第6話 幸太郎の場合

「おじいちゃんは?」

幸太郎は、黒く縁取りされた額縁の中でぎこちない笑みを浮かべる勇作を指差して尋ねた。

カメラの前で微笑むなど望むべくもなく、写真嫌いでカメラを向けただけでさっと顔をそむけた勇作が、幸太郎と写真を撮る時だけは、気が進まぬ様子にせよ、不器用な笑みを浮かべてレンズを見つめた。

あの写真も幸太郎とのツーショットから勇作だけを抜き出して拡大し、おまけに服の色まで修正したために、いかにもつくりものといった出来栄えになっている。

「ねえ、おじいちゃんといつ会うの? もうずいぶん遊んでないよぅ!」

そーら、また始まったわ。

美和は立て板に水とばかりに、いつもの口上を繰り返す。

「おじいちゃんは、遠いところに行って帰ってこないから会えないの。

ママだって、パパだって、おばあちゃんだって、みんなおじいちゃんに会いたいけど我慢してるんだよ。幸ちゃんも我慢しないと、おじいちゃんに笑われちゃうよ。

おじいちゃんに会える時が来たら、みんなで会いにいこうよ、ね。

おやつ食べる?」

ここで、間髪を入れずに、幸太郎の大好きなグミをさっと目の前に差し出すと、本日のところは一見落着である。

 幸太郎の誕生が、サラリーマン生活からの引退時期と重なったことで、情熱の対象が仕事から孫へと円滑に移行したようで、勇作は初孫を溺愛した。

「何はさておき、幸ちゃんだ!」と口にしながら、涼子には、幸ちゃんにあれ買ってやって、これ買ってやって、と注文を連発しながら、衣類や玩具はもちろんのこと、自分たち夫婦には高嶺の花のさくらんぼやマスカットなども送ってやった。

幸司からは、幸太郎が高級品ばかりを口にするから、スーパーで買った果物は不味いと言って口にしない、困ったもんだ、という遠回しの苦情や、「俺なんかあんなにかわいがってもらったことはないぜ」という愚痴も涼子経由で伝わってきたが、勇作には柳に風であった。

涼子にとっても、初孫の幸太郎は目に入れても痛くないことには変わりがなかったが、勇作が「幸ちゃん、命なんだよ」と言って憚らぬ様子には、「あんまり甘やかせると幸司や美和ちゃんがあとで困るのよ」とブレーキをかけたが一向に効果はなかった。

幸太郎のほうも、よちよち歩きの頃は人見知りがひどく、勇作の顔が目に入るたびに大泣きし、美和が、「すみません、こんなに可愛がっていただいているのに、本当にすみません」と恐縮しきりであったが、そのうちに歩行もだいぶ地に足がつくようになり、同時にあれこれ知恵がついて口も達者になると、いつでも笑顔を絶やさず、何でも自分の思い通りにしてくれるやさしいおじいちゃんの株が暴騰した。

おじいちゃん、おじいちゃんと、おぼつかぬ足取りで勇作の後をついて回るようになり、外出時には小さなもみじのような手のひらを差し出して、勇作が手をつなぐのを待つようになった。

幸司がそばに寄ると、「パパは来なくていいの!」と声を張り上げて押し返し、勇作から離れない。

勇作の姿が目に入れば、ミニカーを手にして「おじいちゃん、遊ぼうよ」と言いながらにこにこして駆け寄ってくる。

「お腹空いたぁ」と言いながら、甘えた声でおやつの催促も忘れない。

こうなると、勇作の『幸ちゃん命』はいよいよ膏肓に入った。

とはいっても、涼子に釘を差されるまでもなく、幸太郎を盲愛することが、幸太郎自身にとっても決して良い結果にはならないのだと、勇作自身も自戒することを忘れていたわけではない。

幸太郎の理解度を推し量りながら、勇作なりのしつけは施しているつもりであった。

「おじいちゃん、ミニカー欲しいなぁ、買ってぇ」

訪ねてきた幸太郎が両親の耳には届かぬような小声で、勇作に囁いた。

ミニカーが大好きで、幸太郎の”コレクション”はすでに膨大な数に昇る。

一台当たり四百円前後というお手頃価格のお蔭もあって、両親、勇作の財布からは少なからぬ金額が小さなモデルカーに変身を果たしたが、メーカー側も巧みなマーケティングで、新モデルのみならず、既成モデルの大きさや色調変化で、次々と新製品を送り出すため、幸太郎はじめ小さなカーマニアたちはそのたびに購買意欲をかき立てられることになる。

