第5話 内山秀平の場合

「内山秀平さまですか?」

自転車のハンドルに手をかけてサドルにまたがろうとしていた男は、唐突に声をかけられて動きを止めた。

「そうですが・・・」

不審そうに目を向けられた女は事務的な口調で語りかけた。

「吉川理沙さまが是非ともお会いしたいとのご伝言です」

男は顔色を変えてにわかに攻撃的になった。

「何を言ってるんですか! 彼女は死にましたよ。もうすぐ半年だ!」

男は湧き上がる感情を懸命にこらえて極力冷静になろうとしたが、口を突いて出る言葉には不自然な抑揚がついた。

女のほうは一向にお構いなく静かに話し続ける。

「吉川理沙さまに成り代わって、お話しさせていただきます。

きちんとお話しすべきところを、それが叶わずに終わってしまい心残りです。

あのネックレスを外した意味を分かっていただきたいと思う心は狂おしいばかり。芦ノ湖で富士山を背景に撮った写真を携帯の待ち受けにしましたが、来年の十月十五日もまたここに来ようね、と約束しましたね。ああ、素晴らしいひとときでした」

男は怒鳴るように言い返した。

「何だ、あんた誰なんです! これはいったい何なんです。えぇっ!」

頭の中が大混乱を来たし、言葉に結びつかない。

男の慌てぶりとは対照的に女のほうは尚も冷静な態度を崩さず、文書を読み上げるような口調で男に最後通牒を突きつけた。

「理沙さまのご希望通りにお会いになられるのか、あるいは、お会いにならないのか、お答えは今すぐこの場でお願いいたします。

ご返事がない場合は、お会いにならないものとさせていただきます。

わたしのことを二度と目にされることはありませんし、あなたさまのご記憶に残ることもありませんので、どうぞご安心ください」

女はそう言い放つと、黙り込んでいる秀平をじっと見つめた。

 自分の周りでは轟音を立てて風が舞っており、からだが固まったまま動きもままならない。

それでもこれだけははっきりしていた。

何故理沙が悩みを抱えていることを明かすこともなく、一気に自殺に走ったのか、しかも(少なくとも秀平は)二人の愛情の証と考えていたネックレスを外して。

これまで数え切れぬほどに思い悩み、最後には酒を煽って眠りに救いを求めるのが習慣になってしまった。

素面に戻れば、こうも情けないぐうたらに成り下がってしまった自分を恥じ、呪う気持ちはまだ少しばかり残っている。だが、それもいつまで持つのやら、自信が持てないときている。

 心配して声をかけてくれた学友やゼミの教授が煩わしくなり、大学からも足が遠のいた。

アパートを引き払い、倉庫会社の契約社員として寮に入った。

目いっぱいにからだを酷使することで現実からの逃避を図ったが、すさんだ生活を送る若者には同僚も腫れ物に触るようなよそよそしい態度で接するようになり、秀平はやり場のない怒り、悲しみでますます孤独を深めていった。

