後編

◆   ◆   ◆


 学校には相変わらず行っていない。芽衣さんにも、あれ以来会っていない。朝、いつもの平和公園で、いつものパン屋に制服で通うのも気まずくなってきた頃合いになっても、そうした状況が続いた。

 その間に何件か、母親から携帯にメールが入っていた。また学校の様子を聞かれたので、出来事をでっち上げた。学校での生活を順調に送っている、そう答えるたびに後ろめたさが増していく。

 いよいよ、家を出るのも辛くなってきた。体調が悪いのにかこつけて学校を休んでしまうと、そこからはもう駄目だった。

 ――教科書には載ってない歴史が、長崎にはたくさんあるんだよ。

 差し伸べられたはずのその手を、僕は打ち払ってしまった。後悔とともに再生する芽衣さんの言葉は、出がらしのように少しずつかすんでいった。失恋にも満たない心の痛みが次々と生まれては、絶望と化していく。

 ――どうか、命は取らないでください。

 代わりに頭にこだましてくるのは、昔の自分の震えた声。あの情けない声さえ発することがなかったら、僕はこうして苦しんでなどいないはずだった。僕は僕の言葉に首を絞められ、時には命をすら失うのではないかという思いに駆られた。すべては僕の感性が悪い――。

 僕はまた家に閉じこもって、夜明けとともに寝る生活に戻っていた。曜日の感覚などなくなっていた。あまり時計を見ないので、時間もよくわからなかった。でもその日はたまたま、僕の家のインターホンが鳴った。

 応答すると、彼は同級生を名乗った。

「学校の配布物、ポストに入れておくね。ゆっくり休んで、元気になったらおいでよ。僕は学級委員の島田(しまだ)。学校に来たら色々サポートはするから」

 僕は彼に優しさをかけられるだけの価値があるのだろうか? さらに島田くんは続けて、

「今度の日曜日、天主堂の近くの会館でとき子さんが講演するんだ。僕は聞きに行くんだけど、もちろん小谷くんが元気だったらでいいから、聞きに来てくれると嬉しい」

 行くつもりはなかった。

 卑屈さが癖づいてしまった僕には、それも悪意ある言葉のように思えてしまった。

「ここだけの話だけど、僕も学校は苦手なんだよね――いつも一人だし、たまにシカトとかされるし。べつにクリスチャンじゃないけど、とき子さんの話を聞いてると、落ち着くんだ」

「島田君はさ」

 僕は単純に興味がわいた。自分と同じように、学校に良くない思いを抱いていながら、それでも通い続ける理由は何であるか、不思議だった。

「どうして学校に通っていられるの」

「そんなの、勉強を教えてもらうためさ」

「それだけで、辛いことに耐えられるのがすごいと思う」

「僕はね、学校の勉強なんて自分の都合のいいように使えばいいんだって思ってる。僕、実は東京の大学を受けたいんだ。そこを目指せる進学校に入るために、勉強を教えてもらってる。それ以上のことは、学校に期待してないんだよ」

「じゃあ、友達がいない寂しさはどうやって誤魔化してるの」

「――この街は、あぶれ者に優しいんですよ。学校で、世間で、認められない苦しさを持った人たちにも、私たちは優しくありたいのです」

「――それはとき子さんの言葉?」

 彼はうなずいた。心の隅まで染みていくような清らかさが、言葉の節々から感じられた。

「とき子さんがよく、そう言うんだ。――よかったら、遊びに行こうよ。日曜日に会館で会おう」


 天主堂での日曜日の礼拝が終わったのち、迎えの車が来た。とき子さんを乗せた車に同乗させてもらう。運転する芽衣さんとは、一緒に遊んだ日以来になる。気まずくて、僕は彼女にかける言葉がなかった。

 後部座席の隣に座っているとき子さんは、二人の事情を知っているのだろうか。この、僕たちの間にある無言の気まずさを感じ取っているのだろうか。意に介さず、と言ったように、凛と澄まして見える。歳を感じさせない染みやしわの少ない顔で光る、一切の濁りのない瞳。