幸太郎が新しいミニカーを欲しがるたびに、「いくつあっても同じだから、幸太郎はもういらないよね」と幸司が正面突破を図っても効果はなく、矛先が勇作に向かうことになる。

段々と知恵がついてくると、

「おじいちゃん、ミニカー二つ買ってぇ」

「えーっ、二つはダメだよ」

「じゃあ、一つでいいから買ってぇ」

「じゃあ、一つだけだよ。約束だよ。嘘ついちゃダメだぞ」

「幸ちゃん、わかった。嘘つかない」

と交渉の仕方もわきまえてくるし、

「幸ちゃん、あれ欲しいなぁ。いろいろ考えたけど、やっぱり欲しくて欲しくてしようがない。他のはいらないから、あれだけ欲しいなあ」

と、泣き落としの片鱗も垣間見せる。

内心では「幸ちゃんも成長したな、なかなかやるわい」と嬉しい驚きを感じながらも、勇作のほうもすんなりとは折れない。

「幸ちゃんさぁ、ミニカーもあれだけたくさんあると、一度に全部を出しては遊べないよね。今度は、道路やトンネルをつくって走らせてみようか。面白いぞう」

「うーん、どうやんの?」

「一緒に作ってみる?」

「うん、作ってみたい、おじいちゃんと一緒に作ってみたい」

手先が不器用であることは誰よりも本人が一番よく知る勇作であるが、宅急便の段ボール箱とガムテープを使って、ミニカーを走らせるサーキットやトンネルの類を作り出すと、幸太郎が「幸ちゃんもやりたい」と目を輝かせて乗り気になる。

ハサミの管理に気をつけながら、可能な限り幸太郎にも任せながら、出来栄えはさておき、幸太郎が喜ぶ工作品が次々と生まれていく。

紙細工の上や下をミニカーが走るたびに歓声を上げる幸太郎に目を細めながら、勇作はひそかに首筋のこりをほぐすのである。

幸太郎は、ミニカーの他にも鉄道(とりわけ新幹線)、草花、てんとう虫やダンゴ虫に執着を見せた。

涼子の強引な提案もあって、幸太郎の旺盛な好奇心を幼児学習にも向けて、ひらがた、かたかな、時計の見方等にも時間を割いた。

「幸ちゃん、すごいね! もう覚えちゃったの?」

「幸ちゃんはお利口だね、すごいよ!」

勇作や涼子の誉め言葉に、幸太郎は満面の笑みで応えて、次は何やる?と催促する有様である。

「やっぱり、子供は誉めて育てる、が正解ね!」

幸司に怒鳴り声を上げていた時分のことは忘れたらしく、孫となれば涼子も随分と余裕のある発言であり、この点を突くと涼子のほうも反論する。

「あなただって、幸司の時とはえらい違いじゃないの! そもそも幸司とは、ああやって遊んでやったことなんかなかったでしょ。まぁ、忙しかったもんね、それどこじゃなかったわよね。だから、幸司はお母さん子になって、あなたには全然懐かなかったものね」

勇作のほうは「そう、その通りだね」と同意するほかはない。

出張帰りに「ただいま」と土産を差し出すと、幸司は喜ぶどころか泣き顔になって涼子の懐へ逃げ帰った。

幸司に煙たがられ、時には涼子と幸司の親密な母子関係に嫉妬しながら、勇作は父親としての自信を手にすることが出来なかった。

幸司自身が父親の身となっても、やはり勇作のことはいまひとつ煙たい存在に変わりはないようで、幸司一家にまつわる話はすべて涼子と幸司のホットラインで交信され、勇作の耳には涼子の検閲を通過した部分だけが届くしくみになっている。

こちら側の話もすべて涼子から幸司に伝えられているのは間違いない。

「時代は変わったわね。今や、旦那が育児や家事も分担しないと、家庭内で孤立するらしいわよ」

専業主婦で過ごした涼子からそう言われると反論せざるを得ない。

「そりゃ、そうだろ。僕らの頃とは違って、今や夫婦共働きが普通になってるんだし、会社側もそうした動きに乗り遅れて社会の指弾を浴びてはたまらないと必死なんだよ。日本経済もピークを過ぎて、これからは益々生きづらい世の中になるんだから。ほんと、これからの日本、若いひとはたいへんだ、同情を禁じ得ないよ」

