第7話 宮原俊之の場合
「宮原俊之さまですか?」
横からぬっと現れた女性に声をかけられ、男は思わず足を止めた。
小顔にしっかりと化粧を施した顔つきは、鎬を削る高級クラブが密集するこの一帯では当たり前に目にするものだが、どこか野暮ったいグレーのスーツ姿であることから、男は女の素性を計りかねて、用心深く言葉を返した。
「そうですが・・・」
女は軽く会釈をしながら左右を一瞥すると人波を避けるように男を植え込みのほうへと誘導した。
「赤沢瑶子さまがお会いしたいとのご希望を預かって参りました」と女が事務的に切り出したところで、男は急に顔色を変えて言葉を挟んだ。
「僕には覚えのない女性です。人違いかと思います」
そう強く言い放つと、人波へ戻ろうとからだを翻しかけたが、女が敏速な動作で行く手を阻んだ。
「もうすこしお聞きください。赤沢瑶子さまは・・」
「お聞きすることは何もないんです。そこを通してください」
制止を振り切って進もうとする男は女の次の言葉で動きを止めた。
「生前にご連絡をとろうとなさいましたが、それが叶わずご無念だったようです」「えっ!」
固まったように動かなくなった男の口から無機質な言葉が流れた。
「どういうことです? よくわかりませんが・・・」
男の頭の中にふわーっと靄が湧いて白一色の景色となった。
生前・・・ということは、瑶子が故人ということか?
死んだのか?
いつ?
呆然とする男の顔を撫でるように、女の言葉が滑っていく。
「ご存知ではなかったようですね。
赤沢瑶子さまは四月に亡くなりました」
「病気ですか? 事故ですか?」
男は言葉を絞り出した。
「わたしは・・・存じ上げません。
わたしは・・・宮原さまが赤沢さまのご希望通りにお会いになられるのか、或いは、お会いになられないのか、それだけをお聞きするために参上いたしました」
事情が飲み込めないままに、男は食い下がり始めた。
「赤沢・・・赤沢さんが亡くなる前に、あなたは彼女から希望を聞かれたのでしょう。彼女はどのように亡くなったのか、それを伏せる理由がわかりかねますが」
女は怯む様子も見せず、小憎らしいほどに冷静な口調を変えない。
「わたしは赤沢さまから生前にご希望をいただいたのではありません。
赤沢さまは、奥日光から那須へと続く紅葉を心の底から美しいと感じました。
車窓から見たあの燃えるような景色は忘れられません。
ガス欠で車が止まってしまう、そう叫びながら、おっかなびっくりでガソリンスタンドを探し回りましたね。ようやくガソリンを補給して、笑顔で口にしたコーヒーは格別でした」
芝居がかった調子の言葉は、混乱する男を遠い記憶の淵へと押し戻した。
「言葉では伝えきれないことがあります。
でも、死んでその言葉さえ失うということは、自分の意思を伝える手段を最早持たないということです。狂おしいばかりの後悔にかられます」
朗々と言葉を紡ぐ女を前にして、男は気力を奪われたように口を閉じている。
瑶子が死んだというのは本当なのか?
生前に希望を聞いたということではないなら、死んでから聞いたということか?
何故あんな昔のことを知っている?
自分と瑶子しか知らないことだろう。
そもそもこの女は何だ! 誰なんだ?
男の頭の中で風が渦を巻いている。
白い靄がぐるぐると撹拌されて灰色の世界へと変わっていく。
ああ、瑶子、君は本当に死んだのか? もういないのか?!