糸の切れた凧のようにすべてを風に任せて、自分の意思を消す術を覚えつつあった時に、この奇妙な女と遭遇したのだ。

視界不良、からだの自由にも事欠くような苦境で、自分を制御できないし、展望も開けない。一言で言えば、どうしてよいかわからない、自暴自棄になるしかない。

それでも秀平には、まだひとつだけ、よすがといってもよいものが残っていた。

実現不可能な夢に等しいものが今、言葉となる機会を得た。

「会いたい! 理沙に会いたい、一度でいいんだ!」

ぼんやりとした生ぬるい空気の中で。ほとんど無意識に口が動いた。

秀平の熱に浮かされたような言葉を聞き終えると、女はさっと身を翻した。

靴音を響かせて遠ざかって行く女の後姿を、秀平は呆然として見送った。

「あー、疲れてんなぁ。ぼーっとしちまった」

秀平は頭を左右に振ってから、サドルにまたがった。


 寮に帰ると、空きっ腹のまま風呂に飛び込んで汗を洗い流した。

食堂の大きなテーブルにつくころには十時を回っていた。

盆にのった定食スタイルの夕食を電子レンジで温めると時間を惜しむようにかき込んだ。

今日は疲れた。早く寝たい。

布団に入り横になると同時に意識が飛んだ。


「わたし、ネックレスを外していくね。失くしたら大変だから、一番大切なものを」

「違う、違うよ。一番大切なものなら肌身離さずつけてて欲しいんだよ、何があってもさ」

「いえ、それは駄目だわ!」

ネックレスが宙を飛び、秀平が必死に腕を伸ばしたが及ばず、暗い奈落へと落ちていった。


「あっ、危ない!」

叫びながら思い切りブレーキを踏んだが、女児はこいでいた自転車から振り落とされて路肩へ転がった。

あわてて停車すると女児を目指して、「大丈夫?」「大丈夫?」と連呼しながら、駆け寄った。

女児を抱き起こしたが、目を閉じたまま反応しない。

幸い、外傷はないようだが、頭でも強く打ったのかもしれない。

夜八時を回っており、表通りをひとつ入った小路でもあり人通りは少なかったが、向かいのコンビニから数人が飛び出してきた。

「すみません、救急車を呼ぶので、ちょっとこの子を見ててください」

居合わせた女子高生に子供を預けて、携帯で救急車を呼んだ。

「警察にも電話しなきゃ!」

コンビニの制服を着た中年男性が咎めるような視線を投げながら叫ぶと、自分の携帯を取り出した。

目まぐるしく移り行く風景の中で、加害者として当然の誠意を以って出来得る限りの努力をせねばと気がせくものの、理沙の頭とからだの動きが同調しない。

少女に付き添うかたちで救急車に乗りこんだこと、病院では待機していた警察官に拘束されて、救急治療室へ担ぎ込まれる少女を目で追うことしか出来なかったこと、これらは後刻理沙自身が病院のベッドで意識を回復した折に、ぼんやりと白い靄のかかる頭の中でよみがえった事象である。

 意識が戻らぬ少女に泣いて詫びを繰り返す理沙に、警察官は何とか事実確認は終えたものの詳細な尋問は、加害者の興奮が収まってからと決めたが、理沙の興奮ぶりはほとんど狂乱に近いところまで昂進した。

こぶしを突き上げて跪き、自分を呪っては泣き叫び、倒れてからだを痙攣させながら両手で顔を覆うさまを目の当たりにして、駆けつけた少女の母親も目を背けた。

幸いなことに、少女のほうは頭を強打したものの命に別状はなく、明日には意識も回復するだろうとの医師の見立てが下り、周囲には落ち着きが戻りつつあったが、対照的に、加害者のほうは呼びかけても応答せず、何かが憑依したように首を上下に細かく振動させている。

鎮静剤を投与し、落ち着きを見せ始めたところで、看護師が病室へ誘導し、理沙がかすかな寝息を立て始めたのを見届けてから病室を出たが、十分ほどして様子を見に行ったところ、ベッドはもぬけの殻であった。

サイドボードに真珠のネックレスが置かれていた。

トイレに行ったのかと、足を運んで確認したものの見当たらず、トイレに行くのにわざわざネックレスを外すものかと考えた途端に、看護師は胸騒ぎを覚えた。

同僚にも応援を頼んで院内を駆け足で探したが見つからない。

途方に暮れかけたところで、「誰かが庭に倒れている」との声が聞こえた。

まさか、この六階から飛び降りたんじゃないでしょうね、と看護師の顔から血の気が引いた。


「わき見運転ということになったけど、わたしね、車を運転しながら助手席に置いた携帯に気が行っちゃって、一瞬横を向いたの。これが致命的なことになったのよ。運転中に携帯を使っちゃいけないことは当然知っているけど、助手席の携帯が気になって位置を直したり、ストラップをさわったりして・・・。

