シンオン
綾上すみ
前編
僕たちを祝福する、拍手と笑顔。親族席に座る母親の、感極まった泣き声。白い空間に響くゆったりした空気を震わす、ピアノの弦。それらは大きく僕たちを包み込む。人間ではないような、そんな何かの輝き、目に見えないながらも僕たちを取り囲んだ尊さが、肌を柔らかく包んでいる気がした。
隣の人の、白い衣装に身を包む花嫁の姿。ほんの少し緊張に唇を張りつめさせているのがまた、心をくすぐる。
彼女は大きな舞台を望んでいなかった。それでも式を挙げたいという僕の願いを聞き入れてくれた優しさに、胸が暖かくなる。
祝電の名前が読み上げられ、それら一人一人の顔を思い浮かべていく──いちばんの親友である島田が、丁寧な祝福の言葉をくれていた。そして、芽衣(めい)さんからの祝電を聞いたところで、堪えきれなかった涙が頬を伝った。
◆ ◆ ◆
人ではないなにものかが、裏でこちらをにらみつけているような、そんな音が苦手だった。
中学二年生の、三学期を思い出す。少しずつ、自分が好きなこと、嫌いなことの判断をつけはじめていた時期。それでもまだ不安定な自分しか持っていないのだから、周りの目がとても気になっていた。
音楽の時間、クラシックを鑑賞してその感想を書く授業があった。そのとき聞いたブラームスの交響曲第一番が、東京での僕の中学生活を暗いものにした。
その曲を聞いて、猛烈に胸が苦しくなった。魔物に首を絞められているように息苦しく、静かに聞き入っているクラスメイトの前で苦痛にあえいだ。椅子に座っていたのが、まるで魔物に引きずられたように自分の体は床に投げ出された。がたがたと震える体を僕は力いっぱい抱きしめた。
どうか、命は取らないでください。
──実際そう口にしていたらしい。命は取らないでください。その一言がクラスの中で、学年の中で流行り、ふざけた調子で僕に向かって口にされた。一人が二人、二人が四人と、僕をからかう人は増えていき、学校の音楽の授業が嫌になり、学校が嫌いになった。
本人の口からききたいよなあ?
いずれそんなことを言いだす人が、現れるのではないか。当時、直接いじめを受けていたわけではないけれど、一度そう考えはじめてしまうと、クラスメイトも信じられなくなった。思春期特有の大人嫌いから、先生に相談するという考えもなかった。
結局中学校へは保健室登校──それも週三日、半日だけという状態になってしまった。体の調子が悪いことにしていたが、きっと本心はばれていた。その生活も続かず、学校の生徒と顔を合わせるのが恐ろしく苦手になっていた。週三日が二日になり、一日になり、ついに一週間家にこもりっぱなしとなった。
まもなく進級する時期に差し掛かっていた。
◆ ◆ ◆
四月初旬の長崎の陽は、僕にはうざったいくらいにうららかだった。長崎と聞いて勝手に、なだらかな浜に寄せる波の景色や、平行に開けた世界を思い描いていた。けれど引っ越してからの一か月間で、目線は垂直に山の稜線をなぞらされた。実際学校は住むところから山を一つのぼり下りしなければいけない。三十分も歩いて登校する日々は、相当にこたえそうだ。
父親の転勤。それに伴って僕も長崎に引っ越した。急なことで、母親は仕事の引継ぎで忙しく、五月ごろまでは父と子の二人暮らしだ。
春休み期間に一度、中学校を訪れた。担任となる先生に、転校生の紹介をするから自己紹介を考えておけ、と言われた。僕はそれが苦しくて仕方がなかった。
そうして何も考えつかないまま、僕はうんざりした気分だけを引き連れて、はじめて山道を登校し始めたのだった。僕に興味を持たない――誰も僕を知らない環境で、自分を主張していかなければならない。その自信がない。人前で、妙な行動を犯してしまった自分が恥ずかしかった。何をしでかすか、そして何をしたら周りに嫌われてしまうか、自分でも分からなかった。
学校に着いていよいよ教室に入り、おざなりな挨拶をして、席に着いた。波風を立てないおとなしい生徒であることが、最善策だと考えた。具体的に何を言ったかは忘れた。椅子の冷たさを尻に感じたことと、明日からまたここに来るのが心底嫌だったことしか覚えていない。
たくさんの教科書を抱えて家に帰った。肩に重石が乗っているようで、返って昼食も食べずに眠ると夜だった。
◆ ◆ ◆