遠い昔のことだと決めつけて幾度も封印したはずの思い出が心の隙を見つけて顔をのぞかせる。
かつて妻であった女が知らぬ間に故人となっていたのであれば、やはり冷静ではいられない。
瑶子との出会いは宮原が社会人になってからすぐのことであった。
今ではセピア色に変色した時代。
当時は忙しかった。
”ブラック”や”パワハラ”といった言葉にも馴染みがなかった時代。
仕事がすべてに優先するという社会の規範。それを疑問に思う少数者は白い目で見られた。この国もまだ上り坂にあり、忙しさは幸せの鍵であった。
みんながみんな休みを求めるよりも暇になるのが怖くて働き続けていたような時代であった。
若く体力もあったとはいえ、連日の残業疲れもあって、宮原は土、日曜も会社の独身寮でごろごろしていることが多かった。
その日は、「たまにはおまえも外へ出ろよ」と同僚たちに誘われて、電車を乗り継いで池袋へ向かった。
スターウォーズの映画を見て、焼き肉を食べてから、当時流行りであった大型パブへと繰り出した。店が入っていたビルはバブル崩壊後に建て替えられて跡形もないが、当時は女子大生のバーテンダーが売りの店でマスコミにも取り上げられてなかなかの盛況ぶりであった。
宮原はそこでカウンターの向こうで甲斐甲斐しく働く瑶子に出会ったのである。
近くの大学に籍を置いて、週三日ほど学費の足しにと働いていた瑶子は、笑顔を絶やさず明るくはきはきと男同士の会話にも臆することなくユーモアを交えて渡り合っていた。見た目も話し方もいかにも当代の女子大生然としていたが、煙草を取り出すとすかさずライターの火を差し出すところなどは、アルバイトらしい甘さがなくプロ意識の片鱗さえ感じられたものだ。
父親が昨年末に他界、福岡の実家では姉が病の母を看病しており、仕送りは期待できないために実入りの多いアルバイトを探してこの店に辿り着いた、といった身の上を堂々と明るく語る瑶子に引き込まれて、全員が仕事の悩みや会社の不満をぶちまけて酒が進んだ。
「おまえも何か喋れよ! おとなしいじゃないか!」と、聞き役に徹していた宮原にお鉢が回る頃には、酩酊して居眠りを始める者も出ていた。
座が半分白けかけたところで、通り一遍の話をして、受けぬと思って放ったジョークの落ちに思いがけず瑶子が大笑いをしてくれたことが救いであった。
店を出る時には、「またいらしてくださいね」と、ぴょこんと頭を下げた後で「わたし、土、日と水曜日に出てますから、お忘れなく!」と付け加えた時のはにかんだような笑顔が、その後しばらく宮原のまぶたに焼き付いた。
物静かなほうで、何事につけても考えてから行動するタイプの宮原にとって、瑶子は自分の対極に近いタイプと思えたが、それが眩しいほどに新鮮であった。
翌週ははやる気持ちを抑えたが、一週置いた水曜日には翌日の残業過多を覚悟のうえで早めに退社して池袋へ向かった。
初めのうちこそ会話もぎこちなく、思うようには弾まなかったが、幾度か通ううちに構えることなく親密に会話を交わせるようになっていった。
瑶子は気丈で勝気な性格であろうと、宮原なりに”九州女”のイメージを膨らませていたが、親しくなるにつれて細やかな内面に触れることも多く、女性としての魅力に取り込まれていった。
「高崎なんて電車ですぐでしょ。宮原さんが羨ましい。福岡はさすがにちょっと行ってきますというわけにはいかないわ」
「でもね、群馬の山奥なんか、大都会の福岡とは比べものにならないよ。ほんと田舎なんだから」
こうしたお決まりの故郷談義はすぐに音楽、映画からプロスポーツ等へと、お互いの趣味の分野に取って代わられたが、瑶子といると、宮原は自分でも驚くほどに饒舌になった。
瑶子は自称ミュージカル狂で、劇団四季の公演にはすべて足を運んでいた。
切符が取れないと聞けば協力していた宮原も、そのうち瑶子に同行するようになりすっかり感化されてともにミュージカルを語り合うようになった。
一方、小学生以来西武ライオンズファンの宮原は、気の進まぬ様子の瑶子を所沢球場へ連れ出すうちに、二人そろって監督の采配や選手のプレーについて議論を戦わすようになった。
