青空シェルター

ひつじ

青空シェルター

 空はどこまでも澄み渡っていた。

 太陽は暖かくて眩しくて、草は風にそよぎながら、きらきら輝いていた。

 きっとそこにはすがすがしい空気があって、清らかな水が流れる小川があって、空を行き交う鳥の影が、くっきりと濃い線を描く。

 遠くで響いている虫の声。時には雨の降りだしそうなにおいがして、陰った世界に雫が落ちて、そしてまた、果てのない空が広がる。


 昔の話を、ひいおばあちゃんが生きていたときに聞いたことがあった。それとだった。胸の奥が高鳴る。

 携帯端末の電源を切り、家の鍵を閉めた。見上げれば、『太陽』の傾きはおよそ二時を示す。向かうあてのない休日。探してみたい、と思った。

 整列した街並みは何も教えてはくれない。同じ顔をした家々から逃れるように、遠く、遠くへと歩いていく。人もまばらに、背の高い建物は少なくなり、だんだんと短い『草』が植えられた区画が目につくようになる。

 普段とは違う景色。もっと歩き続ければ、知らない世界が続いていくんじゃないか。期待に、歩く速度を速める。先へ、もっと先へ――



 だけど、それは僕の妄想だった。

 僕はそびえる金網を目の前に、足を止めた。



 かつて世界には果てのない空があった。僕が今見ている、少しずつ色を変えていくそれには、果てがあった。背中を預けた金網が、軋んで鈍い音を立てて、ギシギシと耳障りだ。それ以外の音は聞こえない。

 ここに来るのも、もう何度目だろう。その度にこうやって、耳障りな音を聞いている。


 ニュースではやっていないし、新聞にも載ってはいなかったけれど、今朝、僕らの間には「金網を超えた人」の噂がまことしやかに流れていた。

 噂というのはどれも尾ひれがついて、長くなっていくもので、「金網と『空』の間には見えない壁があったらしい」とか、「最終的に『空』に吸い込まれたらしい」とか、いろいろなことが言われていたりする。けれど、最終的な僕らの認識はほぼ一致していた。

 「馬鹿なことをする奴もいる」って。

 だから、今日もこの場所には人気がない。


 携帯端末が震え、誰かからの連絡があることをさっきから僕に伝えようとしている。僕はそれを無視し続けて、目を凝らして、どうにか『空』の向こうを見ようとして、けれど、もちろんその色の向こうなんて見えるはずもない。

 僕は背中を預けていた金網を押した。耳障りに軋むそれを離れ、コンクリートを数回、足音を立てて踏む。仰ぎ見る視界を埋めたそれは、やけに高かった。

 ――超えるのか?

 自問自答して、答えは出ずに、僕はただ立っている。


 金網の向こうに広がる緑と、その向こうの青。だんだんと『太陽』は傾き、視線の先に向かって動くけれど、まだその青色を変化させるには早い時間だ。時が止まったように、何の音もしない。ここは世界で一番、嘘に近い場所だった。


 沈黙を破るように足音がした。もちろん金網のこちら側で。視線を動かせば、見慣れた姿が小走りに近づいてくるのが見えた。彼は僕の姿を見つけると歩調を緩め、ゆっくりと近づいてくる。


「連絡してるんだから反応しろよ」

 開口一番の文句に、僕は小さく「ごめん」と視線を下げる。

 返ってきたのは、ため息がひとつ。

「まあ、いつも通りここだとは思ってたけど。毎度のことだけど、みんな心配してるんだから、なんか言ってからいなくなって欲しいんだけどな」

「悪かったよ」

 彼は視線を返して、またもうひとつ、ため息をついた。

「お前も懲りないよな」

「……そうだね。どうしてだろう」

 あいまいな答えに、彼は何も言わず、金網のほうに目を向けた。僕も追いかけるようにして、金網とその向こうを見る。


「俺はここ、嫌いだな」

 再び訪れようとしていた沈黙を壊すように、彼は何も返さない僕に言葉を続けた。

「静かすぎる。気持ち悪くなってくる」

「そうだね。僕も好きじゃない」

「じゃあどうして」

 いぶかしげに尋ねるので、僕は視線を動かさずに返す。

「……どうしてかな」

 彼は何も言わなかった。今度こそ沈黙が訪れても、しばらく黙ったままだった。


 ここは静かすぎて気持ちが悪い。その通りだ。僕もそう思ってるし、だから決してこの場所が好きってわけじゃない。だけど、僕はここに来る。何度も、何度も、繰り返しここに来る。