そう言いながら、幸ちゃんの将来に思いを馳せると、胃のあたりがどっしりと重くなってくる。こちらは死んでいくから気安いものだが、これから人生を始めていく若い世代は本当に大変だよなあ、と心底そう思うのである。

「CO2削減もままならず、海温が上昇し続ければ、気候変動はさらに拍車がかかるだろうし、日本も自然災害の宝庫になっちまえば、観光立国どころか、外人観光客も敬遠しかねない。おまけにAIやら何やらで世の中も激動していく。将来、日本はどうなっていくんだろうなあ」

涼子との会話でもこうした内容が実に多くなった。

ここでもまた、幸ちゃんの将来が気になるのである。

いつまで幸ちゃんを見守ってやれるのか。

いつ終わるとも知れない限りある時間ではあるが、出来ることは何でもしてやりたい。

そう思うと勇作はからだのなかに熱いものを感じて背筋が伸びる気がする。

同時に、これが薬にまさる孫の効用というものか、と納得するのである。

自分は再来年には古希を迎える。あともう少しで、古来稀な年齢に達するのである。

そのころ、幸ちゃんは、と言えば・・・今、幼稚園の年中さんだから、おーっと、ピカピカの小学一年生か!

ランドセルは奮発して良いものを買ってやらにゃ、と思う背景には苦い思い出がある。

 勇作は裕福というにはほど遠い家庭で育った。

買ってもらったランドセルは、見るからに安物で、ピカピカの一年生一日目から周りの子供たちのものと比べてその違いは恥ずかしさを感じるほどに歴然としていた。家庭の事情を知る勇作は、不満を口にすることはなかったが、皮質から縫製まですべてにおいて貧相なランドセルは三年ほどであっけなく寿命を終えた。

困った母は当時高学年の男子生徒の間で流行り始めていた硬質ビニール生地の手提げかばんに目をつけた。勇作は母の勧めたブルーのかばんを提げて伏し目がちに通学を始めたが、ここで嬉しい誤算が起こった。周囲から好意的な声が聞こえてきたのだ。なかにはまだまだ持久性十分と見えるランドセルから、勇作と同じブルーの手提げかばんに乗り換える生徒まで出始めた。

今であれば、小さなクラス内でみんなと違う、ということになれば、のけ者扱いされ、それが陰湿ないじめにつながったりする場合さえあるようだが、当時の小学生たちは素朴で、新奇のものに反応する健全な好奇心を持っていたということだろうか。

それでも勇作は、幸ちゃんに他の子に引けを取らない、他の子がまぶしい目で見るようなランドセルを買ってやりたいと切に念じるのである。

早速、涼子にその旨を告げると、「五万,六万はあたりまえで、十万円以上するものもあるんだから、冗談じゃないわよ。安くて良いものを見つけるのよ。ランドセルなんかに余分のお金をかけるくらいなら、ほかのものを買ってあげたほうがいいでしょ」と簡単に切り返されて相手にされない。

それにしても早いものだ。ついこの間までよちよちしていたかと思えば、あれよあれよという間に成長していく。

何かにつけて涼子と声を合わせて「こっちも歳をとるはずだよな」と口にする機会が多くなったが、伸び盛りと、縮むいっぽうとの差はどんどん拡大していく。

縮むいっぽうのほうは、いつ何時縮み終わりが来てXデーを迎えるかもしれないのだから、気は進まぬものの、身の回りを可能な限りきれいにして残された者に迷惑をかけぬようにしておきたいと、この点は勇作、涼子双方の考えがぴたりと一致している。

「ほんとにさ、わたしたちはいつ何時お呼びがかかるかもしれないんだから、つまらないことで言い争ったり、喧嘩なんかしてる暇ないわよね。ましてや、熟年離婚なんて、あり得ないでしょ」と、言っている涼子の友人は最近五歳ほど年上の旦那と離婚した。

旦那はまさに古希を迎えたばかりであったが、子供が巣立ってぽっかりと空いた心の隙間を、老夫婦がいたわりあって余生を送るというシナリオでは埋め切れなかったようだ。

長い結婚生活の間に積もり積もった澱をそのまま放置せずに、すべて押し流して自分本来の清流に戻したいと考え、実行する勇者には敬意を表し、拍手を送りたい。

一度しかない人生を、残りがどんなに少なくなっていても、自分本位に生き直したいと考えて、それを実行に移すひとに心から敬服するのは、自分に誠実に向き合っていると思うからである。

