上げてはしゃいでいる女の子。

 誰だろう――、僕がそう思ったのと同時くらいに、彼女は僕を見つけて笑顔を向けた。

「見ない子だね! 里帰りかな?」

 よく透き通った声に、僕は戸惑いがちに頷いた。

 それが僕と陽子の出会い。

 僕と陽子が二人で過ごす最初で最後の夏。

 きっと、生涯忘れる事は出来ない夏の始まりだった。



     *



「違うって、海斗。そこはこうやって大きく腕を振るんだよ」

「こう……かな?」

「うん、そうそう。何だ、やれば出来るんじゃん」

「言っただろ? 泳ぐ事自体は嫌いじゃないんだって」

「言うねえ、さっすが男の子」

「別に男も女も関係無いよ」

「そっかなあ」

 帰省した田舎の海で出会った女の子は陽子と名乗った。

 去年の秋、年老いた母方の祖母の面倒を見る為に両親と引っ越して来たらしい。

 道理で今まで見掛けた記憶が無かったはずだ、と僕が言うと陽子は眩しく笑った。

 こんな美少女を一度見たら忘れるわけないでしょ、というのが陽子の言い分だった。

 僕はそれについて肯定も否定もしなかった。確かに陽子は僕のクラスで人気の女子と比較しても申し分無いほどの美少女ではあったけれど、それと覚えているかどうかは別問題だと思ったからだ。少なくとも僕は美少女にそれほど興味は無いし。

 ともあれ、そうして陽子と挨拶を交わした僕は、何の因果か陽子から泳ぎを習う事になった。海パンで砂浜を訪れておいて泳がないのは不自然だと思って陽子から離れて泳いでいると、下手糞な泳ぎ方だね、と妙に近くに現れた陽子に笑われたのだ。分かってるよ、と僕が仏頂面で応じると、陽子は僕の頭を撫でながら泳ぎのレッスンを申し出てくれたのだ。どうやら陽子は初対面の相手にも距離感が近い女の子みたいだった。別に珍しい話じゃなかった。背が低くて童顔な方の僕は、同い年の女子から弟みたいに扱われてる節もあったから。まったく、困ったものだと思う。

 それでも、陽子の申し出は嬉しかった。少なくとも一人で練習するよりは上達も速くなるだろう。見る限り陽子の泳ぎは達者なようだし、陽子も一人で暇しているみたいだったし、お互いにとって得がある事には間違いない。

 実際、陽子の教え方は上手かった。泳ぐ事自体が嫌いじゃなかった事もあって、僕の泳ぎは三日で加速度的に上達した。毎日焼ける僕の肌に父さん達も笑っていた。これなら乗っている船が難破しても多少は生き残れそうだ。

「そう言えば、海斗はいつ帰るんだっけ?」

 練習が一段落した時、陽子が不意に遠い目をして呟いた。

「一週間の滞在予定だから四日後だね」

 少し寂しさを感じながら僕は応じる。

 四日だ。あと四日で僕はこの田舎から去って、現実に回帰しなければならない。

「海斗はさ」

「うん」

「あっちの街では友達とか居るの?」

「失礼だな。居るよ、友達くらい」

「あっ、悪く思わないでよ。今時一週間も帰省するなんて珍しいなって思っただけ」

「そう……かな? 僕は別にこの田舎が嫌いじゃないよ。気分転換にもなるしさ」

「そっか……」

 陽子の表情は珍しく沈んでいる――ように見えた。

 訊くべきではない事だったのかもしれない。それでも僕は陽子に訊いていた。あと四日しか滞在しないのだ。躊躇している内に僕らの時間が消えていくと感じていたからだ。

「陽子は、この町が好きじゃないの?」

「訊きにくそうな事を平然と訊くね、海斗は」

「それが僕の美点だよ。それで?」

「別に嫌いじゃないよ。山は綺麗だし、海も澄んでるし、下手な都会に住むよりはずっといいと思う。お婆ちゃんの面倒を見るのだって嫌じゃない。知らなかった? あたしってお婆ちゃん子なんだよ?」