「芽衣はあの日、とても寂しがっていたのよ」

 一言――まるでそよ風のようにさらりと言った。

「言わないでよ、恥ずかしいな」

 芽衣さんは恥じらいに体をゆすっていた。

「遊び相手が見つかって、嬉しかったようだから。大輝くんありがとう、芽衣の相手をしてくれて」

「運転が狂うからもうやめて……」

「芽衣お姉ちゃん、あの日はごめん。それから……ありがとう」

 僕の言葉に、芽衣さんは今にもハンドルから手を放して頬を覆ってしまいそうだった。僕はつい、吹き出してしまった。


 車が駐車場についたとき、とき子さんが、

「そう言えば大輝くん、塔の跡は見てないのかしら?」

「あー、この前行こうと思ってたんだけど」

 芽衣さんがそれに同調する。なにかどろっとした予感めいたものが胸で渦巻いた。大きな事実を、暴露されてしまいそうな気がした。

 そこには、無残に砕かれたような建物の廃墟があった。苔むした建材が赤い瓦礫に覆われていて、明るい日差しにあたってもなお陰惨なさまだった。

「昔の天主堂の、左の塔だよ。爆弾で飛ばされて、ここにこうして残されてる――」

「昔の塔?」

 そう、と話を継いだのはとき子さんだった。この遺跡は原爆の遺物として残されている。中の鐘は、今でも現役であり、この前聞いた鐘の音だと知った。

「よく澄んだ音だったでしょう」

 とき子さんの目が僕の心を見通しているようだったので、肯定ではない本心を言った。昔から、人間を超えたなにものかの気配を恐れていたこと。疎んじられると思っていた、誰にも打ち明けられなかった自分の本心は、一度伝えると覚悟すると意外なほどすらすらと言葉になった。

 とき子さんは僕の告白を、意外にも柔らかな表情で聞いていた。

「あーあたしもじつはうんざりなんだよねー。子供のころから何度も何度も聞いてると、いい加減飽きてくるし」

 目を細めてうなずく仕草に、孫娘への優しい心遣いが現れていた。まだなにか、話したそうにしている芽衣さんから言葉を引き出すためか、ゆっくりと深くうなずいた。

「あの日言えなかったんだけど、もうこのさいおばあちゃんにも伝えるよ。――私、教師になりたい。もう一度、大学に通って勉強して、学校が嫌いな子供たちに学校以外の居場所があるんだよって伝えてあげたい」

 それが、芽衣さんが僕だけに打ち明けようとしたことだった。確認せずとも分かった。

「二人ともの考えを、主は認めてくださるでしょう――と言っても、よくわからないわよね」

 とき子さんは言いなおした。

「自分を信じるもとは、私たちの心の中にあるのよ」


 講演会場に入ると、僕は島田くんの隣に座り、とき子さんの登壇を待った。さらに隣には、僕の父がいた。

 ――何度聞いても、とき子さんの講演はすばらしいよ。

 父はかねてからそう言っていた。仕事の関係と言いながら、毎週休みの昼に出かけていたのは、とき子さんの話を聴きに行っていたのだ。

 とき子さんが現れると、さっと空気が静まり返り、その後つつましい拍手が起こった。

「さて、今日は浦上信徒たちの心のよりどころについて話しましょうか」

 かつて、浦上信徒と呼ばれたこの辺りのクリスチャンたちは、日本政府から多大な迫害を受けていたらしい。

「自分の価値観が世間に否定されるというのは、本当に辛いことです……私たちの先祖、浦上教徒もそうでした。イエス・キリストを信じ、神の子羊たる身としての自覚が大いにあるのに、それは違う、と言われる。それでも私たちの先祖は、信じ続けたのです。そんな彼らの心のよりどころに、必ずアンジェラスの鐘はあったと思うのです」

 とき子さんの目は慈しみに細められていて、ほとんど眠っているようだった。

「――現在に残る廃墟は、私を含めた原爆の被害者を忘れないようにするため。昔鳴り響き、今もなお鳴り続ける鐘の音も、現代にまで聴き継がれる、これもまた文化的遺産だと感じます。私たちの先代の生きる希望を耳にすることができるのは、とても幸せなことです。――では、最後に歌いましょうか」