「自分の場合はどうか?」と勇作は考えるが、自分は(そしておそらく涼子も)現状維持でこのまま行けばよいと考えているので、これはまんざらでもない結婚生活を送ってきたということではないかと、結論づけることにしている。

「この歳になって、他に大きな悩みもなく、幸ちゃん、幸ちゃんと孫にうつつを抜かしていられるのだから、あなたも幸せと思わなきゃ!」

涼子にこう言われると、勇作も「その通りだな」と答えざるを得ないが、その後に必ず涼子が付け加える一言・・・「わたしも頑張ったのよ、あなたが会社で働いている間に」を聞くと鼻白むのである。

「そうそう、君がしっかりと家事や育児をしてくれたお蔭で、子供も真っ直ぐに育ってくれたし、今こうして幸ちゃんとのんきに遊んでいられるんです、はい」

「あなたも大変だったわよね」

最後は、涼子の”上から発言”で終わるのが常である。

家庭内のパワーは完全に逆転してしまったが、目くじらを立てるほどの生臭さはもうない。漏れ聞こえる幸司との電話で、年金家計のやりくりを担当する涼子の苦労を偲びながら、どっぷりと浸かった隠居人生にもそれなりにリズムが出て来たのではないかな、と勇作は感じるようになった。


 その日はふたりで映画を見てから、回転寿司で遅い昼食をとった。

いつもなら出演俳優やプロットの寸評を戦わせるところであるが、その日の勇作は口数も少なく、寿司皿を取り上げて口に運ぶ様子も緩慢である。

「どっか悪いの? 元気ないじゃない」

「いや、大丈夫だよ」と応える勇作に、涼子は不安を覚えた。

元気だよ、と一言答えてくれればよいところを、大丈夫だよ、と言われると、元気ではないが持ちこたえているよ、と言われたようで落ち着かない。

最近も親友の一人が勇作と同世代の旦那を亡くしている。

涼子としても、自分はさておき、やはり年上の勇作には気をつけてやらねばならないと感じている。

近々幸司宅を訪問することになっており、幸太郎への土産に絵本と知育玩具をデパートで見る予定であったが、「早めに帰る?」と切り出すと、「うん」と素直に頷く勇作に、これはかなり具合が悪いのだ、と確信した。

その晩は早めに寝かせたが、翌朝明け方に、勇作の寝顔を覗き込んだ涼子は、何気なく触れたその額の冷たさに思わず声を上げた。

地に足がつかぬ思いで救急車を呼んだところから始まった怒涛の時間は、葬儀が終わるまでの数日間にわたって続いた。

言葉を発しない存在となった勇作を見つめて、涼子は遥か以前に同じ情景の中で「早く目を開けてよ、悪い冗談はやめてよ」と、ふざける勇作に食ってかかったことを思い出した。

今やその勇作は視界から消えて、二度と現われることはない。

ぽつんと小さな骨壺に収まっているのだ。

涼子をはじめ幸司一家にも嵐のようなすさまじい勢いで時間が過ぎてゆき、やがて怖いほどの静寂がそれにとって代わった。

これは現実なの?

まだ、信じられない。

人間なんて何とはかないものだろう。

落ち着きを取り戻しつつある頭の中は、決まってここに行き着いた。

しかし、いくら何でも急でしょ、急過ぎるでしょうが!

大病を患ったこともなく、持病と言えば高血圧ぐらいで、それも毎朝一錠の服薬で事足りる程度であった勇作の死因は心不全と判定された。

苦しむこともなく睡眠中に逝ったはずだとの医師の言葉だけが救いであった。

勇作は日頃から、飛ぶ鳥は跡を濁さず、古希を迎えたらエンディングノートを書くぞ、と公言していたが、飛ぶつもりがないままに飛んで逝ってしまった。

生前、夫婦の間で最後は家族葬と決めていた。

葬儀のほうは幸司夫婦の手伝いが大きな助けになったが、残された者たちが、勇作がいない非日常を日常として受け容れ、そこに自分を容れ直すことは容易ではなかった。

誰にとっても、新たな日常に慣れるまでにはやはり時間が必要であった。

大人にとってもこうした調子であったから、死の意味も分からぬ幸太郎に、大好きなおじいちゃんがいない新しい環境にどうやって慣れさせるのかを考えた時には、溜息ばかりで議論が進まなかった。