大学卒業後は故郷に帰る予定であった瑶子は、実家への仕送りを条件に姉とも話し合い、東京での社会人生活を選んだ。
宮原は瑶子が卒業後も東京に留まることを聞かされて大いに安堵したものだが、ほぼ毎週末にデートを重ねていたものの、二人が将来について語り合ったことはなかった。
不動産会社の営業マンとして三十までは仕事一筋と考えていた宮原にとって、所帯を持つことなどおよそ眼中にはなく、一日も早く先輩たちに肩を並べることが最優先であった。
瑶子のほうもアパレル会社の企画部門で仕事の面白さを知り、残業も辞さずに働いていた。
そうした二人にとって週末のデートは、仕事の息抜き、気分転換であり翌週への活力源であった。気が付けば、付き合いを始めて四年近くになった頃、二人の間に思いがけぬ風が吹いた。
瑶子は忙しさにかまけることはあっても、盆、暮れの帰省だけは欠かさなかった。父親の墓参りもあれば、老人施設に入った母の見舞いもあり、世話をかけ続けている姉への労いもあったからである。
夏が近づいていた。帰省の切符を忘れずに申し込まねばと、就寝前にペンを片手にカレンダーを見つめていると電話が鳴った。深夜の電話には不吉な予感があり、思わず身構えてしまうところであったが、先日姉からの連絡で母の病状が芳しくないことを聞いていたこともあって、意外なほど冷静に受話器を取った。電話口で姉の涙声を聞くと、翌朝一番で帰省する旨を伝えた。
宮原に母の葬儀について知らせておくべきだったろうかと自問したのは、嵐のような五日間を終えて帰京する車中であった。
一方、三十路まじかとなった宮原のほうも、攻勢を強める母親からの縁談話に辟易していた。「まだそんなことは考えられないし、相手は自分で探すよ」と、取り合わずにいたが、「男は所帯を持って初めて一人前なんだよ、俊ちゃんだってのんびりしているうちにすぐ四十男になっちゃうんだからさ、少しは考えなさいよ」と繰り返す母親に、やっぱり田舎は保守的だなと痛感していた。同時に、いっそ瑶子を紹介すれば、つまらぬ縁談話も来なくなるだろうし、将来のことを考えれば早いに越したことはなかろうと思った。農家の次男坊という気楽な立場ではあるが、両親、長兄夫婦、近隣の親類縁者との関係を考えれば、早めに顔見世しておくほうが賢明だろう。そう思うと、瑶子との間でこれまで具体的に将来について語り合ったことがないという事実に我ながら驚き、瑶子の気持ちについても自信がなくなった。
そうした雰囲気にならないのは、瑶子が自分をそうした対象とは考えていないからではないか。
何事にも白黒がはっきりしていて積極果敢に向き合う瑶子と、慎重派で理詰めの時分とは性格、考え方についても、その違いを実感している。その違いこそが山あり、谷ありであろう結婚生活では全方位に対応した利点になるものと考えている。磁石だって同極では反発し、プラスとマイナスの異極でなければくっつかないではないか。似た者同士では、順風の時こそ1+1が2どころか3や4になるかもしれないが、逆境には脆弱で共倒れになるのではないか。こうした宮原の考え方は、周囲の夫婦を観察すると肯定も否定も可能である気がしたが、明確に否定できない以上は、自説に固執したいと思うのであった。
さて具体的にどうやって、瑶子に話をしようかと考えだすと、途端に気が重くなり腰が引ける。要するに「結婚しようか」の一言を発するだけの話であり、難しく考えることはないし、予め結果などを考えてもしようがなかろうと、自分に言い聞かせた。週末が来ると、宮原は勢い込んでデートに臨んだが、先手を打ったのは瑶子のほうであった。
瑶子のほうも今日こそは宮原の気持ちを正確に知りたいと覚悟を決めていた。
帰省土産を渡しながら母の葬儀報告を始めた瑶子が、じっと宮原の目を見つめて尋ねた。
「一緒に行ってもらったほうがよかったのかな」
案ずるより産むが易し、とはこういうことかと宮原は成り行きに感謝した。
「何故知らせてくれなかったんだよ!」
「翌朝一番で帰省しなきゃいけないって気ばかりせいちゃって余裕がなかった」
「ご愁傷様、ほんと大変だったね」
二人の話は堰を切ったように止まらなくなった。
互いの思いの丈を述べると、あとは一気に結婚を誓い合った。
