人形のオハナシ
***人形の話***
階段を上る。
息も絶え絶えに見上げてなお、グレーチングの踏み板が続く。ひと階ごと折り返しに、永遠とという言い間違いがむしろ正しく思えるほど。
見下ろしても同じ。どれだけ上ったか、ここが何階か、見当もつかない。分かるのは「逃げなきゃ」とだけ。
何から?
下層から、階段を上って来る誰かから。
金属の踏み板は、触れただけでもというくらい敏感に足音を響かす。
音を立てれば見つかってしまう。私がここに居ると知られてしまう。しかし逃げるのには、足音も息の乱れるのもどうしようもない。
階段は建物の外縁に張りついた格好。車の走るところも駐める場所も、全てがグレーチングで作られた自走式の立体駐車場。
数えきれないほどの駐車枠に、一台たりと車はないけれど。
夜だろうか。眩しいくらいに行き届く蛍光灯の明かりは、この建物の中だけ。一歩でも外となれば、墨で塗り潰したみたいに真っ黒だ。
建物のグレー。蛍光灯の白。屋外の黒。見える物を色で分ければ、ほぼその三つ。
ただ一つの例外は、赤い光。
遥か下方、外向きに強く光って弱まり、完全に見えなくなってまたすぐ見える。するとまた強く光って、の繰り返し。
私が見下ろしている間。暢気に足を止めている時も、確実に階段を進む。
——追いつかれる。
どう考えても間違いないのだけど、ムダに足掻いてようやく悟る。それで仕方なく、どこかへ身を潜めようと思う。
けれどガランとした景色の中、人ひとりが隠れられるような場所なんて見当たらない。
——どこか。何か。私の姿を隠してくれるのは。
足下の隙間から、距離を縮めた赤い光。懐中電灯を持つみたいに、行く先を照らしながらも少し揺れる。
——誰? なぜ追ってくるの?
サラダ油をかぶったようなヌルヌルの汗が、拭っても拭っても滴って気持ち悪い。
ふらふらさまよううち、駐車場の真ん中辺りで一つ上の階へ行くスロープを見つけた。
やはりグレーチングだけど、その陰は見通せなかった。
息を殺し、震えた膝を抱える。
スロープに遮られ、こちらからも階段が見えない。ほっとする反面、背中の側には遮る物がないことに肝を冷やす。
大丈夫。回って来ても、赤い光で先に私が気づけるはず。
——来た。
同じ階に赤い光が。通り過ぎて上ってくれればいいのに、階段はやめたらしい。
暗がりで捜しものをする時、誰もがやるように。光が左右にゆっくりと振れた。
スロープ越しにぼやけながらも、光源は二つとはっきり分かった。私の目線と同じ高さ。
右へ行こうと左へ行こうと、ぐるり一周されれば見つかる。合わせて逃げようにも、動けば足音が立つ。
今さら気づいても、もう祈るしかない。
目を瞑って何も見えなくすれば、私も見つからない。そんな妄想がバカげているとも気づけなくなって、まぶたを閉じる。
しかし暗闇の中、得体の知れない何かに呑み込まれそうで堪えられない。
二度、三度。繰り返すと、赤い光を見失う。
上下左右、あらゆる方向をくまなく見回しても、どこにもない。
諦めて、どこかへ行ったのか。
そんなわけないと怖れながら、そうであってと願う。
ふうっ。
首すじに風が通る。背中の側から、息を吹きかけられるみたいな。
びくっと立ち上がり、全力で振り返る。いやそのつもりなのに、腰の歯車が錆びついたのか、オルゴールくらいの速度で景色が回る。
やがて、目があった。
在ったと同時に、合ったでもある。奥に暗い炎を燃した、赤い眼。
着物も赤い。金糸入りの、綺羅びやかな。覗く肌は塗ったように白く、陶器めいてつるつるとした。
人形だ。
ぱっつんの前髪。ほんの少し、微笑みに緩んだ口もと。背丈は私の膝より少し高いだろうか。
なのにどうして、正面から視線がぶつかるのだろう。足には真白な足袋。何の支えもなく、宙に揺れている。
赤ちゃんよりも華奢な、硬そうな手が伸びる。動けなくなった私の頬へ。
お箸の先で突かれればこんなか。という感触があった途端、視界が真っ赤に染まった。
