あの夏レモネード

揺籃

第1話

レモネードとレモンスカッシュを間違える。今でも。


「歩(あゆむ)ちゃん、5番テーブル!」

「ハイ!」我に返り、返事をする。

 返事をした先に、あの人がいた。注文を通した焼きそばが上がったのだ。

 前髪を三角巾で上げ、むき出しになった額から、ぷつぷつと汗が吹く。その汗を腕で拭きながら、即席のカウンターに向かう。

 

 白いスチロールの器に盛られた、ソースの匂いと、海の香り。

 声の主から商品を受け取り、座卓に座ってる客にそばを渡す。目の先に広がる、人でごった返した海水浴場。

 ここも、夕方を過ぎると閑散とし、太陽が熱せられたガラスのようなオレンジ色になって海に熔けていく。

 今は、お昼の一時を過ぎたところ。しお水で焼けた体を沈めるために、あるいは喉を潤すために人はこの海の家にやってくる。

「おい、次!」

 どんどんと出来上がっていく品物を、ベニヤにピンで止められたゴザ敷きの床の上を、滑らないように歩いて持っていく。

 高校生になって、初めてしたバイトが、こんなにきついとは思わなかった。


 ほんの少し、家を離れたかった。

 親と大きなケンカをしたわけでもなく、学校生活も順調(フツー)で、友人関係も滞りがなか(テキトーだ)った。

 そろそろ、恋人と呼べる存在がいる同級生もいたし、夢に向かって一直線な子も、私みたいに帰宅部もほどほど混じった中の中レベルの学校だったから、楽も苦もなく本当に普通(なにもない)。

 学校帰ってきてからも、ポテチつまんで、横になりながら夕方の5時から始まる番組見て、母のおつかいでスーパー行ってきたり、ついでに夕食後のアイスもこっそり買って、お風呂入った後に自分の部屋で食べるのが幸せ、みたいな女子高生。

 これが私。

 充足感もない代わりに、なんの飢餓もない。

 テストの1点、2点の点数の上下くらいかな、落ち込むのは。

 ああ、平和だ。限りなく、平和。

 多分、家のレベルも中の中の中。

 賃貸マンションの一室に、「少しは家の事も手伝いなさいよ」と、毎日愚痴めいた説教をする母。

 就活中で殆ど話題のない兄。

 同じく口数の少ない、帰宅は毎日夜11時過ぎの父。

 その隙間に、私はいた。

 欲求(ほしいもの)も、何もない。

 同級生を見ると、キラキラしていてまぶしい。なんだか、なぜここにいるのかわからなくなる。

 このむずがゆい気持ち、ちょっとイライラする。でも、まあ、テレビとゲームと好きなアイドルで気を紛らせて終わる一日だって悪くないよ、うん。

 ……だけれど。

「もう起きないんだからこの子は」朝一番、おはようの代わりに放たれる言葉。

「ほら髪の毛といて」起きたばかりの私の背中に回った時には、母の手にはもうブラシが握られている。

 服を脱がされ、制服を着させられ、靴下をはかされて、自分の部屋から追い出される。

 そして家に帰ってきたら来たで、すぐさま「だらだらしていないで、買い物行ってきて」。

 友達と一緒に映画にでも行こうものなら「どこの子? その子大丈夫なの? 不良じゃないわよね。 その映画、どんな映画なの? 何時に帰ってくるの?」 

 母の心配は母自身の言葉で増殖し、その圧に耐えられなくなって、私に詰問という形で噴出する。

 私は、小学生じゃ、ないんだけど、なー。


 まあ、そんな言葉もそろっと呑み込む。なんとなく結果が見えているのだ。

 私が少しでも口答えをしようものなら、家事は放棄して大泣きするわ、家出はするわ、挙句に自分の実家に電話して自殺予告なんてこともやってのけるのだ。はっきり言って面倒くさい。

