第五話 脳力

『夢幻』とははかないもののたとえとして使われる言葉ではあるが早乙女はその言葉の意味など知る由もなかった。彼は、前腕部の皮膚に映し出される表示を再度確認して『脳力』について思考をめぐらせる。これまでアプリケーションを使用したことがない彼だが、映し出される『脳力』という言葉がアプリケーションがもたらす効果のことを示しているのだと、瞬時に直感で理解はできた。しかし、その説明を読んでみても、何のことだかさっぱりわからない。所々の単語の意味は分かるが、具体的にどういう現象が起こるのか予想できない。


(必要脳力値は……たぶん使用条件かなにかだろうな。でも気になるのは拡張現実の再構築だな……一体なんのことなんだ……? ああっわっかんねー!!)


 考えたところで答えを得られるわけではない。早乙女は勢いに任せて、アプリケーションを起動することに決めた。そのまま、先ほどの黒髪の男がやっていたように表示されている画面を触ると視界に映っていた脳力表示が消えていく。


「何を起動したか知らないが無駄だ」


スーツの男の矛先は完全に早乙女に向いている。しかし、少女の体は依然として押さえつけられたまま、スーツの男はかなり頭に血が上っているようだ。


「ただのガキに何ができるんだ? 今すぐバラバラにしてやるよクソガキが!!」

 

 男は言葉通り早乙女の体をバラバラにするつもりで、少女を抑えつけていた足をどけて早乙女に近づいてくる。その歩みはゆっくりと確実に殺意を含んで詰められていく。


(やばい!やばい! どうする!?)

 放たれる殺気に早乙女は本能的に距離をとった。いくらアプリが発現したからといっていきなり実戦で使うのは難しい。そもそも、起動したはずなのに体にはなんの変化も感じられない。大人と子供の筋力差はもとより相手はアプリの効果で筋力を増強している。そんな相手に殴られれば骨は粉々にされるだろう。しかし、少女を助けるためには、まずこの男を倒さなければならない。そう思うと拳に自然と力が入る。


(そこまでして、手に入れたかったのか……。あれにどんな価値があるっていうんだよ)

 立花がこちらをギロリと睨んだ。そして一瞬にして間合いを詰めて早乙女に攻撃をしかける。早乙女は体を無理やり反らしてその手刀をギリギリのところで躱した。その威力は早乙女の着る白いワイシャツが僅かに拳に触れてしまいビリビリと破れてしまうほど。男の拳はまるで研がれた刃のように鋭利で、もしも直撃を食らえば四肢を切り落とすことは想像に難くない。


(少し掠っただけで……食らってしまったらおしまいだ……!)

「殺傷性の高いアプリは自動でロックがかかるんじゃねえーのかよっ!?」



 とりあえず走りまわる早乙女。しかし、どんなに距離をとっても一瞬で詰め寄られそのたびに繰り出される手刀を食らうか食らわないか紙一重のところで避けていく。小さな傷を積み重ね、なんとかしのぐ彼ではあるが、どんなにに逃げて躱そうともいずれは捕まってしまうだろう。そう思いながらひたすら体を動かし移動する。

 

「はははっ。無駄だ! ほらほら、どうした? もっと踊れるだろう……?」

 立花は高笑いしながら遊ぶように早乙女を追い詰めていく。繰り出される手刀は早乙女が避けられるギリギリのラインをわざとらしく保って、立花は動物と戯れるがごとく、早乙女をじわじわと痛めつけている。


(くそっ! これじゃいつか捕まっちまう)

 

 時間にして一分程度であったが、常に全力疾走の早乙女と余裕のある立花ではスタミの消耗に差が出るのは明らかで、ついに早乙女の足が止まる。

 

「お遊びは終わりだ……お前はここで死ぬ。恨むならその女に関わった自分を恨むといい」

 

 立花の手刀が早乙女の首めがけて一直線に振り下ろされた、その時だった――


「リフレクション!!」

 手刀は見えない壁にはじかれ、立花は右手を抑えて思わず数歩後ろに下がっていく。早乙女が振り向くとそこにはボロボロの体で右手を突き出す少女の姿があった。すでに立っているのもやっとで、少女は早乙女を必死に守ったようだ。そしてすぐさま早乙女に駆け寄り話しかける。

 

「貴方に持続性のある筋力増強効果を施しました! 私が時間を稼ぐのでその間に貴方は逃げてください!!」


「くそがっ! 逃がすと思うか!!!!」


 その時、勢いよく地を蹴る立花の足がよろめいた。彼の展開していたアプリの効果が切れたのだ。普通ならば、この隙をついて少女を連れて逃げるのが最適解であろう。逃げて助けを呼べばいいはずである。しかし早乙女遊はそうしなかった。あろうことか彼の足は自然に一歩前へ踏み出していた。彼はそのまま立花に拳を力強く握りしめて渾身の一撃をその顔面に食らわす。そのとき早乙女は自分の身に起きる不思議な現象を理解できなかった。


(なんだ……? 体が軽い?)


その違和感はすぐに確信に変わる。立花はすぐさま態勢を整えてカウンターを仕掛けてくるが、視界に映る彼の動きははっきりと見えるほど遅くなっていた。早乙女は人が変わったように立花の繰り出す攻撃を今度は完璧に避ける。動体視力が急によくなったことよりも体が自分の思うように動く感覚に彼は高揚していた。男の顔に余裕の表情はない。彼は真剣に早乙女に殴りかかっていた。


「なんでだ!? なんであたらねえー?」


 とうとう息を切らし始め、完全に立場は逆転してしまった。早乙女は足元に蹴りをくらわし薙ぎ払う。


「なにっ!」


 サイコロを転がすように簡単に体制を崩した立花は驚きを隠せないでいる。誰かに足をかけられて躓くことはあっても、大の男をひっくり返すような経験は早乙女にとって初めての事であった。


(いけるっ! いけるぞ俺!)


「立てよおっさん。俺はその何倍もらったと思ってんだ。こんな程度で倒れてもらっちゃ困るんだよ!」

 それに、と早乙女は一度言葉を切ってから叫ぶ。


「女の子を傷つけた罪はもっと重いぞ!」


「てめぇ。あんまり大人をなめんじゃねえよ!!」


 そう言いながら懐からは黒い銃が取り出された。早乙女は生まれて初めて拳銃を向けられたが、どういうわけかそれほど恐れを感じなかった。


「それを向けるってことがどういうことかわかってんのか?」


「ああ?」

 

「人を……。人の命を奪うってことだぞ! おっさんはそれをわかってんのかよ!? 誰かが誰かの命を奪うってことはあっさりと簡単にやっていいもんじゃねえよ」


 その直後、早乙女は動いた。男のもとにカツンと踏み込んで、うおおおおっと声を荒げながら腹めがけて思いっきり拳をたたきつけた。それは反応する間も与えない速さで行われ、立花はそのまま声を出すことなく空中を飛んで行った。

 少女は人が十メートル近く飛んでいく様を茫然と眺めている。

 ズサっと体が地面に落下し、そのまま動かない。完全にノックダウンしている。


(勝ったのか……?)


 早乙女は振り向き少女に笑顔を向けた。少女は体にいくつか傷が見られるものの、大きな怪我はない。

(ああよかった。これで……)

 早乙女はパタンとそのまま地面に倒れこみ意識を失った。


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