どれくらいの時間が経ったか。あるいは一瞬だったかも。今度はどこかの——違う、私が小学生の時に住んでいた住宅地に立っていた。
人も車もない、無人の街。
でも分かる、逃げなければ。
助けて、と知った家の戸を叩き、庭木や物置きに隠れて。
赤い眼の人形は、決して諦めない。居場所を知っているとしか思えないほど正確にやって来るくせに、間近まで来ると首を回して私を探す。
ずっとずっと、朝日の昇るまで。
***夢のあと***
という夢を見ていた。目覚めた私は夢の中さながらに脂汗まみれで、窓からは朝の気配がする。
たぶん小学校に上がってすぐの頃から、この夢を見始めた。そして毎年の七月、同じ夢を見る。
日付けはまちまちで決まっていないが、必ず七月だ。そっくりそのまま同じ夢を、一年に一度だけ。
成人して何年か後まで、これは続いた。だけどある年、今年は見ていないと気づいた。
なぜかそれから、ぱったりと見なくなった。
結局あの人形が何か。
たとえばそういう映画でも見て覚えていた、とかいう理由にも心当たりがない。そも私はかなりのビビりで、ホラー系の創作(映画もアニメも漫画も小説も)をほとんど見たことがないのだ。
オチがないけれども、現実とはまあこんなものだろう。
***祖母の家の離れ***
というのが、これまた少し前までの私自身の認識だった。
しかし何年前とは伏せるけれど、いわくのようなものを感じることがあった。
ある年、祖母が亡くなった。
親戚じゅうで最年少の私を、まあまあ甘やかしてくれた祖母だ。だから私も好きだったが、亡くなれば祖母の家へ行くことはなくなった。
ちなみに祖父が亡くなったのはずっと前で、私は会った記憶がない。
で。
しばらくして、遺品分けのようなものがあった。とはいえ大した物はないとみんな知っている。価値があるとすれば思い出の領分だけで、そういう物を捜しに祖母の家へ親戚が集まったそうだ。
私はと言えば、どうも浅ましい気がして行かなかった。
それでも母の持ち帰った物を見せてもらうと、百科事典のセットとか、およそ本の類。いとこの中であぶれていた私からすれば幼い頃の愛読書だ、懐かしくはある。
それらと別に、古い手鏡とか櫛とかが紙袋に纏められていた。微妙に古いだけの百科事典より、多少は価値があるのかもしれない。
そういう物を母が持ち帰ったことに驚いて問うと、来れなかった最年長の伯母の取り分と聞いた。二番目の伯母が預けたのだそうだ。
内心、ホッとした。
祖母の家は母屋と別に、倉庫を兼ねた離れがある。伯父の使っていた部屋もあって、私はそこが苦手だった。
詳しくないので種類は確としないが、市松人形っぽいおかっぱの人形があるからだ。
私は小学校の低学年だったと思う。帰省した時にはそこで寝泊まりする伯父を、なんだったか用があって呼びに行った。
まったくもって明るい時間。伯父は直置きのマットレスで昼寝していた。
「おじちゃん」
部屋に入ると伯父の足が近い位置にあって、軽く脛を叩いた。が、起きない。
では、と揺するにはかなりの力が必要だった。小柄だがとても筋肉質な人だったからかもしれない。
しかしダメで、枕のあるほうへ回った。伯父の左手側から、もう一度呼ぶ。耳へ近づいて、結構な声で。
「おじちゃん!」
反応がない。ピクリとも。
まさか死んでる? 母が好んで見るサスペンス系のドラマや映画が脳裏を過った。
——どうしょう。どうしょう。
さあっと背すじが寒くなり、身動きできなくなった。逃げ出したいのと、放っておけないのと、頭の中がショートした心地がした。
カタッ。
ド田舎の離れ。母屋から最も遠い一室が静まり返る中、はっきりと物音が聞こえた。ガラス格子の、固定されていないガラスに触れた時みたいな硬質の。
後ろからだ。緊張で攣りそうな首を撫で、振り向く。そこにはガラス窓があるけれど、しっかりしたサッシに嵌まり、物音の気配はない。
他に候補を探し、視界を動かす。
と、下だ。黒く細い枠に囲われた市松人形がある。前に倒れ、枠に嵌まったガラスへのしかかる格好をしていた。
——私が倒した?
