調香師

深川夏眠

調香師


 地下鉄を降りる間際に懐かしい香りが鼻先を掠めた。しばらく忘れていたが、かつての恋人の匂いに似た何か。

 記憶が蘇った途端、胸を掻きむしりたくなるような物狂おしさに囚われて、居ても立ってもいられずデパートに駆け込んだものの、どれがなのかサッパリわからない。植物の香りで、甘くて、同時にピリッとスパイシーな感じもして、スッと頭の上へ抜けていくような、しかも、微かな酸味もあって……。

 香水というほどの重さや濃さはなかった。調べてみて、シャワージェル、あるいはポプリのたぐいだったのではないかと思い至ったが、アロマを言葉で表すのはとても難しい。

 ともかく、もう一度を手に入れたいと切望して悶々と夜を明かした。


 既存の香料を混ぜて自ら調合するかと考え始めたある日、路上で異変に巻き込まれた。

 行き交う人の叫び、悲鳴。慌てて駆け出した母親の指がほどけ、子供が転んで舗道に倒れ伏した。危ない……と思ったときには、その子に覆い被さっていた。身体のあちこちに激痛が走り、意識を失う間際、腕の中に、あの芳香を抱き止めていた。


 ナイフを振り翳した通り魔は数人の男性に取り押さえられ、警察に引き渡されたと、病院のベッドで聞いた。

 例の少年と母親が様子を見に来てくれた。利発そうだが恥ずかしがり屋らしい小学生が、まだ血の滲むような生傷のある膝小僧を掻きながら、たどたどしく語ったところによると、咄嗟に「お父さん、助けて!」と念じたのが利いたのかと思ったそうだ。父親は単身赴任中で、叶うはずのない願いだったが、代わりのヒーローを差し向けてくれたに違いないと考えている、とか。

 何度も礼を言って頭を下げる母と、照れ臭そうに微笑む息子が、あのフレグランスをやんわりと病室に振り撒いた。ラベンダーとヴァニラにシナモンを合わせた風な、この香りの元は、彼女が衣類の保管に使っているサシェなのかと察しがついた。

 問題は、カクテルに数滴溶かし込まれるビターズのように、そこへ僅かに混ぜ合わされた、アクセントとなる匂いだったが、どこから来るのか、もうわかっていた。


 男の子は翌日、一人で現れた。小遣いで買ったのか、お見舞いですとチョコレートをくれた。仲間とサッカーの練習をして、調子はバッチリだったと言いながら、今日は肘をってしまったと、浅い傷を披露した。

 袖口の微香と、真新しい血の匂いが得も言われぬコンチェルトを奏でる。ああ、これだ……と、患部を引き寄せ、鼻を埋めんばかりに近づけた瞬間、数年ぶりに脳裡に閃いたのは、湯上りの汗も引かない柔肌やわはだに血潮を迸らせた恋人の死に顔だった。




             perfumer【FIN】



*2019年10月書き下ろし

*雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/3MDE3NTo

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて無料でどうぞ。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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調香師 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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