「知らなかったな、残念ながら」

「これからは覚えといてね。とにかくそういうわけであたしはこの町が嫌いじゃないわけ」

「それは何よりだよ」

「でも、ね」

 陽子は太陽を見つめて目を細める。

 陽に照らされた陽子はその名の通り太陽の子供のようだった。

「このままでいいのかなって思わなくもないわけ。こんな若さ弾けるフレッシュな陽子ちゃんが自然いっぱいの田舎に閉じこもってるわけよ? 勿体無くない? 都会に出れば大注目だと思わない?」

「コメントは控えるよ」

「つれないなあ。まあ、いいけどね」

「都会――いや、僕の街も都会ってほどじゃないけど――都会もそんなにいいわけじゃないよ。絶えず忙しないし疲れるし人の目も気になっちゃうしね。たまにはこんな田舎で気分転換もしたくなるよ。息苦しさが逃げたくなるんだよ、たまにはね」

「そうかな? あたしは都会でナウなヤングをエンジョイしたいけどな」

「無い物ねだり、だね、お互いにさ」

「そうなんだろうとは思うけどね……」

 分かってる。無い物ねだりだって分かってる。

 僕は分かってる。陽子もきっと分かってる。分かっててやるせないだけなんだ。

 どうにもならない事から目を背けたいだけなんだ。

 僕の二の腕に意外にも豊満な胸を押し付けながら、陽子が悪戯っぽく微笑んだ。

「人の目、気になるんだ、海斗も」

「意外だったかな?」

「海斗ってば飄々としてるし、人の目なんて気にしないタイプかと思ってた」

「気になるよ、そりゃね」

「例えば、どんな時?」

「そうだな……、高校二年生って多感な時期に恋人の一人も居ないと周囲の視線が痛いかな。周りではカップルばかりだし、クラスメイトのそういう話を聞いてると耳まで痛くなるよ」

「海斗もそういう事考えるんだ」

「考えるよ。極普通の高校二年生だからさ」

「そうだね、あたしも考えるよ。高校二年生なんだし、彼氏の一人や二人欲しいなって」

「彼氏が二人も欲しいのか、陽子は」

「言葉の綾だよ。ねえ、海斗。海斗は好きな子って居るの?」

 一瞬、どう応じるべきか迷った。だけど、僕は正直に応える事にした。

 僕達に残された時間はもうあまりにも少ない。

「居るよ。同じクラスでね、ずっと気になってる相手が居るんだ」

「そうなんだ……。告白は、しないの?」

「告白しても、振られるんじゃないかな、きっと。僕はそこまで楽天家じゃないよ」

「告白してみたら、意外と上手くいくかもよ?」

「そうかもしれない。そうかもしれないけど……、失敗した時の事を考えるとね」

「そうだね……、失敗した時の事を考えると、怖いよね……」

「陽子の方だって誰か好きな相手は居ないの?」

「居る……と思ってたんだけど、何だか分かんなくなってきちゃったんだよね。その相手の事、好きなのか、そうじゃないのか、分かんなくなってきちゃった。あっ、嫌いになったわけじゃないんだよ? 好きなのか分かんなくなっちゃっただけで……」

「そうなんだ……」

「うん、そうなんだよ……」

 それ以上、僕達は何も言わなかった。

 日が傾くまで、沈んでいくまで、海の中でお互いの体温を感じ続けた。

 それだけだった。



     *





――今日はいい所に連れて行ってあげる。



 自宅に戻る前日の真昼。

 珍しく水着姿じゃない陽子に連れられて、僕は海岸沿いの里山の中を歩いていた。

 少し化粧をして綺麗に着飾った陽子の姿は新鮮だったけれど、それを指摘したりはしなかった。ただ陽子が連れて行ってくれるらしい場所の事が気になって、余計な言葉は何もかも無駄に思えた。里山の木々の間は想像以上に涼しさを僕に感じさせた。

