第六話 綾野アリスと膝枕

ひどく高く上っていた烈日が、斜陽に変わったころ、早乙女は静かに夢を見ていた。随分と懐かしく、優しい母親の夢を。

 柔らかく包み込み慈愛に満ちた表情で彼女は早乙女の頭をなでる。彼は母親の顔をハッキリと覚えてはいない。けれども、無条件で自分に限りない愛情を注ぎこむその感覚は心の奥底で記録されている。


「あぁ……、母さん、俺は……」


 心地よく柔らかい感覚に包まれながら、早乙女は徐々に意識を取り戻していく。


「あのー、えっと、私は貴方の母親ではないんですけれども……。えーっと、もう大丈夫ですか?」


「え?」


 目を開けるとどこか銀色のきれいな髪を垂れ下げ、幼さの残る美しい顔が横たわる早乙女の顔を覗き込むんでいた。頭にはマシュマロの枕のように柔らかくてすべすべとした感覚がある。


「あの、大丈夫ですか? 体を起こせるようなら……えっと、起きてもらえませんか? そろそろ足がしびれてきたのですけれども」


 少女は少し照れながらも早乙女を気遣いながら言う。


「え!? あ、ごめん大丈夫」


 早乙女は慌てて体を起こす。そしてすぐに少女が倒れていた自分を介抱していてくれたことを理解した。そして同時にキョロキョロとあたりを見渡して、知り合いに見られていないことを確認した。

 体をくまなく見ると所々青く腫れているが、かすり傷にはちょこんと絆創膏が貼られている。

 

「これはキミが?」


「はい。腫れているところは少し冷やして、外傷の方は砂をしっかり払って応急ではありますが処置させて頂きました。すみません、本当はすぐに病院に行った方が良いのですが、事情が事情なだけにあまり公にしたくないので……」


 西に傾く太陽のせいか、少女は少し頬を赤く染めながら早乙女に謝る。


「それと本当にごめんなさい! 私の事情に見ず知らずの貴方を巻き込んでしまって」


「巻き込む? あぁそっか!」


 早乙女は少しあっとした表情であたりを見渡す。


「そういえばあの男たちはどうなったの!?」


「彼らには聞きたいことなどがたくさんあったので貴方がぶっ飛ばした後、気を失っていた彼らを私の仲間に引き渡しました」


「え!? ちょ、ちょっと待って! もう一度言ってくれない?」

「ですから、貴方が男をぶっ飛ばした後――」

「はい! そこでストップ! 誰が何をぶっ飛ばしたって?」

「え? 貴方が男をですけど……。もしかして覚えてないんですか?」

 少女は早乙女をはっきりと指差しながら答えた。


 んーと早乙女は少し考えるが、男を殴り飛ばした記憶が全くない。

「えっと少し整理するね? 男に突っ込んでいったのは覚えてる。けど、そこから男を殴った記憶なんてないんだけど……、それって間違いなく俺なの?」


「はい! それはもうこれでもかってくらい殴られてましたけど、最後の一撃は大人の男をかなり吹き飛ばすほどすごいものでした!」


 それを聞いても信じられないが、かすかに残る右手の痛みが確かにそれを証明している。


「それで。殴ったのは分かったけどどうして俺はここに倒れて、さらに女の子の膝枕なんてラッキースケベを体験してたわけ?」


「そんな! 私はただ貴方が少しでも楽になるようにと思って……それで。だから下心なんてまったくありませんから! 勘違いしないでください!」


 少女は顔を真っ赤にしながら頭をぶんぶんと横に振っている。


「貴方が急にアプリを起動したかと思うと別人のような動きで男を圧倒して、そのままぶっ飛ばした後急に倒れたものですから」


「え? 俺がアプリを起動したって?」


「はいそうです。けど、貴方アプリが使えないって嘘だったんですか? それにあんなアプリは見たことがありません。貴方は一体何者なんですか?」


「えっとそれは……」


「あと、私が落としたあれ、貴方バキッと折っちゃいましたよね? どうしてくれんです。 あれの中身私は見ていません! それにどうして貴方があれを開けれたんですか? 私でも開き方が分からなかったのに!」


「ちょっと待って待って」


「あと、貴方が男に銃を向けられた直後、貴方のスピードは人間の限界を超えていました。そんな現象を起こすアプリなんて絶対にありえないはずです! 貴方は何者で何を隠しているのです!?」


 それは好奇心そのものと言っても過言ではない。早乙女は浴びせられる言葉の弾丸に答えなければならないと思いつつも何も言えない。それは、彼女の興味の対象であるはずの自分自身のことがさっぱりわからないからである。そして早乙女はそもそもの疑問に至る。

「……ていうか、キミのほうこそ一体何者なんだ? 仲間だとか、公にしたくないだとか、怪しさ満点だよ」


 少女はハッとした顔で座り直す。

「自己紹介がまだでしたね。私は公安警察庁アプリケーション犯罪対策課技術開発部所属の綾野アリスと申します」


 そう言って彼女は服の中からすっと名刺を取り出し、早乙女に渡した。


「あ、どうも……、じゃなくて、え? 公安の人!? 随分と若く見えるんですね」


「歳は貴方とそう変わりませんよ? 今年で十五歳です」


「え、その若さで警察の人なの!?」


「ええまあ。でも主に私はアプリケーションの開発が仕事ですから技術さえあれば歳は問わないってのがうちの部の方針でして……」


「それにしてもすごいよ! アプリ開発なんて! それに悪と戦うってのはなんかかっこいい」

 アリスは少し照れた表情をしている。こうしてみると年端もいかない少女である。


「それで?」


「え?」


「いやですから、貴方は何者なんです?」


「俺はただの一介の高校生、早乙女遊。ただ落ちこぼれだけど……」


「そんな、ただの高校生にあんな動きが出来るはずありません。出力も桁違いに見えましたが……」


「ホントだよ。アプリケーションすらもインストールできない起動できないただのヒト」


 うーんと早乙女を見ながら頭を悩ませるアリス。なにやら早乙女をじろじろ見ながら何かブツブツ言っている。


「アプリを開発してそれを世間で運用するには私たち公安の許可がいるんです。許可がなく違法で有害だと認定されたアプリを使用した人は逮捕しなければならないのですが……」


