sunlight



「──おぶえぇぇ!」


 胃の中か肺の中か。とにかく身体の中に入っていた海水を涙目になりながら吐き出す。

 口の中がしょっぱい。何かしわしわする。当然、全身濡れ鼠である。ちょっとうっかり気絶、いや臨死体験してたかも知れない。


「あ、生きてたんだ」


「生きてたんだ、じゃねぇよ! 泳ぐのが苦手なヤツだっているんだぞ、殺す気か!」


「ちょっとだけだよ?」


 親指と人差し指で小さな隙間を作る陽子。片目を閉じて、何故かはにかんでいる。いやいや、それに殺意て。表情とか色々間違えすぎだろ。


「でもびっくりしたよ。すこーし強く蹴っただけなのにさ、すごい勢いで沈んでくんだもん。マイヨールかと思っちゃった」


「お前な、冗談でもやって良いことと悪いことが、う、おうぇっ!」


「オゥ、イェイ? なに喜んでんの? 海斗ってまさか、そっちの趣味の人?」


 全然違うわ! と返そうと思ったのだが、まだ胃の中に海水が残っていたようだ。おれは水を吐きつつ、手を岩礁に付けたまま動けない。傍から見ればまさに、土下座のポーズである。


「まぁ、海斗がどっちの趣味でもいいけどさ。この海にゴミを捨てるのだけはやめてよね」


 ほら。そんな感じで無造作に、件の銅メダルを渡してくる陽子。嘘だろ、あんな遠くに投げたハズなのに……?

 とにかく受け取れない。おれはその意思を伝えるように、目の前に掌をかざした。


「なによもう、頑なだなぁ。回収、大変だったんだから。あと海斗を海から引き上げるのも大変だったし。感謝してよね。ていうか崇めてもいいよ? この私を!」


「そもそもお前に落とされたんだよ! 崇める要素が、どこにあんだよっ、う、うえっ」


 まだ水が出る。同時に涙目になる。泣いてなんかない。海水がしょっぱいだけだ。

 ちらりと陽子を見ると、何故か悪戯っぽい笑顔をしていた。くそ、初っ端からペースを握られっぱなしだ。本当に何者なのだろう、こいつ。

 まだ陽子の手に握られている例のメダル。見るとやっぱり悲しくなる。せっかく捨てたのに。


「……それ、どうやって回収したんだ」


「ふふん、この海でマーメイドと呼ばれた私を舐めないことね。アプネアの腕なら誰にも負けないんだから」


 控えめすぎる胸をそらして、陽子は威張る。背丈やその他いろいろ、身体にボリュームはないのだけど。でもなぜか「偉そう度」だけはやたらと高い。それにさっきのセリフ。これで成人ってマジなのか。日本の行く末が完全に危ぶまれるぞ。


 しかしこいつにマトモに突っ込んでたら疲れる。なんていうか、バイタリティの量がまるで違うのだ。夏そのもののような陽子に、ショボいおれが敵うはずない。よし、ここは話題を変えてみよう。なんとか姿勢を戻して、おれは陽子に問う。


「なぁ、そのアプネアってなんなんだ。さっきも言ってた気がするけど」


「フリーダイヴのことだよ。知らない? 簡単に言うと、素潜りってヤツ」


「あぁ、素潜りか」


 じいちゃんが若かりし頃、素潜り漁をやっていた話は聞いたことがある。大型のクエなどを、ヤス一本で仕留めていたらしい。

 若返ってまたやりたい。じいちゃんはおれが帰省する度にそう言うのだ。なんでも、海の中はとても美しいらしいから。

 泳ぎが苦手なおれには、無縁の話だけど。


「海斗もどう? とっても楽しいよ。それに今なら、このお姉さんが一緒に泳いであげるからさ!」


「何がお姉さんだよ。そんな貧相な身体して」


「大きい方が良いって暗に言ってるところが、まさに少年だよね。今にわかるよ。今にわかる」


「何がわかるんだよ」


「女の価値は胸じゃないってことがね」


 ニヤリ。また例の人を喰ったような笑み。不思議とそれは、夏の太陽に似合っていた。

 思わずドキリとしてしまう。それを隠すようにおれは返した。


「……とにかく、泳ぐのはごめんだ。おれは泳ぐのが好きじゃない。それにもう、身体を思いきり動かすことは出来ないんだ」


 おれがそう言うと、陽子の笑顔がとたんに曇った。少し申し訳なさそうな顔をする。失礼なヤツだと思っていたから、ちょっとだけ安心した。こいつにも一応、人の心はあるようだ。


「ごめん、悪いこと聞いたね。病気なんだね……頭の方が」


「違うわ!」


 前言撤回。やっぱり失礼なヤツ。


「身体だよ、身体! 腰を故障して、もう二度と走れないんだ。だから誘われても無理だからな」


「ははぁ、なるほど。これ見よがしにこれを捨てた理由はそれか。それで無理やり未練を断ち切ろうとしてるわけね。ねぇ、海斗は何の選手だったの?」


 陽子は銅メダルを指で弄びながら問うた。その質問は的確だ。まるで心の内を読まれているようで無性に腹が立つ。本当に、この陽子って何者なのだろうか。


「あ、陸上選手だったのか。インターハイの100m? てことは全国三位? すごいじゃん」


 陽子はメダルの裏に書いてあった文字を読んだようだ。そのメダルが示す通り、おれは陸上選手

 高校一年の夏。念願のインターハイに出場し、そこで三位という成績を収めた。

 でも自分では満足していなかった。おれはまだ上に行ける。だから次のインターハイでは、必ず優勝してみせる。


 そう意気込んで毎日、黙々とハードワークをこなした。雨の日も風の日も、そして雪の日も。

 しかし。残念ながらおれの身体は、それに耐えられなかったのだ。

 