それから一週間が過ぎた。学校に行く途中で、平野部に向かう道に折れる。街中を歩いていると、制服姿の僕をとがめるような視線が刺さってくる。東京にいたころも時々、こうして学校に行くふりをしてサボっていた。とくに周りから圧力を感じることはなかったけれど、地方に来ると、朝学校に向かわない生徒は目立つ。スーパーの小さなパン屋で、冷たい視線を送る店員からパンを買って、公園で食べる。そこはやけに広い公園で、大きく開けた広場から空を仰ぐと、空虚さを感じる程の青空だった。広場をにらみつけるように立った像が、両手で変なポーズを取っていた。
日差しは、僕には降り注がなくてもいい────
ヤケになっていた。一生日差しを浴びなくても済むように生きられたら、と考えていた。
「今日もサボってるの? なかなかやるねえ」
背後から聞こえたその女の人の声を、僕はよく知っていて、背筋が凍った。振り返ると、案の定、芽衣さんがいた。悪戯好きそうな笑いをこちらに向けている。いかにも口が軽そうな芽衣さんは、父にサボりを言いふらすだろう思うと恐ろしかった。
「今日もってことは、ずっと見てたんですか」
「まあねー」
「お願いだから、お父さんには言わないでください」
僕は真剣に頭を下げて言った。ちらりと顔をうかがうと、芽衣さんは案外優しげな表情で、
「言わないよ、つまんない学校なんてさぼっちゃえばいいんだって」
あたしも昔はよくサボってたし、飄々と言ってけらけら笑った。僕は、彼女が学校をつまんないと言う事情を知っていたので、軽い気持ちで笑えなかった。
「大体よくわかんなかったんだよね、勉強するとかさあ。学校が覚えてほしい価値観を、植え付けているだけなんじゃないのかなあ」
なっ、そう言う気持ちわかるだろう、少年。
肩をたたかれ、女の人に触られたことで少しどきりとした。芽衣さんと僕とは、六つも歳が違うのだと、じつは昨日知った。実際はもっと若く見える。
当時詳しくは知らなかったが、僕の父は文化財を守る仕事をしていた。芽衣さんの祖母であるとき子さんが、長崎では有名な講演家であり、父は仕事がらみでつながりがあった。とき子さんの孫娘の芽衣さんは偶然うちの隣のアパートに住んでいたのだ。
公園でパンを食べ終えたのち、どうしていいか分からず、ぼんやり座っていた。なぜか芽衣さんは、僕のもとから離れようとしない。仕事だってあるはずだ。
「大輝くん、暇そうだね。暇ならちょっと、付き合いなよ」
「学校に行かないと」
「行くつもりなんてないんでしょ?」
「……それはそうですけど」
確かに、暇ではある。ただ学校に行かないことで産まれた時間を暇と呼ぶことに、罪悪感があった。
「スクールって言葉。元は暇って意味なんだよ。詳しくは知らないし、おばあちゃんの受け売りなんだけど」
「だからサボろうがサボるまいが変わらないってことですか」
「そんなこと言ってないじゃん。そう感じたの? あはは、なかなか肝が据わってるねえ」
また、面白そうな笑い声。ようやく自分の頬も緩んできた。
「勉強で習うことも大事なんだけどね。特に、この街が昔受けた災難とか、知ってほしいって思う」
「それもとき子さんの受け売り?」
バレたか、と舌を出して見せる。僕はあたたかな気持ちになって、ここでようやく芽衣さんの用事に付き合おうと決心した。
「で、芽衣さんの用事は何なんですか」
「うーん、予行演習かな?」
「よくわかりません」
「理詰めで女の子とデートするようじゃモテないよ」
人差し指を頬の横で立てて、にやにやと笑っている。僕がパンの包みをごみ箱に捨てて戻ると、芽衣さんは予想に反して真剣な表情になっていた。
「行こっか。教科書には載ってない歴史が、長崎にはたくさんあるんだよ」
茶化すことはできなかった。それは芽衣さんの、心から伝えたいことのように思えたから。
二十分後、僕は芽衣さんが運転する車に揺られていた。見方によってはちょっとした誘拐事件なのかもしれないけど、僕自身、悪い気はしていなかった。芽衣さんの楽しそうな表情を見れば。
「あの像、なんであんな変なポーズなんですかね」
「あー、あれねえ。変なポーズだよね」
平和記念像について、芽衣さんは講釈を始めた。
水平に伸びた左手は、平和の象徴。空を差している右手は落ちてくる爆弾の危機を表すのだそうだ。僕は歴史の授業で、長崎に昔起こったことを習ったような気がするが、あまり鮮明な記憶でもない。事実、その実物を見ても、それほど感動するわけではなかった。