「結果として、君のお母さんが僕たちの背中を押してくれたんだな。お会いしてきっちりとご挨拶をしたかったな」と呟く宮原に、瑶子は涙を浮かべて「わたしたち、もっと早くにこういう話をすべきだったのね」と悔やんだ。
だが、大雑把な時期を決めていざ結婚の準備を始めた矢先に、宮原の実家から反対の声が上がった。瑶子を両親、兄夫婦、親類縁者に紹介し、顔見世完了とばかりにひと安心していた宮原に、母親が代表役として「この結婚には賛成できない」と伝えてきたのである。
母親との長電話で聞き出してきみると、瑶子に対する評価は一言でいえば「気の強そうな女で温かみが感じられない」であり、「片親で育ち、親元離れて独り暮らしでどうにも家庭的とは思えないし、結婚後も働きたいなら何故結婚などするのだ」といった観念的なものであった。
父や兄にも個別攻撃を仕掛けてみたが埒は明かず、嫌気がさしてきた宮原に瑶子は”早期かつ根本的な解決”を求めた。
瑶子側、といっても実質的には瑶子の姉であったが、彼女が両手をあげて賛成してくれたこともあり、結局のところ二人は駆け落ち同然に二人だけの結婚式を挙げて賃貸アパートにささやかな新居を構えた。
宮原の実家との付き合いは一方的な年賀はがきの送付だけになった。
友人の「子供でもできれば孫の顔見たさにおふくろさんのほうから寄って来るよ」といった体験に根差したエピソードを信じようとしたが、瑶子の希望もあり子供は数年後という約束で二人ともにこれまで通り仕事に没頭した。
逆境の中ではあったが、それが却って二人の結束を強めたこともあって、結婚生活は順調に滑り出した。
親の反対を押し切って結婚しました、と報告する先々で、「君は保守的だと思っていたけど違うんだね、なかなかやるじゃないか」あるいは「一途なとこがあるんだねえ、意外だよ」と慎重居士、純情派といったこれまでの周囲の見方を大きく裏切ったようで、宮原にとっては快感でもあった。
結婚前の約束通りに仕事に精を出していた瑶子は、忙しさの点では宮原にひけをとらなかった。とりわけ繁忙期の平日には夫婦そろって食卓を囲む機会はなく、会話も土、日に限定された。
いつの間にやら歯車は逆回転を始めていたのかもしれない。
時間に追われる中で、瑶子は罪の意識を抱えながらも配慮や思いやりを置き去りにして、剥き出しの感情を宮原にぶつけることが多くなり、荒々しく浮き彫りになる考え方の違いや、性格の違いにも苛立つことが多くなった。
宮原は、そうした瑶子に懸命に寄り添うことで二人の間に忍び寄る不穏な影を抑え込もうとあがいていたが、小さなすれ違いは間もなく大きな溝になり、やがてつないでいたはずの手が相手から離れていった。
結婚生活は五年ほどで破綻した。
子供がいなかったことが寧ろ不幸中の幸いで、二人はそれぞれが自分の行く末だけを念頭に方向転換を果たした。
宮原が独り身に戻ってから当時を振り返る中で、やはりすれ違い生活が二人の歯車を狂わせたのだと後悔したものだが、それが一因ではあっても主因ではないと考えている。結婚生活の清算に際して多くの夫婦が口にする”性格の不一致”という言葉が決して世間体を繕うためだけの方便ではないことを実感したのである。
同じ屋根の下で暮らしてみると、宮原は瑶子との間で、そもそもの考え方、ものごとの捉え方、対処の仕方等々で、違いを肌身に沁みて感じるようになった。
それは瑶子にとっても同じであったろう。
いずれ夫婦として流れていく時間がその違いを埋めてくれるものと安易に考えていたが、そうした度量が出来ぬうちに小さな池が氾濫した。
あれから二十年だ。
自分は独りで歩いてきたが、瑶子はどうだったのか。
再婚をして子供がいるのかもしれない。
力づくで底に沈めていた記憶の断片が次々と浮かび上がってくる気配を感じて、宮原は思わず頭を振った。
昔のことだ、昔の・・・
女の言葉で我に返った。
「そろそろお決めいただかねばなりません。
お会いになられるのか、お会いになられないのか、お気持ちをお聞かせください。
わたくしは二度と宮原さまのお目に触れることはございませんし、宮原さまのご記憶に残ることもございませんのでご安心ください」
何を妙なことを言っているのか!
