盈月
三津凛
第1話
たとえば、私が知らない家に行ったとき。
そこには飲みさしの紅茶がまだ湯気を立てて置いてあるだろう。焼菓子の一つもなく、ただ湯気を立てる紅茶があるだけだ。
机は素っ気ないほど質素で、飾り気がない。
ただ紅茶があるきりだ。
どうしてその紅茶が飲みさしのまま忘れられているのだと、分かるのか。
カップの淵に、紅がほんのりとついているからだ。婦人の唇の形がそのまま乗っている。私はその桃色に、ぞっとする。
性癖が私の背骨をなぞる。
少しそこに近づくと、机の上には開いたままの文庫本が置いてあることに気がつく。
私はそっとにじり寄って、なにが書いてあるのかを本能的に読もうとするだろう。それはなにか犯罪について書いてあるのだろう。無数の屍体と新聞の切り抜きが几帳面に貼ってある。私はそれを手に取って、しげしげと眺める。言語はばらばらで全く読めたものではない。途中からそれは日記に変わって、尻切れとんぼに終わっていた。そして、まだ書きかけの文章を跨ぐようにして口紅で大きく書いてある。
Bye,Bye.
だがそこで全てが暗転する。
私は住人に会うこともないまま、そこから放逐されるのだ。
たとえば私が、見知らぬ駅に行ったとき。
私は気分が優れなくて、座り込んでいる。私はこの時幽霊だったのか、無数の人たちが私の身体をすり抜けていくのをぼんやりと眺めていた。男たちの重そうなコート、女たちの軽薄なスカートのひらめき。学生帽、スカーフ、ネクタイ、ズボン……。
ふと隣を眺めると、足のない障害者の男が私と同じように群衆を他人事のように見ている。やがて彼は楽器を取り出して、何かを奏で始める。どこで手に入れたのかそれは上等なヴァイオリンで、その艶やかな木目が不躾なほど輝いている。蜂蜜色のヴァイオリンはこの薄汚い障害者には全く不釣り合いで、私は腹を立てた。
障害者の周りには自然と人だかりができて、私は惨めな思いに囚われた。
彼がひとしきり群衆から相手にされた後で、彼は不恰好に歩き出した。足のない彼はさながら小太りの芋虫のようである。ずりずりと這いながら、彼は電車を捕まえるようだ。
彼がようやくホームの淵に辿り着いた頃に、私は急に力を得て駆けて行った。
そして、無抵抗の彼を思い切りホームの向こうへと蹴り落とす。
電車が疾走して、彼は悲鳴をあげる間もなく、ばらばらになっていった。だがそこで全てが暗転する。私と私の罪は全てが漆黒の向こう側へと放逐される。
たとえば私が、知らない土地を歩いていたとき。
気がつくと空は盈月で、私は一人の子どもをおぶっている。
私は行き先も分からないまま、子どもをおぶって歩き続ける。歩き続けると、この子どもがなんなのか次第に分かってきた。
知恵のいくらか遅れた子どもで、目は見えないはずだった。どうしてそれを知っているのかって、この子は私の子どもであるからだった。
子どもは石のように重くて、私はそれを憎たらしく思った。
もうすぐ歩けば大きな杉の木が見えるはずだ。そこでこの子を下ろして、置き去りにしてしまおうと考えた。
「お前が私を殺したのも、ちょうどこんな晩のことだった」
背中の子どもが老成した声で呟いた。
私は大きな杉の木が見える前に、子どもを背から下ろして土に埋めた。子どもは歳の割に小さくて弱くて、痩せていた。だがそこで全てが暗転する。
私の子どもも、子殺しも歳月も放逐されるのだ。
気がつくと、私は病院にいる。
どこが悪いのか、見当がつかない。だから私は夜中に散歩に出る。目が醒めるのが、決まって夜中だからである。
注射も管にもつながれていない私は、本当に患者なのであろうか。
いくつかの部屋にはまだ灯りがついている。
ひと家族が集まって、今しがた死んだばかりの老人を取り囲んでいる。私は彼らの哀しまない横顔を凝視する。そうすると、心の声が聞こえて来てその醜さに慄然とする。
彼らは故人よりも、遺された金のことを真っ先に考えているのだ。
また別の部屋では両親のいない子どもの癌患者に、看護師が独りきり子守唄を歌っていた。そこは電気でなくて、どうしてか蠟燭だけが灯されている。子どもの頭には髪がなくて、まるで出家をしてしまったようだ。
両親がいないのが寂しいのか、はたまた死が恐くて堪らないのか。その傍で看護師が歌う。
蠟燭が橙に染まって、揺れる。
「ラ・トゥールの絵のようだ」
私の無意識の呟きとともに彼らが振り返って、一切が消える。
また気がつくと、私はただ独りきりでいる。
見憶えのある、他人の部屋。飲みさしのまま忘れ去られた紅茶。
知らない駅。名もなき足のないヴァイオリン弾き。
盈月と、土に埋めて殺したはずの私の子ども。
明かりの灯る病室。浮かぶ醜悪な遺族の横顔、心の声。ラ・トゥールの絵のような看護師と癌に侵された子ども。子守唄。蠟燭。
記憶の断片。
ありもしない、過去の妄想、誇張。
未来への不信。
全てを粉々にしてから、旅行鞄に詰める。
嘘もなければ、真実もありはしない。
そして再び、私は戻る。
貨物列車の中に、私は潜んでいる。行き先は分からない。そして、切符など初めから購わないままに乗り込んだ。
旅行鞄にはがらくただけが詰まっている。
私はそれを胸に抱いて、貨物列車に潜んでいる。
煙のなびくさま、車掌たちの合図。警笛、蒸気。時折過ぎる牧場と羊たちの鳴き声、牧人の笛。冴えるような緑。迫る雨雲と、遠くの嵐。
私はそれらを胸いっぱいに吸い込んで、見送る。貨物列車はどこにも止まらないまま私をどこまでも運んで行くだけだ。
私は本当に私が誰なのか知らない。
ただ独りきりで、そこにいた。
他人はみんな、私を知らずすり抜けていく。
私は亡霊で、透明だった。
幻想でありながら、幻想でないものだった。
静かに旅に出たようで、いつの間にか寝室で寛いで靴を脱いでいた。
私は私であって、私でない。
本当は誰なのか、誰も知らないままそこにいる。
いつまでも独りきりで、終わりもなく。
そうやって、生き続けていた。
盈月 三津凛 @mitsurin12
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