年の瀬の来訪者

 天正19年(1591年)、冬。京の街は冷え冷えとしていた。雪こそ降ってはいないものの、空気は張りつめ風は肌を刺すように冷たい。桜井屋敷にて隠居をしている酒井忠次さかいただつぐは、ぶるりと肩を震わせると、綿入りの半纏はんてんを羽織って火鉢に炭を足す。齢は六〇も半ば、かつて戦場を縦横に駆け抜けてきた頑健な身体も流石に弱ってきた。ふとした寒さが、めっきり堪える。


 気温のせいだろうか、京の町全体もどことなく重苦しい空気に包まれているようだ。――いや、違う。忠次はひとり首を振った。この町の不安げな空気は、気温のせいだけではない。


 今やほぼ日本全土を掌握した天下人、豊臣秀吉は三月ほど前、突然から入りを宣言した。海を渡り唐 (中国)へと攻め込み、支配下に収めようというのだ。この突拍子もない宣言に、ようやく戦乱の世が終わると思っていた諸将はざわつき始めた。そして時を同じくして、秀吉の一粒種、鶴松つるまつが数え年三歳で病没した。秀吉は悲嘆に暮れ、従う諸将も剃髪ていはつして喪に服した。


 大切にしていた我が子を失った秀吉は、意気消沈するかと思いきや、かえって執念とでも言うべき暗い情熱を傾けて唐入りの準備を急がせた。既に肥前名護屋ひぜんなごやでは、唐入りの足掛かりとするための城の普請を、全国の大名達がこぞって進めている。秀吉は甥である秀次ひでつぐ養嗣子ようししとして迎え、関白の座を譲って自らは唐入りに専念する準備を着々と進めていた。先行きはますます不透明になってきた。京の民も、そんな不穏な空気を感じ取っているのか、まもなく年の瀬であるにも関わらずに活気を失っているのだろう。


――家康様がうまく立ち回って下さっているといいのだが


 忠次が主の身を案じていると、侍女のおぬいが来客を告げた。部屋に通すように申し付け、火鉢に手をかざしているうちに、一人の男がからりと襖を開けて入ってきた。


「お久しゅうございます。忠次殿、いや、一智いっち殿でしたな」

「おや、これは珍しい。美濃守みののかみ殿か」


 その男、北条氏規ほうじょううじのりであった。昨年、かつての関八州の覇者、北条家は、秀吉による全国の大名を総動員した小田原征伐を受け滅亡した。若き五代目当主の氏直うじなおは、自らの命と引き換えに降伏を申し入れたが、その殊勝な姿勢や、家康の娘婿であった事等が考慮され、赦されて高野山へと流され蟄居ちっきょすることとなった。だが、北条家内での主戦派であった氏直の父であり先代の氏政うじまさ、同じく叔父の氏照うじてる、さらには重臣の大道寺政繁だいどうじまさしげ松田憲秀まつだのりひでは切腹を申し付けられ自刃した。


 忠次の元を尋ねてきた氏規は、当主氏直の叔父にあたり、自刃した氏政・氏照とは同腹の兄弟である。だが、元々豊臣家への臣従を主張し、和平に向けて奔走していたこともあり赦され、氏直共々高野山にて蟄居をしていた。しかし、年が明け、氏直の岳父である家康を通じた赦免活動が実を結んだ。今年の五月、赦免された氏直には大坂の屋敷が与えられ、さらには河内かわち及び関東において一万石を与えられて大名として復帰した。時を同じくして赦された氏規は、河内丹南たんなに二千石を与えられていた。


「氏直殿の件、誠に残念であったな。隠居の身ゆえに挨拶にも行けずに済まなんだ」

「いえ、お心遣い痛み入ります。こちらこそ、督姫とくひめ様には申し訳ない事を」

「なに、栓無き事よ。氏規殿こそ、さぞやご苦労された事であろう」


 秀吉に赦免された氏直は、五月より大阪に留まっていた。小田原より家康の娘であり、正室である督姫も呼び寄せ、家臣への知行や借財の整理を行っていたが、十一月に疱瘡ほうそうを発し、そのまま病没した。享年三十であった。氏規は一族の者として葬儀の手配を助け、係累への差配を済ませ、督姫を家康の元へと送り届け、ようやくひと段落着いたといった所なのであろう。久方ぶりに見るその顔は、面窶おもやつれして頬がこけていた。


「時に氏規殿、幾つになられた」

「はい。四十と六になります」

「あの駿河で共に遊んだ童が四十六か。わしも歳を取るわけだ」


 忠次が笑うと、氏規も畏まった態度を和らげて笑った。二人はその昔、今川義元が健在であった頃の駿河で共に過ごしたことがある。忠次は、当時の松平家から今川家への人質として駿河に送られた家康の供のひとりとして。氏規はこれまた北条から今川への人質として。


 臣従の印と同盟の印という違いはあったが、共に故郷を離れ、駿河の地に送られた人質だ。その共通の身の上と、屋敷が隣り合わせという縁もあり、駿河時代は共に学び、そして、遊んだ年来の知己ちきである。


 特に家康と氏規は、義元の嫡男である氏真うじざねと歳が近い事もあり、家来の目を盗んでは三人で出かけて遊んでいた。もちろんその折には、ひとり年の離れた忠次がお目付け役然として、影に日向に目を光らせてはいたのだが。


 そのまま今川家に仕える事になるだろうと思っていた矢先、桶狭間の合戦にて今川義元が織田信長に討たれた。今川家が大混乱する渦中、家康主従は岡崎城にて独立し松平家の主となり、氏規は北条家に帰参した。


 その後、松平家は徳川家へと家名を変え、織田信長と同盟を結ぶ。徳川・今川・北条は、近隣の諸国を巻き込み互いに争っては結び、結んでは争ってはいたが、その最中でも氏規と家康、そして忠次の個人的な繋がりは途絶えることなく続いていた。


 北条家中における氏規は、領土の西端にあたる伊豆国いずのくにを預かり、三崎水軍を掌握していた。みなとでは軍備はもとより、商人たちとも頻繁にやり取りを行う。氏規は、自然と彼らを通じて他国や海外の知見を得ることとなった。そのためか、関東に根を張る北条家家中にあっては珍しく世情に明るい。さらに、幼少時より他国へ出されていた故に、各地の情勢の変化にもさとかった。加えて生来の穏やかな性質は、武骨な板東武者が持て囃される関東の地においては珍しく、家中をまとめたり、西方諸国との交渉を行う上で重宝されていた。


 北条の当主一族でありながら、異質な才を持つ男。それが氏規であった。思えば幼少のみぎりより、思慮深く、慎重な男であった。その男がわざわざ京の隠居を尋ねてきている。


「して、氏規殿。此度の用向きや如何に。まさか喪の挨拶や、ましてや昔語りをされにきたのではあるまいて」


 忠次が居住まいを正して問いかけると、氏規はうっすらと微笑んだ。 

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