宮原はぼんやりとした頭のまま、女に向かってぶっきらぼうに言葉を投げた。
「好きにしていただいて結構! 会えというなら会いますよ」
何と大人げない言い方だろう。
口に出してから気がついて気恥ずかしさを覚えた。
会いたいという気持ちが無意識に言葉になったのか。
女はそうした宮原の心の動きなどお構いなしの様子で、大きく頷くと、ぱっと踵を返して無言のまま歩みを速めた。
何だ、挨拶もなしか!
そう思う間もなく、女は人の波に消えていった。
狐に化かされたか。
足元までがふわふわするようで現実感がない。
平気な顔をしてひとの過去をほじくり返しておきながら、言ったことの責任もとらない小娘を追う気持ちも、非難する気持ちも湧かない。
だいたいあそこまでひとのことを知っているとは、いったいどこの誰だ、と思うことにも不思議と執着できない。
訊きたい、いや問い詰めねばならないことは沢山あったが、どうでもよいという気持ちが先に立つ。
瑶子が死んだ、と聞いた衝撃で胸のうちにぽっかりと大きな穴が開いて、それが益々大きくなっている。
それが事実かどうかも分からないというのに、息苦しくてとてつもない疲労を感じた。宮原は家路を急ぎ、帰宅するとベッドへ倒れ込んだ。
「ほら、きれいね。絵の具を流したみたいに、赤、黄色、橙色・・・
来てよかったぁ、命の洗濯だわ」
瑶子は上ずった声で車窓から四方を眺めまわしている。
「うん、きれいだね。でも緊急の問題は、もうすぐガス欠だということなんだ」
いくつかのガソリンスタンドを通過してきたが、見事な景色に感激するあまり、「次のスタンドでいいか」と繰り返すうちに道路沿いが閑散としてきた。
ガソリンの残量表示にはいつしか注意ランプが点灯している。
「何もないわね。どんどん奥まっていくみたい」
「やばいね、これ。もう少し様子を見て、スタンドがなければU-ターンするか。でもそうすると旅館に着くのが遅くなるな」
「とにかく、もう少し行ってみましょ。何かちょっと冷えてきた? ああ、熱いコーヒー飲みたくなっちゃった」
フロントガラスに映る景色に変化が見られた。
光が弱まり、静かに闇が迫ろうとしている。
もはや紅葉をめでる気持ちも萎えて、宮原は多少の焦りを感じ始めていたが、隣の瑶子はじっと前方に目を凝らしてナビゲーターの役割に徹している。
「あっ、あった! あのカーブを曲がるとよく見えるわよ。もう少しよ」
瑶子の言う通り、救いの神はすぐに視界に入った。
「やったぁ! ああ、よかった、よかった! このまま暗くなったらどうしようかと思ってたんだよ、ラッキー!」
「大丈夫! 冬山で遭難するわけじゃないんだから」
ガソリンを入れてもらう間、併設の店舗で注文した熱いコーヒーをすすった。
「ああ、あったかい、美味しい! 生き返ったわ。からだじゅうに血液が循環していく感じ。インスタントだと思うけど、このコーヒー、ほんと美味しいわ」
瑶子の赤く染まった頬を見ながら、宮原は「たしかに気丈で我の強い女性と見られることもあるだろうな」と、昨日実家を離れる時に、母が小声でもらした言葉を思い出した。
「わたし結婚しても仕事は続けるわ」
「いいよ、君の好きなようにすればいい。僕も可能な限り家事を手伝うよ」
「しめしめ、こやつはいい旦那になりそうじゃ」
「うん、頑張るよ」
二人は屈託なく笑い合った。
宮原の実家への挨拶も終わり、一山超えたつもりであったが、宮原が母からの電話を受けたのはその翌週であった。
「あの女性は俊ちゃんには合わないし、結婚してもうまく行かないんじゃないかって、みんな言ってるのよ。もう少しよく考えたら。わたしもそう思うのよ」