「なんか考えてるのか?」

「そうかもね」

「何を? 何かしようって思ってる?」

「どうかな。ただ」

 問いに答えるわけでもなく、僕は視線を上げた。

「ここは『空』が近いよね」

 視線を追うそいつが何か言う前に、僕は続ける。

「だから、よくわかるんだ。僕らのいるこのシェルターの、本当の形が」


 『空』はすぐそこで終わっていた。

 『太陽』は光量を上げ、色を変えたモニターの一部でしかなく、眩しくはあっても暖かさは感じない。風はなく、『草』と呼べるのは、決して花を咲かすことのない、緑色の光合成ユニットだ。空気はかすかに淀み、川と呼べるものはどこにもなく、鳥は端末映像の中でさえずるだけだ。虫の声なんて聞いたこともないし、『雨』だって、予告された日時きっかりに行われる、ただの散水に過ぎない。

 五十年以上前、疲弊した世界から逃げるために作られた、大きな、けれどちっぽけなシェルター。それが僕らの暮らす世界のすべてで、外のことは過去の映像でしか知らなくて。

 それが当たり前なんだ。何も考えなければ不自由じゃない。何も考えなければ、幸せでいられる。


「ねえ」

 僕は呼びかける。応えはない。続ける。

「この『空』、綺麗だと思う?」

「……綺麗じゃないか?」

 それも一つ、間違っていない答えだと思う。

「……R144、G215、B236」

 けれど、僕は割り切れなかった。

「は?」

「『空』の色を、ざっくり示した数値だよ」

 おかしいよね、と僕は続ける。

「太陽は元々、もっとたくさんの色を持ってるはずで、その一部が空の色を作るはずなのに、全部全部、僕らが見てるのは作りものなんだ、って思うとさ」

 手を伸ばしてみる。この間読んだ昔の小説に、空が近い、という表現があった。昔の人はどんなときに、空が近いと思ったんだろう。

「綺麗なはずなのに、気持ち悪いんだ。本当の空を知ってるわけでもないのにね」

 腕を下げる。視線を落とす。金網が目前に迫っている。

 その気になれば、簡単に越えられそうな高さだった。鉄条網があるわけでもない。なのにどうしてか、それは僕を閉じ込めている。向こう側を見れば、ドーム状の『空』の終わりが見える。見えるくらい、近くにあるのに、どこまでも遠かった。

「おかしいやつだと思う?」

「……もともとそう思ってる」

「そう。それじゃあ、ありがとう」

「なんで」

「こんな変なやつを心配してくれて」

「別に、どっかしら人と違うのは普通だろ」


 また時が止まった。

 僕はそれを動かすように、金網から後ずさるように離れた。振り返れば、同じシェルターの住人である彼がいる。僕は変なやつであって、けど、普通だった。だから僕は彼の友達らしかった。

「帰ろう」

 自分の声が、やけに遠くから聞こえる感じがした。背後の金網をちらりと見る。それだけしか、する気がなかった。

「いいのか?」

「うん。別にいいんだ。帰りたいから」

 答えとともに僕は歩き出す。彼は僕の横に並んで足音を鳴らす。


 ここにまた来ることはあるだろうか。あったとしてもきっと、何をすることもなく、空を見るしかないんだろうけど。

 転ばないようにと足元を見る。僕らの背中では無機質な青空が、きっとまだ静かに嘘を吐き続けていた。

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青空シェルター ひつじ @yu_hitsuji

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