 兄のときも同じことをやって、大爆発をされたのをもう忘れてしまったらしい。

 いいや、忘れてたんなら、まだかわいいや。そのことで、母の圧は、一斉に私のほうに向かうことになった。

 「うちの親戚がやってるんだけどさ、海の家のアルバイト、やらない?」

 大して親しくもない同級生からそんな誘いがあったのは、高校2年生の6月の終わりごろ、期末が終わった土曜日だった。

 早雨間(そうま)明日香というその子の親戚は、普段は海辺の民宿を営んでいるが、例年7月から8月の間だけ、砂浜に続くその民宿の庭先で海の家を開業するというのだ。

 その話をされたとき、最初に、何でわたし? とおもった。クラスも違うし、本当に顔だけ知っているような子だったからだ。

「返事は明日聞くわ、はいこれ連絡先」

 自宅の電話番号とポケベル番号、旅館の住所を書いたメモを押し付けるように渡されて、私は学校の長い廊下の真ん中で一人、固まってた。

 そんな私とは対照的に、風のように去っていく明日香の長い髪をずっと見ていた。

 私は手紙折りされたそのメモを握り締めた。その手を見る。

「あの、私」

 再び目を前方に移したときには、明日香の姿はもう、なかった。


 次の日は日曜日。バイト、なんとなく断りそびれて、だけど、なんとなく、やってみようと言う気になって、親に話そうと思った。

 とたんに母の声が頭に響く「まだ早いわよ。 第一、家の手伝いもろくにしない子がどうやって仕事なんてするのよ。ジャマなだけでしょ」

 目を瞑る。

 ちょっと、泣きそうになる。

 目を開ける。

 どうせなら、一度に言った方がいいや、と両親の揃っている昼下がりを狙って、私はこの話題を出した。

「アンタに出来るの? 家の事だってろくに手伝いもしないのに」母の辛辣な言葉が、私の耳に刺さりかける。でも、母から言われることを予想していた私の耳の中はとてもふわふわで、言葉の針が刺さっても、するり、と抜ける。

「どこの誰ともわからない人のところに住み込みに行くなんて」

 やりたい事は、ダメだと言われる方が多いし、そのくせ覇気がないだの私があなたと同じ歳だったころは、とか。一体、私は何をしたらいいのだろう。

 別にやりたいことじゃなかったけれど。

 やっぱりだめかな、と思ったとき。

「いいんじゃないか」珍しく父が口を挟んだ。

「行くところの住所と連絡先は、言っとけよ。それと、同級生の子の連絡先な」

「ちょっと、あなた」

 父が母を見据える。母は黙った。

 足場をいきなり引っこ抜かれて落下するような感覚。

 毎度、反対されるのにはげんなりだけれど、肩透かしを食らったようならこの不安定さは、何だろう。

 体の力が抜けるような、ふらふらする変な感覚は、その後も何かあるといつもあった。


 母の言った通りだった。

 バイト初日、私は全く使い物にならなかった。品物をこぼすわ、計算を間違えるわ、散々だった。

 段々と無言になっていく明日香を尻目に、私はそこに居続けた。

「意外だった」2日目に、明日香は私に向かって言った。

「何が?」私は尋ねる。

「だってさ、文化祭の時、ものすごくそつなく動いていたからさ」

「ああ……」それでか、私に声がかかったのは。

 確かも、去年の文化祭では、うまく動けたと思う。

 うちの高校は、一年が物品販売や、イベントを、二年生は飲食店とイベントと場内整備を担い、三年生は受験もあり、自主参加という学校だった。

 しかも、それとは別に部活動でも、文化部は、それぞれ独自の出展をしていた。

 一年の時のクラスは物品販売をしていたので、本来なら私は、そちらの当番だけでいい筈だった。ところが何の因果か、入部してもいない、料理研究部のやっている喫茶店を手伝うはめになったのだ。