自分の考えを全員の総意に置き換えるのは母の常套手段であるが、こうなる予兆は実家を訪問した折の母と瑶子の会話から汲み取れた。
「瑶子さんもバリバリ働いているんでしょうけど、会社でもいろいろとご苦労おありでしょ、たいへんね」
「いえ、好きで入った道ですから、苦労などありません。すったもんだの挙句に結果が出た時には、それまでの苦労などすべて吹き飛んで達成感で満たされるのが快感です。また次も頑張ろうと意欲も向上します」
顔を輝かせて語る瑶子を複雑な表情で見ていた母の様子に、宮原は「まずいな」と直感した。昔気質の母には、男を立てて陰でしっかりと家庭を守るような封建色の強い女性が理想なのだ。
テレビのニュースを見ながら、「日本でも男女雇用機会均等法が施行されるんだから、女性がどんどん社会進出する時代になるんだよ」と解説した時にも、「日本は日本、アメリカなんかとは違うんだから」と言って取り合わなかったほどである。
話題には上らなかったが、瑶子が結婚後も仕事を続けるつもりであることは感じ取っただろう。
「キャリアウーマンとは男勝りで気が強く、家庭は二の次で仕事最優先」といった偏見を持つ古風な母と、現代女性である瑶子との間には、渡るに渡れぬ川があるのだ。
でもこればかりは考えてもしようがない。
実家との付き合いは最小限にして、自分たち二人は東京で生きていけばいいんだし、第一、結婚するのは自分と瑶子なんだ。
「随分と久しぶりだね」
「ほんとね」
「えーっと・・・いや、具体的な年数はやめておこう、歳がわかっちゃうから」
「ええ」
それだけ言うと、二人は無言のまま肩を並べて歩き出した。
どちらが先に口を開くのか、まるで我慢比べのように沈黙は続いた。
落ち葉がかすかな足音に共鳴するように小さな音を立てている。
しびれを切らしたように唇を動かしたのは宮原のほうだった。
「あれからどうしてたの?」
瑶子も問い質すように口を開いた。
「どうしてたと思った?」
「わからないよ」
「どうして?」
「考えないようにしていたからね。自分のことに集中して生きて来たんだ」
これまで色彩のなかった道がいつの間にかあでやかな紅葉であふれている。
「きれいね」瑶子が左右を眺めながらそう呟くと、調子を変えて宮原に語りかけた。
「わたしね、独り言を言うようになったのよ。そうなんだ、そういう歳になったんだ、と思って来し方を振り返ったら、何か空洞でがらんとしたトンネルみたいなものがあって、何があるんだろう、と薄暗い中を手探りでこわごわ歩いてみたんだけど、何もないのよ。そんなはずないわ、自分なりに一所懸命やってきたんだから、と思って必死に探してみたんだけど、何もないのよ。得心がいかないままに、それじゃいいわ、これからのわたしを待っている未来のほうへ歩いて行こうと思ったんだけど、行く末のほうは扉が閉まっていて進めないのよ。少しだけでいいから開けて見せてよ、と叫んでも自分の声がこだまするだけ」
瑶子の語りが意味するところを掴みかねて、宮原は思わず尋ねた。
「何の話をしているの?」
「あれからわたしが歩いてきた道のことよ。あなたはどうなの?」
「僕は・・・僕も自分なりに懸命に生きてきたつもりだよ」
「あなたは強いものね。決して自分を見失わない。しっかりと自分を持っているものね」
「君こそ強いひとだと思ったよ。僕は考えるばかりでなかなか動けないけど、君は自分がこれと信じた道を一直線に進んでいく。僕に欠けているところだよ」
瑶子が足を止めて、小さなため息をついた。
