巨松を見届けよ
徳川(松平)信康。家康の嫡男にして、織田信長の娘、
世間では、信康が生母の
そして、信康の処遇を巡り親の情と徳川家の当主としての立場の板挟みとなり、
忠次はそれでいいと思っている。それで徳川家が纏まるのであれば、どう思われようが構わない、と。だが、目の前の氏規に対しては違った。この男は今、苦しんでいる。家の為と言いながら兄弟を斬り、甥を看取る事になった自らを嘆いている。息子の処遇を相談しに来たなぞでは無い。自らの遣る瀬無さを、怒りを吐露したくて訪ねてきたのだ。忠次は居住まいを正して答えた。
「無念の一言に尽きようぞ」
「無念と」
「左様。お主には事の顛末を話しておこう。当時、信康様が統治する三河の岡崎衆を束ねるは、この儂の務めであった。だが、武田との戦にかまけ、疎かになってしまっていた。前線で家康様と共に手柄を立てる浜松衆が見る間に出世していく姿を目にし、留守を預かる岡崎衆の間には不安と不満が高まっていた。気付かぬうちに、密かに信康様を担いで謀反を起こそうという輩が現れ、徒党を組み始めていたのだ。気づいた時には時すでに遅し。再び家中を一つに纏めなおすには、思い切った態度を示さねばならない所にまで至っていたのだ」
「それで信康殿を」
「うむ。信康様は激しやすい御仁であったが、同時に聡明であった。儂は直接、信康様に岡崎衆の顛末を伺いに行ったのだ。すると即座に自分が担がれようとしている事に気付かれた。自らに叛心は微塵も無いが、築山殿や周りの輩には確かに思い当たる節がある、と。そして、その解決の方策にも」
忠次は当時の事を思い出していた。信康は事に気付かなかった不明を詫び、自らの首を持って収めよと言い出した。家中が割れ、織田に疑われては徳川に未来はない。一刻も早い厳しい処断が必要である、と。そして忠次は悩む家康の背中を押し、信長には筋を通すために直接訪問し、「家康の思い通りにせよ」との返事を持ち帰った。
「結局儂と家康様は、信康様に甘えたのだ。情けの無い話よ。だが、犠牲になった者の為にも、誰かが汚れ役を引き受けなくてはならぬ。助五郎、それが我らよ。我らのような者は地獄に落ちるが必定よ。だが、それでも命の限り務めを果たすのだ」
静かに頷く氏規であったが、その目は未だ暗い光を湛えていた。
「信康殿もそのような事を。小五郎殿、氏直様も同じような事を言っておりました」
「氏直殿が」
「はい。つい先日、疱瘡の見舞いに伺った折でした」
##
氏規が大阪の屋敷へと見舞いに訪れると、氏直は床から半身を起き上がらせて迎えようとしていた。氏規は慌てて床近くに寄り、その背中を支える。
「どうかそのままに。ご無理をされるな」
「なに、叔父上。御心配には及びません。もう疱瘡も治りかけております」
「なんと。それは良かった」
「それに、ようやく家臣への知行の算段も付き申した。例え今倒れようとも、もう思い残すことはありません」
「何を気弱な事を。北条の当主がそんな事でどうするのだ」
氏規の励ましに氏直は軽く微笑んだ。
「北条家の当主。思えば私の人生の全ては、それに捧げてきましたな。とはいえ、何を決するわけでもなく縛られるばかり。実の所北条を動かしておったのは、父上とそのご兄弟。叔父上、私は叔父上たちの事が羨ましかった。いや、妬ましかった程です」
「氏直……」
「小田原を囲まれるに至り、今度こそ当主としての責を取ろうと自刃を申し出てみれば、赦され、責を取ったのは父上に奥州殿。その上介錯を勤めたのは叔父上。結局私は蚊帳の外でした」
氏規が何も言えずにいると、氏直は静かに続けた。
「のう叔父上、いっそこの私めも介錯しては下さらぬか。今であれば疱瘡で死んだと誤魔化しも効く事でしょう。そろそろ開放しては下さらぬか」
「氏直、何を言う」
「叔父上、それが叔父上の役目ぞ。北条の者を見送るが、叔父上の定めなのです」
「氏直!」
思わず氏規が声を荒げると、氏直は力なく笑った。
「戯言です。病の為か朦朧と。ご容赦を。叔父上、本日はご足労いただきありがとうございます。何やら疲れましたので、ちと、失礼します」
そう言うと、床に伏し目を瞑った。
##
「氏直様も自分を殺せと仰っていました」
「そうか。だが病の為した戯言であろう。結局はその病で命を落とされた。助五郎、お主まで気に病むな」
忠次は氏規の肩に手を差し伸べようとしたが、氏規はそれを嫌い、まるで忠次に挑みかかるかのように睨めつけ、叩きつけるかの如く言葉を吐く。
「
「何?」
「いくらなんでも、早すぎるとは思いませぬか。家臣らへの知行の算段がついてすぐとは」
氏規の目の闇は、さらに深く黒くなっていく。
「都合が良すぎるとは思いませぬか。鶴松様が亡くなられてすぐに氏直様も亡くなるとは」
