銀色の刻
内容:四月を機に新しいことを始める女子大生の話です。
くしゅっ
これで何枚目だろう。
そう思いながら私は本日2袋目のポケットティッシュを開けた。
こうなると安いマスクでは気休めにもならない。
1枚200円くらいするマスクなら効果はあるんだろうか。
あったとしても、一人暮らしを始めて2週間の女子大生に買える代物ではないけれど。
花粉症は嫌いだけどこの季節は嫌いじゃない。
さくらやチューリップはベタだけど好きな花だし、暑過ぎず寒過ぎず、こうやって外に出るのにもちょうどいい。
そして、何と言っても春は生命力に満ち溢れているー何て言うと少しおおげさだけど、フレッシュな気持ちになるのは私だけではないだろう。
新しい教室、新しい教科書、新しい制服…そして今年からは新しい街。
新しいものが身の回りに溢れるこの季節は、何か新しいことを始めるのにも打って付けの季節だ、とずっと思ってはいるけれど、ここ数年何か新しことを始められた試しがない。
高校入学のとき、思い切って中学とは違う部活に入ろうと思ったけど、結局は同じ部活に入ってしまった。
もちろん部活は楽しかったけど、春になると何か心に引っかかる感覚があった。
小学生の頃は、やりたいことがあれば悩むことなんてなかった。それが大きくなるにつれて、だんだん難しくなってくる。
これ自体は別に悪いことじゃないと思う。ある意味それが大人になるということでもあるから。
ただ、自分のことぐらい自分で決められる大人でありたい。
新しいことを始められないわだかまりは、自分のことさえ決められない大人へ近づいてることへの不安だったのかもしれない。
でも、そんな不安とも今日でおさらばだ。
私は今日から新しいことを始める。
今まで触ったことさえない楽器ートランペットを。
音楽経験は小学校低学年のときにピアノを少し習っていただけで、金管楽器は完全な初心者だ。
大学生なってから新しく楽器を始めるなんて、我ながら思い切ったと思う。
ちゃんと続けられるか、そもそも音が出せるようになるのかと不安はいろいろあるけれど、まずはこの決定ができただけでも嬉しい。
音楽教室に着く頃には日が少し傾き始めていた。外観は古そうに見えるが、建物の床は木目になっており地元の小学校のような温かみを感じる。幼稚園の生徒に向けてか、入って正面の階段の壁にはかわいらしい動物が楽器を演奏している絵が貼られている。
1階は打楽器のレッスンスペースらしく、階段横の部屋にはドラムや名前の分からない打楽器がいくつも並んでいる。自分が場違いのような気がして、何だか緊張してきた。
事務室は2階にあるので階段を上る。
今日ここに来たのは注文していたトランペットが到着したと連絡をもらったためだ。
1週間後のレッスン初日にもらっても良かったんだけど、早く触りたくて電話をもらって10分後には家を出ていた。
事務室の前に立つと、中にいる事務員の女性と目があった。
年齢は40歳前後だろうか。子供の頃お世話になった学童保育の先生に少し似ている気がする。
女性は軽く微笑んで席を立ち、楽器メーカーの名前の入ったケースを私のところまで運んで来てくれた。
「ちょうど在庫があったようで早く届きました。中を見てますか?」
女性が柔和な表情で尋ねてくる。
もちろんお願いしますと即答した。
女性は慣れた手つきでケースの留め具をはずしていく。女性も嬉しそうに見えるのは私の思い過ごしだろうか。
私にとっては一大事だけど、この女性にとっては1年に何十回もあるうちの1回に過ぎないはずだ。
営業スマイルかもしれないけれど、こんなふうにケースを開くのを見ていると、私の期待もますます大きくなる。
ケースの中には銀色のトランペットとマウスピースが綺麗に収まっていた。
テレビで何回も見たことはあるし、吹奏楽部の友人が演奏しているのを間近で見たこともある。
でも、目の前の銀色の楽器からはそのどちらとも違う印象を受ける。
鈍く光る銀色には無言で迫ってくる迫力がある。でも、その中には優しさも感じられて嫌な気はしない。
「最近のケースはとても便利にできてるんですよ」
そう言うと女性はケース裏のファスナーをはずし始めた。
中からショルダーベルトが出てくる。私は手に持つことをイメージしていたけれど、最近のは肩にかけられるようにもなっているらしい。
「自転車を利用される学生さんは良く肩にかけられてます。」
事務員さんはベルトの長さを調節して私の肩にかけてくれた。
1週間後の19時にお待ちしておりますので。
女性はそう言うと自分の席へ戻っていった。
決して苦しくはないけれど、見た目よりもずっしりとした重さを肩に感じる。
ふとレッスンスペースの方を見ると、ガラス戸には楽器ケースを背負った自分が写っていた。
嬉しいけれど、素直に表情に出すと恥ずかしいから我慢しているような表情になっている。
そんな自分に思わず口元が緩んだ。
失礼します、と小声でレッスンスペースのガラス戸を開いた。
無人の部屋には西日が差し込み、窓の外ではときおり桜の花びらが舞っている。
くしゅっ
ほっとしたのかくしゃみが出た。慌ててポケットティッシュを取り出す。
やっぱり花粉症は嫌いだ。
でも、私はこの季節が好きみたいだ。
日常短編集 逢内晶(あいうちあき) @aiuchi0618
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