 早乙女はギョッとした。このままでは自分は出会ったばかりのこの少女に連行され、頭の中をのぞかれさらし者になってしまう、そう考えた早乙女は焦った表情を見せる。


「まあそれはそうとしても、貴方のような人間に初めてです。少し研究に付き合ってもらえませんか?」


 はいキタと言わんばかりに早乙女の予想は的中した。


(このままじゃいろんな実験の材料になってしまう。無理無理!)


「いやあ、せっかくのお誘いだけど遠慮させてもらうよー。自分には荷が重すぎるっていうか価値がないというか……」


「そうですか。研究に付き合ってもらえるなら今日の貴方の違法なアプリの使用を見逃してもいいと思っていたのですが」


「え? なんだって?」


「ですから貴方の『違法』で『暴力的』なアプリの使用を見なかったことにしてあげると言ったのです」


(うげえ、これは困った、このままだとどっちにしろ警察のもとに行かなきゃならないじゃないか……。こういう時は古典的だけどこの子には、)

「あ! あそこに見たことないすごいものがー!」

「えっ!?」

 少女が好奇心で振り返った隙に早乙女中はここぞとばかりに走り去ってその場を後にした。



暗い顔をひっさげてとぼとぼと早乙女遊は歩く。長い長い坂道を登り切った先に早乙女の通う学校がある。

兎角学園。生徒の自主性を重んじるこの学校は、何か目標を立ててそれに取り組む生

徒を全力でバックアップし、さまざまな分野で活躍する人材を育成するという校風が売りで、そのせいか個性が激しい人間たちが集まる学校となっている。偏差値は中の上といったところだが学力よりも脳力重視のこの時代では偏差値を気にする学生は少ない。脳力判定だけで言うならば早乙女は『無脳』とされてしまうので、事実上、脳力判定試験がないこの学校以外に行く当てがなかったのだ。

 無言のまま坂をのぼり続ける早乙女は今、窮地に立たされている。というのも、昨日綾野アリスと名乗る少女のいざこざに巻き込まれ、逃げるように家に帰ったが、疲労のせいで食事をとることなくベッドへダイブし、そのまま朝を迎えてしまったからだ。そして朝、目が覚めた早乙女のもとに来たシータの「おはようございマスユウサマ。文化祭の準備は進みマシタカ?」という一言で自分の状況を理解した。


「殺される」


 朝起きて一言目に発した言葉がこれである。以前鈴鹿凛の忠告を無視して校舎裏でタバコを吸っていたいわゆる不良と呼ばれる生徒数人が泣きながら土下座させられているのを見たことがある。気が進まないが今日も学校へ行かないとなるといよいよ本当に死が待っていることは明白なので、必死に言い訳を考えながら女王様が待つ学校へ向かっている。


「よお! 遊! どうしたそんな暗い顔して」

 よばれた声に振り返ってみると、麦わら帽子に釣竿を持ち着崩した制服を着用した松原まつばら奏太朗そうたろうがいた。

「なんだよそう、そんな格好してどこへ行くつもりだよ」


「いやあ、昨日たまたまナンパした子がよ、『あたしぃ、海で生きる男って素敵だと思うんですぅ』なんていうもんだからちょっくら釣りの練習でもしようと思ってな? けど、この辺海ってないじゃん? どうすっかなーって……。でもすぐそこに小さい川があるだろ? そこでいいかなって思って出てきたんだが、凛が『今日こなかったらアンタが集めてたフィギア全部ゴミに出すから』なんて脅すからよ、仕方なく学校に来たってわけ」

「相変わらずいい加減な奴だなー。今お前の格好やばいぞ?」


「お前こそ、顔色悪いぞ? なんかあったのか?」


「いや、昨日ちょっとな……」

 

松原奏太朗とは入学してすぐ仲良くなった。いわゆる悪友というやつだ。早乙女は日ごろから彼とつるむことが多いが、一言でいうとこの男は女癖が悪い。かと言って女をとっかえひっかえしているわけではない。特定の相手を作らないフランクな性格なのだ。兎にも角にも悪い奴ではないことは確かであった。


「そういえばさ」


「なんだ?」


「文化祭って何するんだ?」


「オレも良く知らねっ。けど去年、この学校にナンパしに来たとき変わった出し物が多かったな。まあ一つ言えるのはこの学校の女子ってレベル高いってことかな」


「お前なあ……、去年からそんな事してたのか?」


「あたりめえよ! ガールハントはオレの生きがいだぜ? この学校にしたのもオレ様にハントされるのを待っている女の子たちがたくさんいたからだ」


「お前はぶれないなあ……」

 そうこうしているうちにⅠ‐Cと書かれた早乙女たちの教室にたどり着いた。

 

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脳力ゼロの敗北者ーちょっと世界がきびしいのだがー 樽田流太 @tarutaruta427

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