巨松を見届けよ

吉岡梅

安倍川の鮠獲り

 時は天文21年 (1552年)、駿河国するがのくに駿府すんぷの街。霊峰富岳を臨むこの地に流れる安倍川は、初夏の日差しを受けてきらきらと川面に早瀬を躍らせている。その上を走る爽やかな風がなびくほとりにて、三人の童と一人の青年が、裾を絡げて嬌声を上げていた。身なりからするに、それなりに高い身分の家の子息であるようだ。


 童らは川辺に設えられた生簀いけすを前に二手に別れ、はや獲りを競っていた。竜王丸たつおうまるは、ひときわ華やかな衣が濡れるのも構わずに浅瀬に入りこみ、一尾のうぐいを両の手で掴むと高らかに頭上に掲げた。その溌溂とした姿と、どうみても川遊びに向かぬ雅やかな公家装束の取り合わせは、なんとも不思議な光景であった。


「そうら、捕まえたぞ! これで三尾目だ。どうじゃ、竹千代たけちよ!」


 竜王丸は整った目鼻立ちをますます輝かせ、得意げに相手方に魚籠びくを突き付ける。その中身を見せつけられた竹千代は目に涙を浮かべ、必死に歯を食いしばり泣き出すのを堪えている。年若であるためか、はたまた、病がちなためであろうか、その身体は童たちの中でも一際小さい。


 武家の子息らしく小袖に袴を身に付けてはいるが、線の細さ故か、どうにもお仕着せられているかのようだ。こちらはこちらで、野外での川遊びには向いてはいないようだ。現に魚籠の中は未だにもぬけの殻。だが、負けん気を漲らせた竹千代は、ひとり川べりで腕を組んでいる青年に八つ当たりをするかのように声を張る。


小五郎こごろう! なんとかせぬか。そなた、であろう。このままではむざむざ竜王丸様に負けてしまうぞ」


 にこにこと三人の童の様子を見守っていた青年は、委細承知とばかりにざんぶざぶと川へと入ると、素早く魚を捕えにかかる。またたく間に二尾を捕まえると、大袈裟な手ぶりで魚籠へと放り込んだ。


 べそをかいていた竹千代はたちまち笑顔になり、自らの魚籠を高らかに掲げる。それを見た竜王丸も「流石は小五郎殿」と、呵々と笑った。そして、従者のように傍らに控えている童に楽しそうに問うた。


「こうでなくてはな。さて、助五郎すけごろう、いかにする。相手方はなかなかに手ごわいぞ」

「はっ。既に近隣の童どもに川周辺の仔細を聞き込み、しかと手配をしておりまする」


 助五郎は真面目くさった顔つきのまま竹編みのざるを取り出して見せると、ざぶりと川面へと突っ込んだ。そしてそのままずいずいと上流に向かって押しに押しやる。ややあって引き上げた笊の中には、三尾もの魚がびちびちと跳ねていた。


「笊とは。でかした助五郎! 流石は我が義弟おとうとよ!」


 快哉を叫ぶ竜王丸とは裏腹に、竹千代の顔がみるみる曇っていく。縋るように小五郎を振り返るその顔は、下唇を噛み締めている。今度こそ泣き出すかと思った時、小五郎が両の肩をぐるぐると振り回して皆の中央に立った。


「さすがは竜王丸様に助五郎様。しかし三河勢も負けてはおりませぬぞ。さあ方々、とくと御覧じろ。酒井さかい小五郎忠次ただつぐめの、の妙技を見せてごらんに入れましょうぞ」


 そういうが早いか、あっというまに右手一本で一尾の魚を掴み取る。すぐさま魚籠に入れようと高く掲げたが、魚の身が滑るのか、つるりと掌から飛び出した。慌てて左手の手の内に収めようとするものの、またつるり。今度は右手で追うものの、つるり、つるりと空中で魚が躍りだす。


 小五郎は必死の形相で魚を追い、その動きに合わせて細かく身体を伸ばし、折り曲げ、腰を前後に揺らし出す。まるで魚と共に踊っているかのようだ。その滑稽な様子を見て、竜王丸が声を上げて笑い出した。それに釣られて、仏頂面で耐えていた助五郎もついに噴き出して破顔した。


 さらに小五郎が前後に動きながら魚と共に躍り続け、ついには一回転して川の中に尻餅を付く始末に至る頃には、竹千代も腹を抱えて笑っていた。


「いやあ……これは面目ない。この勝負、我らが負けのようですな」


 苦笑交じりで小五郎が切り出すと、三人の童は笑顔のまま大きく頷いた。後に互いに手を結び、かつ、離し、刃を交える事になろうとは露ほどにも思わずに。世は戦国。四人の命運を握る「海道一の弓取り」と称された今川義元が、隣国尾張の織田家への攻勢を加速させている最中さなかの一幕であった。

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