 歩いて歩いて――、海岸から十五分ほど歩いただろうか。

 その場所は唐突に僕達の眼前に現れた。

 里山の端の開けた空間。木々に包まれて海が広がっている。陽光の角度の関係だろうか、水面が乱反射で眩しく輝いている。海の色はオーシャングリーンとも呼べるような鮮やかさで、こんな海がこの田舎に広がっているだなんてすぐには信じられなかった。

「凄いね、これは」

 僕は正直に呟いた。そうするほどの価値がこの海にはあった。

「よかった。海斗、この場所知らなかったんだね。毎年帰省してるって言ってたから、知ってるかもしれないってちょっと不安だったんだよね」

「知らないよ。子供の足じゃこんな遠出はしないし、いつも一人で来てたしさ」

「何となく勝ったって気分でちょっと嬉しい」

「確かにこれは負けたよ。もっと早くこの場所を知りたかったな。そうすれば帰省をもっと楽しめてたのに」

「この陽子ちゃんにもっと感謝するように」

「ありがとうございます、陽子さん。これでいい?」

「よろしい」

 そう言うと、陽子は海面に視線を下ろして光の乱反射に目を細めた。

 目を傷めるからやめた方がいいと一瞬思ったけど、止めはしなかった。

 陽子はきっとこの場所でこの光景を見たかったのだろうから。

 長くも短くも感じる沈黙の後、陽子が妙に明るい声を上げた。

「ここはね、この町に引っ越してきてすぐに、暇で暇でひたすら散歩してた時に見つけた秘密の場所なんだよ」

「そうなんだ?」

「そうなの。この場所はクラスメイトにもお父さん達にも話してない秘密の場所。ここに案内したのは、海斗が初めてなんだよ?」

「光栄だよ。こんな場所があるなんて本当に知らなかったしさ」

「それはよかった」

 また沈黙。

 悪くない気分だった。二人の秘密が出来た事に喜びも感じていた。

 だけど、喜びを感じているばかりでもいられなかった。僕と陽子が一緒に過ごせる時間は刻一刻と短くなっているのだから。

「ねえ陽子」

「どうしたの海斗?」

「どうして今日は僕をこの秘密の場所まで連れて来てくれたの?」

「誰か……、誰かにこの場所を知っておいてほしかったから、かな? それに……」

 その言葉の後、僕は不意に背中を押された。

 陽子に押されたのだと気付いたのは、緑色の海の中に全身が沈んでからの事だった。

 急に何をするんだよ、陽子は……。

 軽く疑問に思いながらも陽子に教えられた泳ぎで海面に上がっていく。

 瞬間、僕は見た。感じた。

 煌めき。

 光。

 陽光。

 乱反射。

 鮮やかな海面。

 単なるそれらの現象が僕の胸に何かを深く刻んで――

 僕はそれらを、煌めきを、きらりと光る何かをずっと見ていたかった。

 ずっとこのままで居たかった。

 気が付けば隣に陽子も飛び込んでいた。

 せっかくの化粧も着飾った服も犠牲にして、僕の隣に飛び込んでいた。

 目と目が合う。

 視線が交錯する。

 思った。

 僕は陽子の事が好きだ。陽子もきっと僕の事が好きだ。

 それで陽子はこの秘密の場所まで僕を連れて来てくれたんだ。

 愛しさが胸から溢れ出しそうになる。温かな涙が溢れ出すのを感じる。

 どちらからともなく僕と陽子は唇を重ねていた。

 軽く触れるだけの一瞬のキス。

 それで十分だった。それで終わらせるべきだった。

 分かっていた、これが僕と陽子の最初で最後のキスなのだと。

 だから、一瞬のキスで十分だったのだ。

 それから僕達は息が続くまで海面を見つめて、海と太陽と煌めきと二人を感じていた。



     *



 足が届く場所まで泳いでから、独白するみたいに陽子が呟き始めた。

「あたしね、ずっとこの田舎から出たかったんだ」

「分かってたよ」

「勿論、この田舎が嫌いなわけじゃないよ。ただ田舎で燻ってていいのかなって不安はあったんだ。お父さん達もあたしが望むんなら何処かの街の高校で寮生活をしてもいいって言ってくれてたしさ。高校二年生なんだもんね、未来に対して不安が無いわけないよね」