 きっかけは、料理研究部だったうちの担任だ。

「ごめん、お願い。ちょっとだけ助けて」両手を頭上で合わされて、頼まれた背景は、部員の欠席。急な発熱で倒れてしまったという。

 断るのが面倒だった、というか、なにかに反応するのが、とてもしんどい。

「いいですよ」

「うわっありがとっ! 助かるぅ‼」

 なぜこの人はこんなに一つのひとつのことに、こんなに反応できるのだろう。疑問に思いながら、言われたことはやろうと、差し出されたエプロンを受け取った。

 その時は、すべて、料理研究部の部長の指示があったし、当番は精々一時間程度だったので何とかなったのだ。

 朝の十一時から昼の三時までの仕事がこんなにキツいなんて思わなかったし、注文の取り方や席の番号を覚えて自分で動くなんて考えもしてなかった。

「ごめん」謝った。

「いいけど、大丈夫? 続けられそう?」明日香の言葉が、刺さる。でも、耳の中にあるクッションのお陰で痛くはない。

「何だったら」

「もうその辺にしとけ」声がする。

 焼きそばを作っていた、民宿の二代目、明日香の従兄弟がそこにいた。

「お前だって去年は、散々だったろ」

 赤面する彼女が、視界にはいる。

「今日はもう寝ろ……それと、アンタ。仕事なんだから、もう少し責任感もて」

 その人は、くるっと背中を向けて、後片付けに入る。

 明日香の言葉や態度より、その人の言葉の方が、チクリ、とした。

 

 二日目。少なくとも、焼きそばや、お好み焼きをひっくり返すことはなくなったものの、もたもたしていた私は、何度か明日香から、商品を引ったくられ、持っていかれた。

 びっくりしたけれど、忙しすぎて、立ち止まっている隙もなかった。

  夕方、明日香は、一足早く調理場に行った。

 私は、がらがらになった海の家の掃除をしていた。ベニヤとビール瓶の箱でつくった、間に合わせのテーブルを台拭きできれいにし、ビニルござに上がっている砂や、食べかすなんかを箒ではわき、雑巾で拭いた。

「おつかれ」声の方向を向くと、二代目さんがそこにいた。手にはガラスのコップを持って。

「レモネード、飲める?」

 コトン、とテーブルの上にそのコップを置く。

 中には、爽やかな香りのする半透明の飲み物。

「……レモンスカッシュ?」

「レモネード、だね」二代目さんは笑った。昼はとても怖かったけれど、今はそうでもない。

「間に合わせで作ったんだけれど、よかったらどうぞ」

 ありがとうございます、とつっかえながら言う。

 鼻を通り抜けるレモンの香り。その後に来る酸味と甘み。

 身体が透き通る。

「おいしい……」

 ふっとわらって二代目さんは言った「労働の後の一杯はうまいだろう?」

「はい」つられて笑う。

「バイト、初めて?」

「ハイ、そうなんです……迷惑ばっかりかけて」しゅん、となる。

「一日目よりぜんぜん動けているよ、大丈夫」

「ありがとうございます」

「この後、急に予約のお客さんが増えたんだけれど、動けそう?」

「あ、ハイ」

「じゃ、一休みしたら、頼むよ」

「は……」いと言おうとしたら。

「護!」明日香の声がした。

 二代目さんは、まもる、というのか、ということをその時に初めて知った。

「おばさんが呼んでるよ、早く焼き方に回ってくれって」

「あ、うん分かった。じゃ六時になったら夕食の給仕の時間だから、頼むね」二代目さんはそう言った。

「ハイ」ペコリ、と頭を下げた。

 二代目さんが家のほうに向かう。その背中に明日香が付いて行く。

 ちらり、と明日香がこっちを見た。

 強い目だった。たった一つの、大切なものを守ろうとする。

 その時、何を言わなくても、分かった。

 明日香が、二代目さんのことを、すきなのだと。

 それと。

 私がとてつもなく、からっぽなのだという、ことを。

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