in the


 日焼けした身体に、汐風が気持ち良い満月の夜。

 おれはひとり、じいちゃんの家からほど近い防波堤を歩いていた。気ままな夜の散歩である。

 今日もかなりの時間、泳ぐ羽目になった。だからこうして火照った身体をクールダウンしている訳である。


 陽子と出会ってからの数日間。おれはスパルタを自称する陽子の水泳教室に、半ば強制的に通わされた。それも午前午後ぶっ通し。お陰で今や、ある程度は自由に泳げるようになっていた。

 海中での水泳は、浮力が高くて思ったほど腰の負担にはならない。むしろ久しぶりに身体を動かせて気分が良いくらいだ。

 海中で泳ぐことが、少しずつではあるが好きになっている気がする。日焼けの度合いが増すたびに、夏を満喫している気分になる。

 ……もちろん癪だから、陽子には言っていないけど。



 見上げればまんまるな月。夜の海と相まって、それは幻想的な雰囲気だ。

 そんな絵本に出てくるような風景の中、異質なものを見つけた。防波堤の先。そこに誰かがあぐらをかいて座っているのだ。

 近づかずともシルエットでわかった。陽子だ。あの華奢で貧相な身体、間違えようがない。ここのところ、毎日のように会っているのだから。


「そんなところで何してんだ、陽子」


 おれの声に振り返った陽子。いつもと様子が違うのは、すぐに見て取れた。トレードマークのラッシュガードではなく、淡い水色のワンピース。粗末な水銀灯の下、それが汐風に緩やかに揺れている。


「あれぇ、海斗じゃん。夜に会うのは初めてだね。どしたの、こんなところで。もしかして、あたしが恋しくなっちゃった?」


「そんなわけねぇよ。お前こそそんなところで何してんだ」


 陽子は手に持っていたものを掲げる。その辺の店で買ったのだろうか、強アルコールのチューハイが握られていた。酒飲んでんのか、こいつ。そう言えば顔が赤い。日焼けのそれではなくて。


「たまに、どうしても飲みたくなる夜って、あるよね」


「あのな。忘れてるかも知れねぇけど、おれはまだ高校生だからな。それも極めて真面目な」


「お酒、飲んだことないの? 一口も?」


「アスリートだったからな。身体には気を遣ってたんだ」


「なぁんだ。つまんない男」


 唇を尖らせ、チューハイの缶を呷って言う陽子。傍には、駅前で唯一のコンビニのレジ袋が置かれていた。中身は当然、まだ蓋を開けていない大量のチューハイの缶。


「お前まさか、それ全部飲む気じゃねぇだろうな」


「まぁ、飲めるとこまで? 久しぶりに、挑戦しようかなぁ、って」


「防波堤でやるチャレンジじゃねぇだろ。夜の海に落ちたら死ぬぞ、マジでやめとけ」


 おれは陽子の手を取って、そこから立たせようとする。だけど欠片も力が入っていない。まるでぐねぐねのウミウシだ。

 諦めて力を緩めると、陽子はぽつりと言った。


「……ねぇ、海斗。ちょっと聞いてよ」


「何をだよ」


「あたしね、振られたんだよ。ついこないだ、彼氏に」


「まずお前に彼氏が居たのが驚きだな。ボランティアかよ、そいつ」


「失礼な。これでも傷付いてんだからね」


 とう。何故か振り下ろしのチョップを喰らうおれ。なぜこんな仕打ちを、とも思うけど。やられたこっちが驚くくらい、陽子の攻撃は軽いものだった。


「……お互い、来年からの就職が決まってさ。だから大学生活最後のこの夏を、一緒に楽しもうねって言ってたんだ。それなのに。そう、それなのに」


 おれが掴んでいない方の手で、またも酒を呷る陽子。やめろと言っても当然やめない。陽子はその缶を飲み干して続けた。


「……あいつ、他に好きな子が出来たって。だからごめんって。そんなの酷いじゃんか。しかもその子、同じサークルの後輩だよ? あたしは遣る瀬も、立つ瀬もない。だから逃げるように実家に戻ってきたの」


 いつの間にか体育座りになった陽子は、自分の膝に顔を埋めた。泣いているのだろうか。しばらく無言の時間が続いた。汐風が鳴く音と、打ち寄せる波の音。それ以外には何も聞こえない、優しい夜の静寂しじま


「ねぇ、あたしの気持ちはどこにやればいいのかな」


「捨てろよ、そんな気持ち」


 陽子の手を握ったまま。おれは顔を隠した陽子に言う。


「必要のないものを、人はゴミと言う。陽子自身がそう言ってただろ。そんな気持ち、胸に抱えて何になる。そんなクズ野郎のことは忘れて……、」


 代わりにおれを、傍に置けよ。

 喉まで出かかったそのセリフ。でも、それを言うことはさすがに出来なかった。

 だから代わりのセリフを言う。


「……クズ野郎のことは忘れて。代わりにもっと、楽しいことをしろよ」


「楽しいこと?」


「せっかくの夏なのに、勿体ない。夏は待ってくれないんだぞ」


 初めて会った時、陽子に言われた言葉。それを返してやる。陽子は少しだけ顔を上げる。おれと目が合うと、ちょっとだけ笑った。


「……それ、あたしの受け売りじゃん」


「まぁな。でも、いい言葉だ。素直にそう思うよ。それにもう、おれのここでの夏休みは終わりだ。言ってなかったけど、明後日には街に帰る。だからこそ、明日は一緒に楽しいことをしようぜ」


「一緒に楽しいことを、かぁ」


 二度目のそのセリフ。一度目とは違って、前向きな声色。陽子が少しでも元気になってくれたなら。この不思議な出会いにも、意味があったのかも知れないと思う。


 ようし。陽子はそう声を出す。そしてゆっくりと、おもむろに立ち上がった。頭上の月を見上げる。涙の跡が頬を濡らしていた。だけどおれは黙っていることにする。月の光に照らされる陽子も、悪くはないと思ったから。


「明日、海斗を秘密の場所に連れてくよ。明日が最後みたいだし。だから地元民しか知らない、素敵なところに連れてく。今日のお礼にね」


「どんなところなんだ、それ?」


「それは着いてからのお楽しみってヤツ」


 さらりと、夜風のように笑う陽子。つられて何故か、おれも笑った。

 陽子とさよならするのは少し残念だけれど。でも、それも夏ってヤツなのかも知れない。


 



(続く)

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