「うん、僕だって不安だ」

「でもね、踏ん切りも付かなかった。いきなりまた転校するなんてそんな度胸もなかったのよ。それでね、願掛けをしたんだ。もし白馬の王子様があたしの前に現れたらこの田舎から出ようってさ」

「ひょっとして、それって僕の事?」

「そうだよ。毎年、近所に帰省してくる年頃の男の子が居るって話はお婆ちゃんから聞いてたからさ、その男の子をあの砂浜で待つ事にしたの。慣れないビキニなんて着てさ、面倒見のいい女の子って感じも出してさ」

「なるほどね、だからか」

「だから、って?」

「こんな田舎で泳ぐには露出の多いビキニだって思ってたんだよ。初心な男の子を誘惑するつもりだったんだな、陽子は」

「そうだよ、分かってんじゃん。海斗の言う通り、あたしは都会から来た白馬の王子様を誘惑するつもりだったの、それこそセイレーンみたいにさ。それがどんな王子様だって別に構わなかった。その王子様があたしを好きになってくれて、あたしもその王子様を好きになって、この田舎から出る言い訳に出来ればあたしはそれでよかったのよ。でも、海斗ってばその誘惑に全然乗ってくれないんだもん」

「……ごめん」

「本当よ。こんな露出も多くてボディタッチも多い美少女の誘惑に乗らない男の子が来るなんて思ってなかった。海斗に会って以来、毎晩結構傷付いてたのよ?」

 そう言いながらも陽子は微笑んでいた。だから僕も微笑んだ。

 最後の時くらい、二人で微笑んでいたかったから。

 微笑んだままの陽子が僕の肩を叩いて明るい声を出した。

「結果的によかったのかもしれない。海斗があたしの誘惑に乗ってくれないおかげで、誰かに頼ってちゃ駄目なんだって気付けたんだもん。この田舎から出たいなら、海斗を言い訳にしないで自分の意志で出なきゃ意味が無いんだよね。海斗を言い訳にして都会に行ったって、結局は海斗を言い訳にして田舎に帰っちゃいそうだもん」

「陽子は、都会に行くの?」

「そう……だね。そうしたいと思うな。都会に幻想を持つのなんて間違いだって分かってる。行っても傷付くだけかもしれない。でも、自分の目で都会を見たいし自分の意志で都会を経験したいんだよね。それで傷付くならしょうがない事なんだって思えたから。そう思えたのは、海斗のおかげだよ?」

「僕は、そんな……。僕は、ただ……」

 そんな大層なものじゃない。僕は陽子の事が好きだったけれど、陽子とはそういう関係になれなかっただけなんだ。陽子に対する想いが恋愛じゃなかっただけなんだ。それを口にしようとすると、陽子が僕の唇に人差し指を当てた。それ以上言わなくても分かっているという様子だった。

 流石に分かってしまっているのだろう。僕がどういう人間だったのかを。

 一週間近くずっと一緒に居たんだから。

「あたしは都会に行く。すぐには無理だけど来年には行きたいと思ってる。海斗は……、海斗はどうするの? どうしたいの?」

「僕は……」

「好きな相手、居るんでしょ?」

「振られるかもしれない。いや、もっと酷い事になるかもしれない……」

「そうだね……。でも、このままじゃ駄目だとも思ってるんでしょ?」

「うん……、そうなんだ……、そうなんだよ……」

「告白しろって言ってるわけじゃないよ。あたしだって都会に行くのが正しいのか分からない。田舎に閉じこもっている方が幸せなのかもしれない。だからせめて告白するか諦めるかだけでも決めるべきだと思うんだよね。それが海斗に失恋したあたしの為にもなるって思えない?」