そんなはずがない。人形の存在には気づいてなかったが、間違いなく何にもぶつからなかった。
ではなぜこんな格好を。
考えようともしないのに、おぞましい想像が巡る。
限界だった。誰かを呼ぼうと決め、部屋の出入り口へ向かう。
「んお、どした?」
あと一歩。部屋を出る間際、伯父の声がした。振り返ると、ほとんど姿勢を変えずに首をこちらへ向けている。
目をこする動作や声が、とても怠そうだ。
「あ、あ、あのね」
生きていたなら良かった。用件を伝え、とっとと逃げ出したい。吹き飛びかけた内容を想い出すうち、また余計なことに気づく。
市松人形は、ちょうど伯父の寝顔を見下ろす位置だ。そう思うと倒れかけたのも、小さな子が窓にへばりつくように見えてくる。
リアルに前へ振れた前髪。黒い着物。金糸で縫い取られた、大ぶりの花の模様。
目を瞑り、私は逃げた。それでも短く用件を叫んだはずだが、伯父に聞き取れたか怪しい。
そしてまた変なのが、伯父が何とも言わなかったこと。その場だけでなく、夕食の席とか翌日になっても。
以来、伯父の部屋へ絶対に入らなかった。壁を隔てた隣が子供たちの遊び部屋だったのだけど、そこにも一人で居ることはしない。
だからあの黒い市松人形が、まだあるのか知らなかった。
伯父は旅行好きで、自分のお土産は自宅へ置かずに祖母の家へ持ち帰っていた。市松人形もそれであったのだろうし、また増えたかもしれない。
***遺品分け***
脱線が長くなったけれども、遺品分けの話に戻る。
最年長の伯母は、そういえば体調が良くないと聞いた。その取り分を、親戚の中では家の近い母が預かるのは理解できた。
「人形は伯母さんが持って帰ったん?」
二番目の伯母とその旦那さんは骨董めいた物が好きと聞いている。となると市松人形も、そこへ行くのが順当だろう。
しかし母の答えは予想に反した。
「人形って、どの?」
「伯父さんの部屋になかった? 市松人形みたいな、おかっぱの日本人形。古いけえ、ボロボロになっとるかもしれんけど」
伯父は既に病死していた。ただそれ以前から祖母の家から足を遠退かせ、伯父の部屋も放ったらかしだったらしい。
ろくな対策もせずに窓際へ置いた人形など、朽ちていてもおかしくない。
「市松? そんなん、兄ちゃんの部屋にあったかいねえ」
「ないん? 小さい頃に見たけど」
「うちは知らんし、今回も見かけんかったよ」
では生前の伯父がどこかへ持っていったか、二番目の伯母が価値なしと見て放置したかだ。後者なら、ゆくゆく他の不用品と運命を共にする。
納得して、この話も終わり。
なら良かったが、終わらなかった。伯母のところへ運ぶから付き合えと言われた。
正直、乗り気とは言えない。でも方向オンチの母を一人で行かせるわけにもいかず、ややマシな方向オンチの私も行かざるを得なかった。
数日後、車で二時間くらい離れたKという町へ向かう。古い住宅地の中、同じところをぐるぐる回りつつ、どうにか辿り着く。
ナビ役の母も、最後に訪れたのが三、四年生の私も、正確な地理を覚えていないし知らなかった。
何千何百何十何番地、という住所の振られた土地ではカーナビも役に立たない。
ともかく、疲れて呼び鈴を押した。夏日と言っていい陽射しの中、額に汗をかきながら。
白かったはずのモルタルに、黒い雨ジミの目立つ古い一戸建てだ。インターホンなんて物もなく、伯母の踏む廊下の軋みで在宅が知れる。
ゆっくりと、家の奥から足音が近づく。アルミの格子戸に嵌まった模様入りのガラスに、なんとなく伯母と分かる陰が映る。
バチンッと心臓に悪い音で錠が開き、戸が開く。
「ひっ」
その時だ、私の喉から勝手に悲鳴が漏れたのは。
怪訝に、母が振り返る。
「どしたん?」
問われて、喉に引っかかったとかなんとか適当にごまかした。
本当は、なんだか寒かったのだ。
なぜ、どうしてかは分からないが。陽は強いまま、顔の辺りは火照るほどなのに。お腹の底へ、ドライアイスを捩じ込まれたみたいに。
「まあ雪ちゃん、久しぶりじゃねえ」
伯母が愛想よく、私を迎えてくれる。寒気は和らいでいたが、距離感を見失った親戚に別の寒さを感じた。「ど、どうもです」などと曖昧に頭を下げ、さっさと玄関を入った母に続く。
——なんだろう。
冷たい風。止めどなく、外へ吹き抜ける感覚。しかし髪も服も靡かない。
一つ白状すると、母の兄や姉にいい印象を持っていなかった。距離感以前の問題だ。
寒気などはそのせいかと思ったが、さすがにおかしい。でも原因を考えるより、早く帰るほうが得策。
しかし無情に、母はいそいそと靴を脱いで框を上がった。