一同協議の上、幸太郎には勇作の死顔は見せないことを決め、おじいちゃんは遠いところへ行って帰ってこない、と口裏を合わせることで葬儀は乗り切ったが、幸太郎もみんなの落ち着きが戻るのを待っていたように、「そんじゃ、いつ帰って来るの?」と食い下がるようになった。

こちらも「わからないけど、みんな会いたいのに我慢しているのだから、幸ちゃんも我慢しないとおかしいぞ」と統一回答をつくり涼子、幸司、美和の間で徹底した。

今はわからなくても、学校に上がるようになれば、おじいちゃんがお墓の中で眠っていることの意味も分かって来るだろうし、幸太郎の成長具合を見ながら順応させていくのが一番良いのではないか。

まづは、おじいちゃんとはもう二度と会ったり、話したりすることが出来ないということを、幸太郎自身がゆっくり認識していかねばならないし、周囲はそれを促すように心配りをしていく必要がある。

同時に、遊びや学習を通じて幸太郎が視野を広げていけるように改めて気を配る必要もあろう。

やがては、勇作が幸太郎の記憶の中でワンピースとしてすっぽりとはまって、おじいちゃんの思い出に昇華するころには、幸太郎も立派な小学生になっているだろう。

去る者日々に疎し、とは言うものの、肉親にとっては去った者の影が薄くなるまでには多大な時間を要するだろう。

その点、幸太郎については、物心らしきものがついて勇作を慕い始め、そして勇作との別離までに至る期間はせいぜい二、三年という短期間であったことから、涼子なども「そのうち幸ちゃんも、おじいちゃんのこと忘れちゃうわよ、幼児の好奇心は日ごとに大きくなって、新しいものを追うんだから」と見ていたが、幸太郎のおじいちゃんへの執着は意外に長引いた。

「物心がついたところで接したものは、それだけ」インパクトが大きくて、幼児なりの深層心理に入り込むのかな」と、幸司は訳の分からぬ分析を試みていたが小学校入学、加えて妹の誕生という劇的な環境変化により、幸太郎にとって、おじいちゃんのいない毎日が日常になる頃には、勇作の三回忌が迫っていた。