「ちょっと座らない? 落ち着いて話したいの」
瑶子がベンチに腰を落とすのを見届けてから、宮原も傍らに腰を下ろした。
瑶子はすぐに話を続けた。
「あなたに聞きたかったのよ」
「何を?」
「わたしたち別れて離れ離れになって、音信不通になった。
一切連絡は取り合わないと約束したけど、わたし幾度か本気であなたに連絡を取ろうとしたのよ。でもいつもぎりぎりのところで踏み止まったわ。
未練じゃないのよ。ああして別れたんだから、もう一度はあり得ない。
そうじゃなくて、わたしはね、やっぱり自分のせいで別れることになったんじゃないかと思い始めたのよ。あなたは、やさしくて協力的だったし、仕事も続けさせてくれたし、不平や不満を言ったら罰があたるくらい良い旦那だったと思い当たったの。遅ればせながら」
「そこまで過大評価されると、嬉しいより恥ずかしいよ。それとも皮肉かい。
僕こそ君を引っ張るというより、逆に引っ張ってもらっていたようで、頼りない旦那だったと随分反省したよ。経済的にも君のほうが高給だったし、僕よりもっと懸命に働いているんだろうなって思っていたよ」
「労働量と給与は比例しないわ。おまけに、山あり谷ありの業界だし。あなた知ってるでしょ、あの会社が、あなたと別れて十年足らずで倒産したの。
そんなことより、ねえ、わたしがあなたを自分の理想に染め上げるつもりで接していたらどうだったんだろう。徹底的な悪妻ね。そんな不遜なこと当時は思いつきもしなかったけど、あとになって思ったのは、あなたは度量の広いひとだから、すべて分かったうえで目をつぶってくれたかなあ、なんて思っちゃって。
仏様の掌で、そうとは知らずに傍若無人を繰り返す孫悟空ね」
「僕が仏様か! そこまで買いかぶってもらうと、もうどこかに隠れるほかないよ。君と別れたあとで、僕のほうも考えたよ。別れた最大の原因は何だったのかなって、何回も。でも、結論は・・・出なかった。
いまさら過ぎたことを蒸し返して、ああだこうだと考えても、どつぼにはまるだけだ。そう思ってさ、僕はひたすら君が幸せになって欲しいと念じることにしたんだよ。きれいごとに聞こえるだろうけど、偽りのないところだよ」
「あなたって、ほんとにやさしいのね。それに雰囲気が変わったわ。いい歳を重ねてきたのね」
「君のほうこそ、随分とマイルドになったね」
「ビターチョコからミルクチョコ?」
「お、うまいね、座布団二枚!」
「あなたやっぱり変わったわ。昔はそんな冗談出なかったものね。男性としての魅力が増したと思う」
「単に歳をとっただけの話で、中身は恥ずかしいほどに成長していない。ただ言えることは、昔の僕はほんとにつまらない男だったと思う。人間的な幅がなくて物事を真正面からしか見られなかった。縦も横も上も下もあるのにね。だから君は言いたいことがあっても言うのをためらって胸のうちにどんどんそれを溜めていったんだと思う。おまけに僕はそうしたことに思いが至らなかった。最悪だよね」
「ああ、あなたって、やっぱり、わたしにはもったいないひとだったのね!
そういうところが、あなたの素晴らしいところで、最悪なところなのよ!
わたしを決して責めないで、すべて自分のうちに取り込んでしまう。
わたしが泣いたり、わめいたりしても、いつも冷静になだめてくれたわ。
わたしは感謝をすればいいのかしら、それとも、ほんとにわかってないわね!と、呆れて叫んだほうがよかったのかしらね。
子供は誉めて育てろ、というけど、悪いことをした時は叱らなきゃいけないでしょ。叱らないということは、愛情がないということじゃないの?