なんだか気分が悪いから車で待っています、とは言えない私。
もはや歯を食いしばり、無理やりに身体を動かすような有り様。伯母と母に続いて、二畳分の廊下を進む。
と。冷たい風がいつの間にか、後ろから吹くことに気づいた。
振り返る。
古い建て売りにしては広めの玄関。小さなマットが敷いてあって、靴箱があって、数本の刺さった傘立ても。
特に変わった物は——
「ひっ」
ここまで、なぜ気づかなかったのか。玄関を入った正面、やや右手にガラスケースがある。専用の台に載せられ、私からは背面が見えた。
豪奢なドレスを着た、たぶんフランス人形の背中。
思い出した。小学校に上がったかどうかの頃、この家に一度だけ泊まったことがある。
あちこちに大小さまざまな人形があって、幼い私はひどく怖れた。その時、最も怖かったのがこのフランス人形だった。
何があったかと問われれば、答えるほどの何ごともない。脇にあるトイレへ行こうとして目が合い、濃い青の瞳に底知れぬものを感じたというだけ。
つまり私の思い込みだ。あの時、風の吹いた感覚などなかったし。
——気のせい。これは気のせい。思い込み、先入観。
呪文を唱えるように自分へ言い聞かせ、母と伯母の待つダイニングに向かった。
廊下の突き当たりだ。もう目の前で、開いた引き戸を抜けるだけでいい。背中を舐め回すみたいな、誰かに見られている心地も気にしなければそれまで。
後ろ手に引き戸を閉じると、風を感じなくなった。
用件としては、祖母の遺品を渡すだけ。なのだけれど、お喋り好きの母と伯母は楽しそうに盛り上がった。
いつも数時間もの電話で話しているはずなのに、よくも話題があるなあと感心する。まあ直に会うのは久しぶりなので、邪魔をする気もないが。
出されたインスタントコーヒーを飲みつつ、向ける先に困った視線を泳がせる。
食器棚、茶箪笥、冷蔵庫などなどの家電品。なんとなく覚えていた配置のまま変わっていない。するとそこにある人形もだ。
こけしや土人形といった物から、真っ黒な木を削った外国土産と思う物も。見ないでいたくとも、視界に入らない方向がなかった。
仕方なく、比較的に不気味さの少ない博多人形らしき物をなんとなく眺めて過ごす。
幸い、ダイニングに居る間は気持ち穏やかだった。誰一人として登場人物の分からない話を、三時間以上も聞き流す苦行以外は。
さて帰ろうとなって、当然にまたフランス人形の前を通らなければならない。トイレも我慢し続けたけど、さすがに回避する方法がなかった。
密かに深呼吸で覚悟を決め、全身ガチガチに力んで歩く。たかが十数歩の距離だ。
「ああ、そうじゃ。アレ持って帰って」
突然、伯母が立ち止まる。廊下に面した襖を開け、さっさっと中へ入った。
脈絡のない言葉と行動にも、母は着いていく。否応なく、私も。
中は和室。以前に泊まったというのが、その部屋だった。元は伯母の夫、義理の伯父さんの部屋だったそうだが、客間になっている。
伯母は押入れを開け、中からいくつかの紙袋を母に渡した。手先の器用な伯母は、作るだけ作った手芸品を溜め込む。
きっとあれもそうだ。
ほとんどは使いみちもなく埃まみれになってしまうのだけど、プレゼントしようという気持ちに水を注すことはしない。
カタッ。
部屋に入ってすぐのところ。母と伯母のやり取りを眺める私の背中で音がした。
いつかどこかで聞いたような、ガラスの鳴る音。
「……ぃ」
向きを変えた私は、もう悲鳴も出なかった。
真っ赤な着物の市松人形がそこに居る。細く黒い枠とガラスに囲われ、倒れてはないけれど。
着物の色が違う。人形の顔が同じかどうか、区別のつくほどまじまじ見られない。
しかし金糸で縫い取られた、大ぶりの花の模様は同じ。桐箪笥の上。私の目線より少し上から、鼈甲色の瞳が見下ろす。
もう何も言えず、伯母の家を出た。お邪魔しましたとも言えなかった。
***人形の回りで***
あの夢の人形はどんな着物だったか、思い出せない。顔が同じだったかというと、市松人形より生きた人間寄りだ。
夢と、伯父の部屋と、伯母の家と。それぞれの人形に関わりがあるのか分からないし、たしかめようという気力もない。
だから、伯父が急死したこと。
どこからか市松人形を持ち帰った伯母の旦那さんが、その後数年のうちに病死したこと。伯母も大病を患ったこと。
それら人形の周囲で起こったあれこれも、関わりはまったく不明だ。
須能雪羽の短編集 須能 雪羽 @yuki_t
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