summer




「もうすぐだよ」


 おれの前を、陽子が歩いていく。暑い陽射しの午前中。おれはただ黙々と、陽子の後を着いていく。

 昨日、陽子はおれを秘密の場所に連れて行くと言った。しかし水着で山登りとは、それは想像していなかったことだ。


 海沿いの県道。そのガードレールを越えて、鬱蒼とした林をただ歩く。汗が玉となって地面に落ちる。水着だから気にならないが、黒いラッシュガードは熱を吸収して暑すぎるくらい。堪らずおれは、前を進む陽子に訊く。


「なぁ、陽子。どこまで歩くんだよ」


「もうそこだよ。ほら」


 途端に視界がひらけた。潮風が、汗ばんだ頬を撫でる。そこは切り立った断崖の入江。少し遠くに、白く輝く砂浜が見える。眼下の海は深く、どこまでも蒼い。それこそ吸い込まれそうなくらいに。


「どう? 綺麗なところでしょ。ここが秘密の場所だよ」


「いや綺麗だけど、これどうやってあの浜まで行くんだ? ロッククライミングの心得はないぞ」


「それは大丈夫! こうすればいいんだよっ」


 と、そのセリフの途中で。陽子はその身を宙へと投げ出した。

 夏の太陽。白く輝く、雲と砂浜。どこまでも蒼い、空と海。そしてその中を、気ままに楽しそうに踊る陽子。

 ──夏だ。それはもう、完全無欠の夏。


 大きな着水音がして。陽子がおれに言う。華奢な身体に似合わない、とても大きな声で。


「海斗もおいでよ! 気持ち良いよ!」


 おれも夏に身を任せよう。助走をつけて崖を踏み切る。身体が重力から解放される。短くも長く感じる滞空時間。夏に抱かれている、そんな気持ちになりながら。おれは海面へと飛び込んだ。


 大きな入水音。目を開ける。そこには海の蒼い光と。そして無数の泡の、白い光があった。

 高い場所から飛び込んだから、身体が海に深く沈み込む。顔を上げると、海面に射し込む陽の光。波に揺られて、それはいっそう煌めいている。


 おれはそれに引き寄せられるように。足を蹴って上を目指した。

 そして海面から顔を出す。冷たい海水と、温かな空気のコントラストが喩えようもなく気持ち良い。


「──どう? 綺麗でしょ、海の中から見るこの陽光」


「陽子?」


「陽光だよ、ヨウコウ! これに自分の名前をつけられるほど、あたしは傲慢じゃないってば」


 立ち泳ぎをしながら、顔を陽子と見合わせる。なるほど、陽光か。言葉が似ていて陽子に聞こえたし、実際『陽子』でもいいんじゃないか。言葉以上に、その光景と陽子は似ていたのだった。




「ね、もう一度見てみようよ。一緒にこの陽光を」


 息を深く吸って。陽子と一緒に海に潜る。

 そこから見上げた陽の光。今まで見た中で、きっとそれは一番美しい光景だったと思う。

 秘密の場所だから、こんなに美しいのか。

 いや違う。それはきっと、陽子と一緒に見ているからだ。


 おれは海中で陽子を抱き寄せて。そしてその唇に、そっとキスをした。

 息が続く限り、このままでいたい。そんな風に思わせる、ゆっくりとしたキスを。




「……どうして、あたしにキスをしたのさ」


 連れ立って、白い砂浜に上がって来た後で。陽子は優しげな口調でおれに問う。


「深い意味はないよ。ただ、」


「ただ?」


「陽子に、好きだって伝えたかったんだ。迷惑だったら謝るよ」


「ううん、嬉しいよ。海斗のその気持ちはね」


 にこやかに陽子は笑う。そして、言葉を継ぐ。


「でも。夏ももう終わりだね」


「……そうだな。おれも、そう思う」


 まだまだ暑い日は続く。でも。陽子とさよならをする時、それが今年の夏の終わりだと。おれはそんな風に感じたのだ。


「あ、そうだ。忘れてた」


 サーフパンツのポケットから、陽子はそれを取り出した。それはあの日、陽子と出会った日に、おれが投げ捨てたもの。


「これ、返すよ。海斗の銅メダル。海斗がまた持ってても良いかなって、思えるようにしといたからね。大事にするんだよ」


「どういう意味だ?」


 クスリと意味深に、陽子は笑って言った。


「今にわかるよ。今にわかる」


「おい陽子、どう言う意味なんだって」


「……さよなら、海斗」


 振り返らずに、砂浜を駆けていく陽子の後ろ姿。追いかけようと思った。でも、それは無理だとすぐに悟った。

 

 だって、夏は待ってくれないのだから。


 そしてそれが、その夏の最後の思い出となった。




 ──────────────




 季節はまた巡り、翌年の夏。

 おれはに来ていた。


 あの夏と同じ空、同じ雲、同じ風。そして、同じ海。全てが同じなのに、あの夏とは決定的に違う夏。

 ──当然だ。そこに陽子はいないから。



 助走をつけて、崖から踏み切る。宙に身を投げる。

 短くも、長く感じる滞空時間を経て。

 おれの身は深く、深く海中へと潜る。


 頭上に、美しく揺らめく陽光。

 いや、陽子が。そこにいる気がした。


 勢い良く海面から顔を突き出して。新鮮な息を吸ったあと。

 おれは、サーフパンツのポケットに入れていたそのメダルを取り出した。


 裏面に、汚い字でそれは彫られてある。きっとあいつが無理やり彫ったのであろう、その文字を見て呟く。


「……陽子」


 それをもう一度握りしめて。

 おれは再びあの夏に、抱かれていた。





(終)

 

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海が太陽のきらり 薮坂 @yabusaka

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