 腰が壊れ、もう二度と強度な運動はできないと医者に言われた。それでも諦め切れずにリハビリを続けたが、高二の六月、おれの腰は完全に壊れてしまった。その後は部活も辞めてしまい、全くやることがなくなった。そして暇を持て余した挙句、この町に来たと言うわけだ。


 掻い摘んでそれを陽子に説明する。なんでこんな初対面のヤツに、とも思ったけど。それでも何故か、口が自然に動くのを止められなかった。


「……ふうん、なるほどね。でもすごいじゃんか。初出場のインターハイで三位でしょ? そんな自慢のメダルをなんで捨てるの?」


「別に大したことねぇよ。それに自慢できるのは一位になったヤツだけだ。おれは二人に負けてんだぞ」


「それでも全国で三番目。それは自慢に足ると思うけどなぁ」


 陽子はゆっくりとおれの横に腰掛ける。足は海につけたまま。穏やかな波を受け、陽子の足は踊るように揺れていた。


「それでもう走れなくなったから、海斗はメダルを捨てたってことか」


「見ると余計辛くなるだろ。だから手放したんだ」


「そんなものを、おじいちゃんの家があるこの町に持ってきたの? それ、やっぱり大事なものってことじゃん。なおさら捨てない方がいいよ」


 痛いところを突いてくる。これは、じいちゃんがどうしても見たいと言ったから持って来ただけだ。久しぶりの帰省だったし、いつも応援してくれていたじいちゃんを無碍にはできない。


「これ、本当に要らないの?」


「もうおれには必要ない。欲しいならやるよ。銅メダルだから、あんまり価値はないけどな」


「貰えないよ、こんなの。でも海に捨てるのだけは許せないから、あたしが預かっといてあげるね」


「預かる?」


「しゃーなしでね。で、海斗がもう一度、それを持っていても良いかなって思わせてあげる」


 不敵な笑みで、陽子は笑った。それはまるで、この世に敵なしと思わせるような笑顔。


「明日の午前中。もう一度この磯に来なよ。もちろん、泳げる格好でね」


「言っただろ、激しい運動はできないって。それにそもそも泳ぎは苦手なんだ」


「大丈夫だよ、アプネアはガチガチに身体動かすようなヤツじゃないし。それに、このお姉さんが手取り足取り教えてあげるからさ!」


「いや、それはマジで遠慮しとく」


「えぇー? このお姉さんの直接の手ほどきだよ? うっかりメダル以外のものも捨てちゃうかもね」


 ニヤリ。酷い笑い方の陽子。下世話すぎて言葉が返せない。耳まで赤くなりそうなおれに、陽子は続けた。


「あ、いま色々想像したでしょ。そのあたりが少年だよね、やっぱり」


「うるせぇな、そんなわけねぇだろ」


 陽子はおれの言葉を意に介さず、今度は軽やかに笑ってみせた。まるで夏を思わせる、そんな爽やかな笑顔になって。


「とりあえず、明日は必ずここに来てよね。きっと、楽しくなると思うから!」


 勢い良く立ち上がった陽子は、流れるような動作でマスクをつけると、そのまま勢い良く海に飛び込んだ。

 陽子は一旦潜水したあと、海面に浮上して顔を出す。


「明日の午前中、ここに集合だからね!」


「おい、なに勝手に決めてんだ。おれは行くなんて一言も、」


「勿体ないなぁ。夏は待ってくれないんだよ」


 笑って陽子は言った。それはまさに、夏が弾けている。そんな笑顔。


「それじゃあたし、今日は帰るから!」


「おい待て、飛び込んでどこに帰るってんだ! お前の家は海の中にでもあんのかよ!」


「……かもね!」


 手を大きく振ると、陽子は振り返って泳いで行ってしまった。岬の向こうあたりに陽子の家があるのだろうか。ていうか、泳いで帰るってどんだけ海が好きなんだよ。


 変な女と知り合ってしまった。でも不思議と、悪い気はしない。それは多分、陽子が底抜けに明るいからだろう。なんとなく表現しにくい気分になって、おれも踵を返して帰路につく。


 明日の午前中、泳げる格好で。

 そう陽子は言っていた。

 まぁ、ああは言ったが暇を持て余しているのは事実。話に乗ってやるのは吝かではない。激しい運動でなければ、やれないことはない。

 帰ったらじいちゃんに車を出してもらおう。少し車を走らせて街に行けば、水着くらいは手に入るハズだ。

 能動的に動こうとしている自分に少し驚く。それに。


 明日が少し楽しみだと思えるのは、本当に久しぶりのことだった。

 



(続く)



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