 公園の木の下で、おじいちゃんと二人でしゃがんでいる。

落ち葉を手で払うと、丸っこい土のかたまりが動き出した。

「あ、いた! おじいちゃん、いたよ」ぼくは大声を出した。

「どこ? あ、ほんとだ、いたね」

おじいちゃんが差し出したミニトマトのプラ容器に、親指と人差し指の先でつまんだダンゴ虫を放った。

プラ容器の上から覗いてみる。

「ずいぶん取ったねぇ。一、二、三・・・幸ちゃん、もう十六匹も取ったよ」

「もっと取る!」僕はそう叫んで、ダンゴ虫を取り続けた。

「幸ちゃん、赤ちゃんのダンゴ虫はかわいそうだからやめとこうな」

「なんで?」

「自分じゃ、ごはんも食べられないし、お家に帰らなきゃママやパパが心配するよ。幸ちゃんだって、お家に帰れなきゃ、いやだよね。わかったぁ?」

「うん、わかった」

「幸ちゃん、もう二十匹以上いるぞ。あんまり入れ過ぎると、ダンゴ虫も狭いお家の中で苦しくなるよ。あとは、葉っぱや、土を入れようか」

「うん、葉っぱと土を入れる!」

公園からの道すがら、おじいちゃんが抱える容器を二度も三度も覗いてダンゴ虫の無事を確認した。

「お家に着いたら、ごはんをあげたい。

「そうだな、何をたべるんだろう? おじいちゃん調べておくよ」

勢いよく家のドアを開ける。

「おばあちゃん、ダンゴ虫たくさん取れたよー。大きいのばっかで、赤ちゃんは逃がしてあげたんだよ」と叫ぶと、おばあちゃんが笑顔で迎えた。

「あ、ほんとだ、たくさんいるね。洗面所で石鹸つけて手を洗っといでよ」

うん、と元気よく返事をして、リビングに戻ると、おじいちゃんがきゅうりを持って待ち構えている。

「幸ちゃん、ダンゴ虫の餌はきゅうりでいいみたいだよ。ほら、小さく切ったから中へいれてごらん」

ダンゴ虫をつぶさぬように、慎重にきゅうりを並べると、ダンゴ虫がぞろぞろと動き出した。その様子を夢中で見ていたが、急に思い出した。

「ママがダンゴ虫はお家に持って来ちゃダメだと言ってるから、おじいちゃんとこに置いといていい?」

「うん、いいよ。じゃ、今度また幸ちゃんが来るまで、おじいちゃんがしっかりと世話しとくよ」


「おじいちゃん、この花何て言うの?」

「これは、パンジ―だよ」

「じゃ、これは?」

「デージーだね」

「じゃ、これは?」

「これは、ひまわりって言うんだよ。おひさまと一緒に動くんだよ」

「じゃ、これは?」

「これも、ひまわりだよ。よく見てごらん、葉っぱも花も同じだろ」

「じゃ、これは?」

「だから、ひまわりじゃ! からかいおってからが!」

横腹にくすぐりを入れられた。

からだをひねって逃げようとしたが、おじいちゃんの手が吸いついたように離れず、ぐりぐりとしてくる。

「うはっ、くすぐったい!」

思わず声を上げると、ようやく自由になった。

「幸ちゃんは、花が好きだねえ。おばあちゃんが花の本を買ってくれると言ってたよ。花の名前を覚えようか?」

「うん、覚える!」


「幸ちゃん、寒くないかい?」

「大丈夫だよ、おじいちゃんは?」

「幸ちゃんといれば寒くないよ。それにしても、幸ちゃん大きくなったなあ」

「もうすぐ三年生になるんだよ」

「そうか、そうか」

二人は小さな円形の乗り物の中でからだを寄せ合って、揺れに耐えている。

ここはどこだろう? 川か海かはわからないが、公園で乗ったことのあるボートを思い出す。あの揺れをもっと大きくしたやつに似ている。

奇妙な乗り物である。周囲が高い塀のようなものに囲まれ、天井部分は暗い影に覆われており、窓がなく外側が全く見えない。

「おじいちゃん、これ・・・船? ぼくたち何に乗ってるの?」

「まあ、船と言うのが一番合っているかな。

幸ちゃんは、学校楽しいかい?」

「楽しい時も、いやな時も両方あるけど」

「はは、そりゃそうだな、みんな同じだよ。

幸ちゃんは、喜んだり、怒ったり、悔しかったり、悲しかったりするよね。

ほかのひともみんなそうなんだよ。

幸ちゃんの友達も、ママもパパも由梨ちゃんも、おばあちゃんも、みんな同じように笑ったり、泣いたりしてるんだよ。

そう思うとさ、自分だけのことばっかり考えてちゃダメだよね。

もっと周りを見渡して、上から見てみたり、遠いところまでよく見てみたり。

そうするともっとたくさんのことが見えてくるんだよ。

自分はこう思ったけど、あのひとはどう思ってるんだろうとかさ。

わかったかなぁ?」

「うん、わかった。

おじいちゃん、この船どんどん小さくなってない?」

「うん、そうなんだけど、まだ大丈夫だよ。

もう少しお話ししようか。

幸ちゃんは、嘘つかないで、いつも正直だからえらいね」

「おじいちゃんに、嘘はダメだよってよく言われたから」

「そうだよ、嘘はほかのひとにつくのもいけないけど、自分につくのもいけないよ。わかるかな?」

「わかるよ」

「そうか、おじいちゃんはね、幸ちゃんが元気に大きくなっていくのが一番嬉しいよ」

幸太郎が心配そうに首を回した。

「おじいちゃん、この船ずいぶん小さくなったよね」

「苦しいかい。大丈夫だよ。もうおじいちゃんは降りなきゃいけないんだよ。おじいちゃんが降りたら、窓をつくって外をのぞくんだ。天井も開くから上を見上げるんだ」

「おじいちゃん、どこへ行くの?」

幸太郎がそう言い終わらぬうちに、幸太郎の肩に置かれていた手がぱっと離れて、おじいちゃんの姿も消えた。

「おじいちゃん? どこ?」

「すぐそばにいるよ」

声は聞こえたが、何も見えない。

一瞬ぱっと暗くなると、今度は強い光が一気に差し込んだ。


「幸ちゃん、幸ちゃん、どうしたの? また、うなされてたよ」

「うーん? ママ?」

眠そうな目をこすりながら、幸太郎が起き上がった。

「おじいちゃん、おじいちゃん、って何度も言ってたわよ。夢でも見たの?」

「見てないよ。うーん? でも見たかな? よくわかんない」

「最近、多くない、こういうの? このあいだ、よっちゃんが来た時、昔のミニカーを引っ張り出してきて遊んでたでしょ。おじいちゃんとよく遊んだもんね、頭のどっかで覚えてるのよ」