 歌、と聞いて、僕は身構えた。緊張するな、鼻歌でいいから、と父は僕に言った。聖歌を歌ってみるのは、とき子さんの講演の、恒例行事なのだという。

 なんとなく、僕は鼻歌で音を取った。喉を震わすことなど、最近ではほとんどなかった。

 しかし驚いたことに、僕は思っていた以上にきれいな音を奏でることができた。


◆   ◆   ◆


 式の途中でそんな空想が頭をもたげ――涙が流れるのに任せていると、

「泣き虫」

 隣の人が僕を小突いた。しかし、僕にだけ見せる頬のゆるみを、表情にたたえながら。

 ようやく里沙(りさ)の緊張はほぐれてきたようで、可愛らしく微笑んだ。自分よりも頭一つぐらい背が低いが、1人前にものを言う。憎まれ口を叩く彼女も愛おしい。

「そういう里沙は表情が固いよね」

「うるさいなあ、慣れてないんだってば」

 僕も慣れていない。そうすぐに慣れるものではないし、一生に一度のことで慣れることはないだろう。

 惜しむらくは、とき子さんに僕らの姿を見せられなかったことだ。二年前に亡くなったと聞いた。とき子さんにも、報告したかった。滑らかなピアノの音が僕たちを包んでいる。記憶にある、あのオルガンの音でさえ、しっとりと僕を撫でてくれていたのだ。僕はそのとき、怖くて逃げ出してしまったのだけれど、それを思い出して笑える程度に僕も大人になった。けれどこれから、というものだろう。ようやく、僕は大人へと成長し始めている。

 教会のステンドグラスから光が差す。教会式が終わり、拍手のもと、外に出る。青空から差す――長崎の強い日ざしの幻影を見た。

 僕を一つ、大きくしてくれた日差し。僕が目を背けていただけで、太陽は空にもとからあり、ずっと僕を見ていたのだ。

 挙式をするにあたって、勿論和風のそれも考えた。しかし、僕は自分で進んで、式のクライマックスに鐘を鳴らす式次第を選んだのだった。

 僕たちを祝福する鐘を、僕と里沙とで鳴らした。まるで産声のように甲高く、まるで雨上がりの虹のように美しい音だった。高く突き抜ける空に、音が溶けていくのが目に見えるようだ。


◆   ◆   ◆


島田君が、また家までプリントを配りに来てくれた。入学式からこれまで毎週来てくれていた彼に、僕は意を決して告げた。

「島田くん、明日から学校に行くよ」

 島田くんは僕に満面の笑みを見せてくれた。僕がそう告げる日が来るのを待っていたと言わんばかりに。

「東京の大学で会おう。僕は一足先に、東京に戻って高校を受けるけどね」

 家の中から出てきた父が驚いた表情を見せた。

「ずっと長崎で暮らしてもいいんだぞ、東京は息苦しいだろう」

「違うよ、僕はもう、周りに自分を伝えられる自信があるから大丈夫だよ、それに」

「それに?」

「お母さんが向こうで築いてきた環境を、僕の都合で壊すのは申し訳ないよ」

 自分を偽ることなく、発信すること。それを恥じないこと。それらを、昔の長崎の人々はやってのけたのだろう。僕は長崎の地に勇気づけられ、そしてそれを周りに分け与えたいと思った。今、苦しんでいるのは、自分の思い通りになっていない母親だということに、すぐ思い至った。

「早速お母さんに連絡するからな、大輝、立派になったな」

「まずは学校に行かなきゃだけどねー」

 どこからか、芽衣さんが現れて僕を茶化してきた。

「大輝お前、学校に行っていなかったのか?」

「えっと、それは」

「私の特別授業を受けさせていたので、学校は欠席させました」

 なんちゃって、と舌を出す芽衣さん。父はその茶目っ気に、怒る気も失せたのか、

「――どんな方法にしろ、大輝を成長させてくれてありがとう」

 そんなことを言った。

「私、教師に向いていると思う?」

 父は残った仕事があるといい職場へと行った。芽衣さんに家まで送られる車の中で尋ねられて、一緒に遊んだ日を思い返した。正直からかわれっぱなしだったので、しばらく答えに窮したが、それでもこれだけは言うことができた。

「僕は、芽衣さん――芽衣お姉ちゃんに、寄り添ってもらったよ。弱っている人を勇気づける力は、持ってるよ」

 恋心めいたものを、少しでも彼女に抱いたことを恥じながら、僕は言った。芽衣さんはそれきり何も言わずに、前を向いて運転に集中しているようだった。鼻をすするような音が聞こえたかもしれない。


◆   ◆   ◆


 鐘の音は天に届いただろうか。いや、届かなくてもいい。僕の心の中で、僕が鳴らした音が鳴り続ければそれでいい。

 僕は人生を歩いている。歩いていく。ここから、確かに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シンオン 綾上すみ @ayagamisumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