言い訳なんて一切出来ないことはわかっているわ。あの女の子の命を奪っていたかもしれない。怖くて痛い思いをさせて、最低だわね。

わき見運転なんかして、ひとの命を危険にさらして。

しかもあんな小さな女の子を。

わたしね、そのとき直感したのよ。こんなわたしがあなたと一緒に、光が降り注ぐ夢のような道を歩いて行く資格なんてないんだと」

「何を言ってるんだよ、君としか一緒に歩いていけないんだよ、僕は。

そんなこと分かってるもんだと思ってたよ。

だからこそ、頑張れたんだしさ。試験にも受かったんだぞ。それを知らせようと電話したのにさ!つながらなかったよ。事故の後だったんだね」

秀平の頭の中で、何かが弾けて落ちていった。

「もしかして、僕からの電話を待ってて携帯に気がいってたんじゃないの?

そうだろ、そうなんだろ! ああ、何てこったよ!」


「秀ちゃん、よく聞いて。わたしはね、自分の過ちで秀ちゃんと離れちゃったけど、気持ちはいつも同じよ、これからもね。秀ちゃんの夢が叶うまで、見えないところから精一杯応援させて。わたしは、とても幸せでした。秀ちゃんからは、感謝しきれないものをもらったから、今度秀ちゃんは、わたし以外のひとを幸せにしてあげてよ。ネックレスを外したのも、秀ちゃんの明るい未来にわたしが暗い影を落としたくなかったし、何よりわたしの感謝を伝えるためだったのよ」

「だったら、なんで飛び降りたりなんかしたんだよ、何も言わずにさ」

「法曹を志すひとの傍らに犯罪者がいるわけにはいかないわ。秀ちゃんが何を言ってくれるかはわかっているの。でもね、これがわたしなりのけじめのつけ方なの。わかって、とは言いません。でも、わたしが誰よりも秀ちゃんを応援していたということは自信を持って言えるの。

秀ちゃんは、これから自分の道を邁進するんだから、余計なことは考えないでいいのよ」


 ふと目を覚まして、柱の時計を見ると、まだ四時過ぎであった。

また理沙の夢を見た。

初めてのことであるが、理沙と対話を交わしたような気がする。

といっても所詮夢は夢であり、曖昧にあやふやな記憶にうっすらと名残がある程度で、はっきりと思い出すことは出来ない。

無性にのどが渇いている。布団を蹴り上げて、蛇口に向かった。

もう一度布団にもぐりこんだが、目が冴えて眠れない。

いつものように理沙の面影が頭の中をぐるぐると旋回するが、違和感さえ覚えるほどに冷静な自分に驚いている。

今の自分を理沙はどう見ているのだろう?

秀平の頭の中でこれまで多くの断片に裁断されて散逸していたものが、一気に集合してひとつの大きなピースにぴたりと嵌った。

理沙は自分を巻き込まないために自害を選んだのだろう。

そうに決まっている、あの理沙のことだ。

ネックレスを外して置いていったのは、それを知らせるためだったに違いない。

理沙の思いをきちんと理解してやらねば。

「こんなことではいけない、きちんと生きろ!」

口を突いて出た言葉が、からだの中枢から湧き起こる力へと変わり、秀平の瞳には久方ぶりに力強い光が宿った。


「どうだい、内山君、調子は?」

振り返ると、ゼミの田山教授が微笑んでいる。

「有難うございます。先生はじめ皆さんのお蔭で、また元のレールに復帰することが出来ました」

「内山君、君の顔は輝いている。いろいろあったろうけど、もう大丈夫だ。まっすぐに前を向いて進んでくれよ」

秀平は笑顔で応じ、教授の後姿を見送った。

そう、前を見つめて理沙の応援に応えて頑張ろう。

見ててくれよ。

秀平はきっと口を結んだ。


「ああ、よかった。本当に有難うございました」

女は心底安心したように頬を緩めて歩き出したが、すぐに歩みを止めて振り返った。

「もう一度、どこかであのひとに会いたい」

何かを期待していた女の顔に笑みが浮かんだが、すぐに真顔に戻った。

「ご返事はいただけませんよね。わかっております」

女は足取りも軽く遠ざかって行く。

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