「ミニカーだけじゃないよ。おじいちゃんとは、ダンゴ虫取ったり、いろんなことして遊んだよ」

「そうだね、いい思い出たくさん残してくれたよね。

このところ、おじいちゃんのお墓参り行ってないから、そのうち行こうか」

「うん」

「パパにも言っとかなきゃね」


 ショッピングモールの広場で、人気沸騰のアニメキャラクターに扮して着飾った男女が所狭しと殺陣と踊りを繰り広げている。

馴染みの主題歌が流れて、興奮した子供たちが手足でリズムを取りながら、唱和している。

ショーが終わると、司会者がマイクに向かった。

「はーい、よい子のみなさーん!

今日は小学生のみなさんに、今見たアクションの写真が付いたクリアファイルとキーホルダーをプレゼントしますよ。

欲しいひとは、ここに並んでくださいね」

舞台に向かって小さな姿が足早に動き出した。なかには大人の姿もあり、司会者が慌てて制した。

「小学生だけが並んでください。中学生や、親御さんはご遠慮ください」

「幸ちゃんも並んできたら。いつもテレビで見てるんだから」

美和の言葉に押されて、幸太郎も列を目指して歩き出した。

あっという間に長蛇の列となり、主催者側は数人で必死に配布作業を続けていたが、まだまだ列を残したまま、あといくつ、のこりいくつ、といった言葉が飛び交い始めた。

「はい、ここまでです。予定数が終わりましたので、ごめんなさいね」と若い女性が右手を伸ばして幸太郎の後ろに仕切り線を入れると、もう一人の女性が走り寄って、白紙に赤いマジックで「配布は終了しました」と手書きした幟を立てた。

最後の一個かぁ、ついてる、と思ったその時、背後からぽつりと声が聞こえた。

「ああ、だめかぁ」

肩越しに振り返ると、ピンクのセーターを着た女の子が肩を落として引き返そうとしている。その姿にどこか感じるものがある。足を引きずっているのだ。

「はい、前に詰めてね」

さきほどの女性に促された幸太郎は、さっとその少女に近づくと肩を軽くぽんと叩いた。

「ぼく、いらないから、並んでよ」

「えっ、いいの?」

幸太郎は振り返ることもなく、由梨を乗せたべビーカーのそばで微笑む美和のもとへ走った。

「幸ちゃん、偉かったねえ。あの女の子、足が悪いのに一所懸命歩いてあそこに並んだんだよ。幸ちゃんが譲ってあげたから、嬉しかったと思うよ。今晩は幸ちゃんの好きなハンバーグにしようか」

深夜、帰宅した幸司に美和は勢い込んで夕方の出来事を報告した。

「わたし、ほんと幸太郎のこと誇らしかったわ。まだ二年生、こんど三年生よ。それがふつうあんなこと出来る?」

「君のしつけが素晴らしいんじゃないの」

腹の皮が背中につきそうなほど空腹の幸司は、腹ごしらえを優先して空返事だが、美和の勢いは止まらない。

「あなた、幸太郎はまだ小学二年生よ! 八歳の子が誰にも言われないのにあんなこと出来る? それも自然体で! 我が子ながら尊敬しちゃうわよ、わたし!」

ようやく箸の運びも巡航速度に落ち着いた幸司が、真面目な顔つきになった。

「小さい時分にさ、親父から、自分より弱いもんにはやさしくしてやらなきゃだめだぞって、さんざん言われたのを思い出すな。幸太郎もおやじにそう言われてたのかな」そう言うと、幸司は呟いた。

「今度の休みに親父の墓参りにでも行くかな」

「そうそう、わたしも同じこと考えてたのよ」

美和の明るい声が響いた。



「いやあ、本当にお世話をかけました。

長い間、待った甲斐がありました。

もうこれで思い残すことはありません」

老人は背筋を伸ばすと強く一歩目を踏み出したが、二、三歩行ったところで何か思い出したように振り返った。

「本当に有難うございました」

深々と頭を下げると、向き直って今度こそは足取りも軽く歩いて行く。

老人の顔には笑顔が貼り付いている。


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