ねえ、黙ってないで何か言ってよ。
そうやって黙りこくっちゃうところは、昔と変わってないのね」
「懐かしいな。もう一度瑶子節を聞けるとは思わなかった」
「あなたってひとは! じゃあ、言うわ。わたし、あなたと別れた時にいろいろと相談にのってくれたひとがいたの。知ってた? どうなの? 興味なかった?」
「うすうす感じてはいたけど、僕のほうから君に問い質すことはやめようと思った。君が違う方向を向き始めたのも、僕が君をしっかりと支えてあげることが出来なかったからだとわかっていたからね。ああいうかたちで結婚して、挙句に君を幸せに出来ないとなれば、自分の無力を恥じるほかなかった。
だから、君から別れようと切り出された時には、そこまで君を追い詰めてしまった自分に愛想が尽きた。ほんとうは君が流したと同じくらいの涙を心のなかで流していたくせに、君の前では必死にこらえたんだ。最後くらいは男気を見せようと思ってさ。でもね、君がいなくなったあとに、もう二度と会うことはないんだと思った時にさ、ようやく自分の気持ちを素直に表現する勇気を持つべきだったと気がついたんだ。だから、今なら言えるんだよ。
僕はね、君のことがほんとうに好きだった。
君が悪妻になろうと、自分が恐妻家になろうと、そんなことはどうでもいい。
君が何をしようと、何を言おうと、君の自由なんだよ。
僕は君が好きなんだから。もっともっとそういうアピールをすればよかったと後悔したよ」
瑶子の目から幾筋もの涙が流れている。
「じゃあ、はじめの話に戻るね。
わたしがあなたを自分の好きなように色付けして、いや、もっと乱暴な言い方をすれば、調教しようとしたら、あなたはそれを受け容れた?」
「答えはイエスだよ。お気に召すまま、だ」
「有難う。わかったわ。もう行かなくっちゃ」
「一言だけいいかな。僕は君に言って欲しいんだよ。別れてからずっと幸せでしたって。それで、僕も幸せになれる」
瑶子は鼻で笑ってから答えた。
「幸せではありませんでした、さっきまでは。でも今は幸せよ。
わたしのほうからも最後に一言いいかしら。
せっかく上質の原酒を手にしたのに、熟成するまで待てなかったのが、わたしの最大の過ちね。わたしという原酒を入れる樽が粗悪品だったということ。
ごめんなさい! じゃ、もう行くね」
「ああ、気をつけてね」
瑶子は微笑を顔に貼り付けたまま立ち上がると、軽く手を振ってから歩き出した。
宮原は瑶子を引き留めるそぶりも見せずに、笑顔で見送っている。
酷暑に音を上げながら過ごした夏はいつのまにか秋へと移り変わり、気がつけば紅葉が始まっている。
この季節になると、底深い眠りから目覚め、またすぐに長い眠りへと戻っていく記憶の断片がよみがえる。
それは時間に濾過されて、ひたすら透明な一滴の水のようだ。
瑶子は今頃どこで何をしているのだろう。
いつもの公園でベンチにからだをあずけながら、宮原は両手を広げて伸びをした。
春先には多くの花を咲かせて伸び盛りと見えた若木も、枝葉は枯れ落ち、幹からは生気も消えている。
時間という慈悲と無慈悲。
記憶にある景色は年々美しさを増していく。
記憶を持つ者に容赦なく近づいていく老いという現実。
宮原は最近とみにこう考えるようになった。
結局のところ、瑶子は自分にとって最良の女性であった。
ああした別れ方をしても、あれから瑶子を超える女性に巡り合うことはなかったのだから。
心から愛した女性がいたという事実は、自分の人生に大きな節目を残してくれた。
それでいいではないか。
「有難うございました。これで吹っ切れたような気がします。本当に有難うございました。」
女は感謝の言葉を口にすると、長く低いお辞儀をした。
「本当に良かった!」
最後にそう呟くと、一歩を踏み出した。
夜明けに仰ぐ月 後藤守利 @kojimg
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