「相変わらず勝手だなあ、陽子は……」

「でも、そんなあたしの事、嫌いじゃなかったでしょ?」

「そうだね……」

 嫌いじゃない。陽子の事は嫌いじゃない。振り回されたけど、こんなにも大好きだ。

 もし恋愛対象だと思えたのならば、きっと幸せな恋人同士になれた事だろう。

 だから、僕は言った。出来る限りの笑顔で。最後の笑顔で。

「すぐには無理かもしれない。でも、考えてみるよ、陽子。逃げてないで本気で考えてみる。答えを、出したいと思う。今はその答えが精一杯だけど、許してくれるかな?」

「……当たり前じゃない!」

 陽子が僕の手を握って朗らかな笑顔を浮かべた。

 とても魅力的な笑顔だった。

 ひょっとしたらそれこそ何も飾っていない陽子の本当の笑顔かもしれなかった。

 陽子の笑顔をずっと見ていたい気持ちはあった。居心地の良い空間に浸っていたかった。

 けれど、いつまでもそうしているわけにもいかなかった。

 僕達が僕達として前に進むためには、別々の道を歩むべきだって事は分かっていた。

 分かっていたから……、名残惜しさを感じながらも僕は踵を返して足を進めた。

 陽子もそんな僕を追ったりはしなかった。

 二人で秘密の場所の煌めきを感じながら、別れの瞬間に想いを馳せていた。

「さよなら、海斗」

「さよなら、陽子」

 そうして僕達はまるで夢の中に居るみたいな一週間を終えたのだ。



     *



 陽子との夏から一年。

 僕は両親に連れられてではなく、自分がアルバイトして貯めたお金で陽子との秘密の場所を訪れていた。陽子がそうしようとしたように、僕も自分の意志で思い出の田舎に帰省したかったからだ。

 当然と言うべきか、陽子は秘密の場所には居なかった。

 それでよかった。

 陽子はきっと都会で苦しくて眩しい毎日を送っているのだろう。

 それが分かるのは僕の方も苦しくて眩しい毎日を送っていたからだ。

 あの日、陽子と別れてから僕は悩み続けた。自分の想いに踏ん切りを付けるべきか否かを、ずっとずっと悩んでいた。情けない事だけれど、いっそ逃げ出してしまおうかと思った事だって一度や二度じゃない。

 それでも、不意に思い出す陽子の姿が僕を奮い立たせてくれた。

 陽子は誰かに頼るのをやめて、自分の足と意志で動き出す事を決めたのだ。

 それを考えると僕の方だって負けていられなかった。恋人にはなれなかったけれど、陽子は僕にとって掛け替えのない大好きな相手なのだ。負けられない。逃げ出してしまう事は陽子を否定してしまう事のような気がして、出来なかった。奮起させられた。

 だから、僕は逃げ出さずに、またここに辿り着けたのだと思う。僕はもう逃げない。夏から、プールや海に行って感じてしまう疎外感から。見てはいけないと感じながらも見てしまって、その度に陥っていた自己嫌悪から。

 不意に、海の中に沈んで海面を見上げてみる。

 煌めき。

 光。

 乱反射。

 あの日と変わらない感動に胸が打たれる。

 そして思い出す――

 僕と陽子の過ごした去年の一週間の事を――

「陽子……」

 気が付けば口に出してしまっていた。

 そして、感じる。僕は生涯陽子の事を思い出し続けるだろうと。

 この秘密の場所の煌めきを感じる度に、何度だって。

「何だよ、浮気か? 誰だよ、陽子って」

 語調だけ厳しく、表情は笑顔で卓也が僕に訊ねる。

 僕の大好きな卓也。僕の想いを受け止めてくれた卓也。

 卓也にだけは、この秘密の場所を案内したかった。勇気を持てた場所を見せたかった。

 そして、伝えたかったのだ。僕が卓也に告白出来た本当の理由を。

 何から話そう。

 僕の大好きな陽子と過ごしたあの不思議な一週間の何から。

 そうだ、まずは……。

「ねえ卓也、長くなると思うけど僕の話を聞いてくれる? 陽子はさ、僕の――」





 そうして、僕は伝えていく。

 海と太陽の煌めきの中で、大好きな卓也に大好きな陽子の事を。

 卓也と二人で満面の笑顔を浮かべながら――

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海が太陽のきらり 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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