「助五郎」
「殿下が鶴松様を心に残す今であれば、氏直様にも同情し、遺領を召し上げずに係累の者に継がせるだろう。そう判断した悪知恵の働く輩が、今こそ好機とばかりに手を下したのでは。主の、甥の願いを叶えんがためと自らを偽り、その遺領を継がんとする不逞の輩が」
「助五郎、お主……」
忠次は己の盲を呪った。氏規の怒りは、悲しみは考えていたより遥かに深い。自らの内のみには抱えきれず、誰かにそれを吐露したくて、己を罰して欲しくてやって来たのだ。そして今、怒りに任せて有らぬことを口にしようとしている。
「そうです。某が――」
「よせ、助五郎!」
その時、襖の向こうが急に騒がしくなった。お縫が何やら喚き、どたどたと何者かが二人のいる部屋へと向かってきている。忠次と氏規は顔を見合わせ、氏規は刀に手をかけた。やがて、音を立てて襖を両開きに開き、一人の男が現れた。
「小五郎! お縫殿が来客があるなぞぬかして通してくれなかった故に、勝手に上がらせて貰ったぞ! いったい客とは誰だ」
緋色に染め上げた絢爛な衣を身にまとったその男の顔を見るなり、氏規が驚いたように声を発した。
「なんと、
「ほう、懐かしい名を。お主、今川の者か」
男は、まじまじと氏規の顔を眺める。
「んんん? なんじゃ、お主、助五郎か! 久しいのう」
男は仙岩斎こと、今川氏真であった。氏真は、家康により今川家が滅ぼされた後、北条や徳川の庇護を受け、いち文化人として自由闊達に各地の公家や好事家と往来をして過ごしていた。しばらく浜松を拠点にしていたが、いつの頃から京へと上った。どこからか忠次が隠居した事を聞きつけると、度々前触れも無く訪れるようになり、その度、お縫とひと悶着を起こしている。
「助五郎、流石に老けたのう。儂も歳を取るはずだ。今日は何じゃ。懐かしい二人が雁首を揃えて。さてはまた、お家がどうこうと、辛気臭い話でもしておるのか。止めろ止めろ! そのような些事は、竹千代に任せておけ。所詮我らは表舞台からは去った脇役よ。死ぬるまで生きるのみじゃ。よし、久しぶりに飲むか。おーい、お縫殿! 酒じゃ! 温めた酒を持ってきてくれ! そうじゃ、小五郎、お主、あれをやれ。お縫殿! 手ぬぐいに笊も頼むぞ!」
騒ぎを聞きつけたお縫いが顔を出し、氏真と何やら揉めている。その姿を見て、氏規は毒気を抜かれたかのような顔で忠次に話す。
「お元気そうで。いつもこうなのですか」
「うむ。こうだ。まったくもって元気な御仁よ」
その声を聞きつけたのか、くるりと氏真が踵を返して言い返す。
「なにが元気な御仁だ! 助五郎、元気なのは小五郎の方よ。こやつめ、お縫殿に介護をさせるふりをして懇ろになり、遂に
「なんと……それはそれは。誠にございますか」
氏規が忠次とお縫の顔を交互に見やると、お縫は耳朶まで真っ赤に染めて台所の方へと逃げて行った。氏真はそれを追いかけ酒の用意をせがみに行く。残った忠次は、ぼんのくぼに手をやると、「まあ、そういうことだ」と照れ臭そうに呟いた。
そして、咳ばらいを一つすると、居住まいを正した。
「助五郎」
「はい」
「とにかく短慮を起こさぬことだ。儂は盲だ。氏盛殿の事より他は、良く見えなんだ。それでいいな」
「はい。ありがとうございます」
氏規の瞳からは闇は消え失せていた。その瞳は、幼き頃よりよく知る助五郎の瞳であった。忠次が安堵していると、氏真がぶつくさ言いながら盆に乗せた徳利とぐい飲みを持って来た。脇には手ぬぐい、そして笊まで抱えている。
「お縫殿が恥ずかしがって部屋に行きたくないと駄々をこねるのじゃ。飲みたいなら自分で持って行けと言われてしもうたわ。まったく。よし、小五郎に助五郎、ともあれ今日は
「はっ」
「では、まずは儂が景気づけに……」
忠次は、手ぬぐいに手を伸ばして立ち上がる。そして、京の夜は更けていった。
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北条氏規は、慶長5年(1600年)まで生き永らえ病死した。享年五十六歳であった。氏規の遺領は、子の氏盛による継承が認められることとなった。その子孫は狭山藩主となり、明治維新まで家名を存続させた。
小田原城の巨松は、令和の時代になっても小田原城跡本丸に聳え立っている。かつて七本松と称された巨大な松も、現存するのは一本のみだ。それでも天然記念物に指定されたそのクロマツは、氏規がいた頃と変わらず、腕の立つ職人に支えられその雄姿を保ち続けている。
巨松を見届けよ 吉岡梅 @uomasa
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