第328話年越し外伝.母娘の年末


「玲奈も来年には中学生ね」


 ベッドの上に横たわる母がそんな言葉を口にする。

 焦点の合わない目は瞳孔が開きっぱなしで、もはや手足の動かし方すら忘れてしまった姿は既に死人の様でした。

 頑なに私と父への想いを譲らない母は、こうして生命活動に必要な記憶領域すらも侵食して終わりかけている。


「来年の干支は――干支ってなんだったかしら?」


 自分が話そうとした内容すら忘れ、そして直前まで話題に出そうとしていた単語の意味も一秒後には消去される。

 それは今こうしている間にも私という最愛の娘との思い出を積み重ねている為に、一秒でも私との会話を記憶する為に、自分の中に詰め込む為に母は優先度の低い情報を棄てて空き領域を作る。

 母を長生きさせたいのならこれ以上もう会わないように……そう医師や専門家から忠告されましたが、母本人がそれを拒絶しました。

 愛する二人と離れたくない、一秒でも長く一緒に居たいとお願いする母に私は肯定も否定も口にせず、ただ黙って傍に居続けました。


「見て、空の色が段々と変わって来ているわ」


「そろそろ夕方です」


「夕方? 玲奈ちゃんは物知りねぇ」


 何度も何度も、主治医や友人達から新しい記憶領域を増設する様に言われても『この記憶は私だけの物だから、他の子には渡せないわ』と拒み続けていました。

 生命活動に必要な情報だけでもと提案されても、母はあくまでも『人の親』である事に拘り続けていたようです。

 その結果がこれです。私に色んな事を教えてくれていた母は、その豊富な知識の大半を……それどころか一般常識まで失い始めている。


「? ……どうしたの? どこか痛いの?」


「いえ……いえっ……」


 ここまで来たら終わりはもうすぐそこだと主治医に宣告されていました。

 立つ、座る、物を持つ……それだけの動作が母にとっては酷く困難で、高度な技術を必要としました。

 身体機能に関する情報がまず先に失われ、そして次に母が必要ないと感じた映像記憶、無駄な知識が……今まで蓄えてきた諸言語や科学知識よりも、母は私と雑談する為だけに一般常識だけは最後まで残していました。

 口と喉以外の動かし方を忘れた母が、最後に残した会話能力すら棄てようとしている。


「なんでも……ありません……」


「じゃあなんで泣いてるの? お母さんに言ってごらんなさい」


 このまま病状が進行すれば一ヶ月も経たずに声帯機能が失われ、そして視界か聴覚のどちらかが、その次は残された片方が、最後に記憶か生命維持か選択を迫られ――母は自殺するのでしょう。

 私の小学校の卒業式まで保ってくれるのか、その後の中学校の入学式はどうなのか……母との別れが近付いている事を、じわじわと実感していく。

 現実が内に染み込んでくるのに合わせて外に押し出されるように、自然と涙が溢れて私の頬を濡らしていく。


「ただ少し、寂しくなっただけです」


「そうなの? ……もう、あの人ったら今日も来ないつもりかしら」


 私の寂しいを誤解した母が父への愚痴を吐く。

 なぜ私の寂しいで父を連想してしまったのか、それは母自身が父に会えなくて寂しい想いをしているからだろうと何故か察する事が出来ました。

 母がこれだけ会いたがっているのに、一向に顔を出す気配のない父に対する憎しみがドロドロと積み上がっていく。


「会いたいな――」


 ポツリと洩らされた呟きに、膝の上で拳を握り締めました。

 母がどれだけ会いたいと願っていても、あの男は忙しそうに様々な場所へと顔を出している。

 年末年始は特にそうで、色んな付き合いを蔑ろには出来ないらしいのです。

 母が何よりも大事で、何よりも優先順位が高い私とは絶対に相容れない価値観だと思いました。


「恨まないであげてね」


 不意に投げ掛けられた母からの言葉――表情を喪っているのに、その声色だけで眉尻を下げて困った顔をしている気がしました。

 在りし日の母の表情を思い浮かべると同時に、表情制御を喪失しても母の感情は、心は、私とは違って豊かでころころ変わるのだなと再認識しました。


「あの人も必死なのよ」


 何が? 何に対して必死なのか? それは母に寂しい思いをさせてまでする必要があるのか?

 そんな言葉を出し掛けて、ただ母を困らせるだけだと悟って必死に呑み込んだ。


「……お父さんこと嫌い?」


 その問いに数秒ほど考え込み、首を傾げながら答える。


「……わかりません」


「……そう」


 憎しみも、恨みもある……けれど嫌いなのかと問われると、現段階ではよく分かりません。

 私と同じくらい母から愛されている父に対して、嫉妬や羨望に近い感情は抱いている気がします。

 母の愛を独占したいのに、私以外にその半分を持って行っている相手が居ると思うと『邪魔だな』という考えが自然と浮かんでくるのです。

 敵対はしていませんが、恐らく父は私にとって敵ではあるのでしょう。


「お母さんね、やりたい事があるの」


「何をやりたいのですか」


「家族仲良く、親子三人で手を繋いで笑うの」


 そう言ったっきり、母は眠りに就きました。

 いつも突然電源が落ちるように眠るので、母が眠る度に私は恐怖を覚える。


「……まだ、大丈夫……まだ生きてる……」


 胸に耳を当て、まだ鼓動が聴こえる事に安堵しながら母にしがみつく。

 日々活動時間が短くなっていく中で、夕方まで起きていられたのはとても珍しいです。

 今年最後の日という事で、出来るだけ長く父が来るのを待ちたかったのでしょう。


「――私は、お母さんだけで良いです」


 無意識のうちに吐き出された言葉には、隠し切れない願望が宿っていました。






「……あの男の事は忘れて、私と長く一緒に生きてくれれば良かったですのに……」


 目が覚めると同時に、そんな愚痴がポツリと溢れ出た。

 机に伏していた顔を上げれば、母が映った写真立てが目に入る。

 視線を横に向ければ、別邸の窓の向こうで人工の雪が降り積っているのが見えました。

 耳を澄ませば多くの人の話し声が聞こえ、そういえば本邸の方で上流階級の方々が集まる催しがあるのでしたと思い出す。


「相変わらず、母以外の方と過ごすのですね――」


 腹の底から吐き出された言葉には、数年前には無かった明確な〝嫌悪〟と〝敵意〟が宿っていた。

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ジェノサイド・オンライン 〜極悪令嬢のプレイ日記〜 たけのこ @h120521

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