「……いいもん、そのうち魅力に気づくよ」
つまらなさそうに相槌を打っているのがバレたのか、運転席のほうを向くとふくれた横顔が見えた。
「ところで車出して、何してたんですか」
「さあねえ。案外、君と同じ理由かもよ」
芽衣さんはとり合わなかった。食い下がることもできたけど、聞かずとも、芽衣さんが車を乗り回している理由はわかる
一度学校を出たのち、定職にはついていないのだと、芽衣さんの母親から聞いていた。通っていた短大でも孤立し、何とか卒業はしたものの、就活には失敗してしまったという。
駐車場に車を止め、徒歩で観光名所を回ることにした。眼鏡橋は日本で初めての石造りアーチ式の橋梁だといい、それを歩いて渡るだけで息切れしてしまい芽衣さんに笑われた。出島ではおぼろげな歴史知識をからかわれたし、オランダ坂では先をぐんぐん進んでいく芽衣さんに体力のなさを茶化された。不平を言おうと何度も思ったが、芽衣さんは楽しそうにしていたので毒気を抜かれる。
時間はまもなく十二時だった。思ったより時間が経つのが早く、そして思った以上の楽しさが、胸に満ちていた。
「帰ろうか。今日はありがとね」
へとへとになった僕を乗せた車の中で芽衣さんが言った。感謝されることをした覚えがなくて、僕は動揺した。その後じわりじわりと胸が暖かくなった。人に感謝の言葉を述べられるのは、いつぶりだったか。
「なんか一日終わっちゃったね」
「ぼ、ぼくでよければ、もう少し遊びましょうか」
気づいたらそう言っていた。芽衣さんの表情に、少しずつ、陰が見え始めていたのだ。
「あたしともっと居てくれるの?」
そう言って笑う芽衣さんから陰りがなくなって、その心からの笑みに心がざわめいた。
「嬉しいな」
女性に慣れていない僕は甘い勘違いを起こして、勝手に胸を高鳴らせていた。
平和公園の近くの交差点で、僕らを乗せた車は大通りを路面電車と並走していた。僕が誘いの言葉にうなずきを返すと、駅から離れたほうに車は曲がった。平らな道を進んでいくと、ちょっとした丘の上に、洋風の建物が見えた。
そこで、甲高い金属の音が、僕の脳みそを突き抜けた。
「ちょうど十二時だね」
鐘の音の連打が、四度おこった。それぞれの間隔は狭く、脳内で次々と反響するかのよう――
今となっては、懐かしみすら覚える音だ。
けれど、当時は、四つの音が塊となり、人間でない何かとして自分に襲い掛かってくるように感じた。
けれど、それが不愉快であるそぶりは、芽衣さんの手前できなかった。
「天主堂、ちょっと寄ってく? 多分おばあちゃんもいるよ」
とき子さんと会ったことはなかった。講演会を精力的に開く八十歳超の元気なおばあさんだと聞いていて興味はあった。天主堂、と呼ばれる建物にも、一度行ってみたい。そう言いきかせ、不快な音を発する教会というイメージを掻き消そうと頑張った。
急な坂道に差し掛かる。丘の上にそびえる、レンガ造りの建物。例の、人間ではないものの感覚が、より澄んでいるように感じた。宗教のことはよく分からないが、それがキリスト教の建物だということぐらいは分かったし、永益(ながます)家が代々クリスチャンであることも知っていた。
「教会に入ったら、話したいことがあるんだ」
先に建物の前に降ろされて、芽衣さんは真剣な表情で言った。
「お母さんにも、おばあちゃんにも相談できないことなんだ」
芽衣さんに頼りにされているのだろうか。もう、僕は{慕}(した)われているも同然ではないか。悶々としながら、車を駐車しに行った彼女を待っていた。
――歓迎しよう。
建物の中から、そう聞こえた気がした。いったい誰の声なのか、それは今でもよく分からない。
入り口の戸を開いたそのとき──僕の視線は、礼拝堂の最奥に配置されたオルガンにくぎ付けになった。美しい内装にはまるで目がいかず、そこから流れる音──それが僕の心臓を食い荒らしに来ようとしていた。
ブラームスの、交響曲第一番。
僕が教会を飛び出していくとき、芽衣さんの驚いた目を一瞬見た。気が咎めるものの、そこから逃げたい気持ちのほうが圧倒的に勝っていた。話したいことがあっただろうに、彼女は僕を追いかけてこなかった。
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