番外編:弟
イチが正式に国王の妻として迎えられる事が決まってすぐ。
オーナ伯爵令嬢は、国王の親書を携えて、自身の領内にある街道沿いの小さな宿屋に向かっていた。
子供の居ない老夫婦が営む小さな宿屋は、大した広さでもないし、特別美味いものが出るわけでもない。それでも、常連の行商人が多く、休みなく働く事が前提ではあったが、貧する事はなかった。
この宿屋に、老夫婦の孫のような少年が働き始めたのは、ようやく冬が終わろうかという頃だ。
すっかり春めいたこの頃では、もう近所の誰もが少年と挨拶を交わすほどに馴染んでいる。
「イチタ。姉さんから手紙が届いているよ」
老爺の呼びかけに、宿の裏で薪を運んでいた少年は笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
姉が惜しまずに支度金を渡した事もあるのだろうが、元々温和な質の老夫婦だ。姉と同じ群青の髪に紫の瞳で、美しい白い肌をしたイチタが、少女のように愛らしくニコニコとよく笑うこともあっただろう。養い手である二人は、彼をとても可愛がってくれていた。
「うんうん。急ぎじゃないしね、ゆっくり読むといいよ」
一時の預かり、とは言え、本当の孫のように可愛く思えるイチタに、老爺はそう言い置いて表へ戻っていった。
その後ろ姿にお辞儀をして、イチタは手紙の糊を剥がしにかかる。
一人目の女の子がイチで、弟は一人目の男だから、イチタ。安易な名付けの名前は、完全に姉とかぶっていたため、家族は皆彼をチタと呼んでいて、彼は自分の名前がイチタであるという事を、養い手に呼ばれるまで気付かずにいた。
そうして、イチタという呼び名に慣れ始め、それでいてチタという呼び名が恋しいこの頃、姉の手紙の書き出しに、チタ、と見つけて嬉しくなる。
『チタ
てならいは、じゅんちょうかい
このてがみが、ちゃんと、よめてるかい』
姉らしい書き出しに、思わずイチタは声を出す。
「よめてるよ」
『ねえさんは、げんきにやってるよ
チタも、げんきだろうね
きっとむかえにいくからね
あんしんして、まってるんだよ』
「うん」
『たんとかせいで
うんとてならいさせてやるからね
まっててね』
「…うん。まってるよ…ちゃんと、まってるよ」
イチタは姉の手紙を抱きしめて、しゃがみ込んだ。
「まってる…」
どんなに優しい養い手の元であっても、どうしても、姉への思慕は拭いようがなかった。
目元を赤くしたイチタが、薪運びを終え、表に何か手伝いがないかと向かった時。
「へ…?」
上がり框で揃って額づく老夫婦と、土間に立つ煌びやかな服の貴族を見た。
何があったのかは解らないものの、慌てて自分も老夫婦と同じようにしようとしたが、土間の貴族の方が口を開く方が早い。
「そう、畏まらないでくださいまし。わたくしは、こちらにいらっしゃるイチタさんにお会いしたく参りましただけですので」
(えっ!)
心底驚きながらも、顔を見合わせて困惑する老夫婦に迷惑をかけてはならない、とイチタは駆ける。
「イチタは、おらです!」
何かしでかしてしまったのか、思い当たる節は無かったが、老夫婦に迷惑はかけられない。叫んで飛び出したイチタは、老夫婦と同じように額づいた。
「わたくしが言葉足らずでしたわ。そのように畏まらずにどうぞお顔を上げてくださいな。ただ、イチタさんのお姉様の事でお話をするために参ったのです」
「ねえちゃんの?!」
驚いて顔を上げたイチタは、驚きに目を見開く少女と顔を合わせる。彼が初めて間近に見た貴族は、藤色の髪に淡い緑の目をしていた。
「よく似ている…」
感心したような呟きに、目の前の少女が姉と面識が有るのだと知れて、イチタは思わず笑みを浮かべる。
「ねえちゃんはげんきですか?!」
「え? ええ。お健やかでいらっしゃるわよ」
イチタはその言い回しに気が付かなかった。
だが、老夫婦は、何故イチが弟を預けて行ったのか知っているため、驚きに目を見開きながらその意味を理解した。
「わたくしは、貴方のお迎えに参りましたの」
「?」
小首を傾げるイチタが、老夫婦に教えられ、オーナ伯爵令嬢の手配りで王城へやって来たのは、二十日ほど後の事だった。
今まで古着しか着た事のなかったイチタは、新しい綿の着物を着ているだけでもそわそわと落ち着かない思いだ。
だが、今は更に落ち着かない思いが膨れ上がっている。
初めて来た城の中で、部屋の中に一人待たされているせいだ。
(ほんとに、こんなとこにねえちゃん、おるんかな…?)
揃えた膝の上でぎゅっと拳を握ったイチタは、入って来たのとは反対の扉が開く音に、ぱっと顔を向けた。
「ねえちゃん!」
「………ごめんなさいね。貴方のお姉様にはこれから会えるから」
きっとそうだと決めつけて叫んだが、扉の向こうに座っていたのは、赤茶の髪をした貴族だった。
「私は、アニ・カント・フィフィールズと言うの。今は、イチ様のお側でお話相手のような事をしているの」
「ねえちゃん…ほんとにここに、おるの、です?」
「いらっしゃいますよ」
アニはイチタへ微笑みかけると、近付いて手に持っていた包みを床に置く。
「少し、面倒に思うかもしれないけれど。この着物に着替える必要があるの。もうすぐ会えるから、もう少しだけ、辛抱できる?」
姉に似た年頃のアニに問いかけられれば、イチタはしぜんと素直に聞こうという思いと、強がりが頭をもたげる。
「はい」
コクリと頷くイチタの着替えを済ませ、アニは彼を先導して後宮を歩く。先導、といっても不安そうなイチタがアニの手を握ってきたので、手をとってほぼ真横を歩いているのだが。
(イチさんが可愛いという理由が解った気がするわね…この子は可愛い)
イチに似た容姿の可愛さも勿論あるが、相手を見てそっと手を伸ばす様な、控えめな甘え方をする。そしてその仕草に、あざとさや媚びのようなものが見え無い。
(私も弟が居たらこんなに可愛かったのかしら)
そう考えて、姉に似た弟と自分に似た弟が思い浮かぶ。脳裏に浮かんだ二人の弟の内、自分に似てしまった弟の顔に残念と張り付けて、くだらない妄想は止めにした。
「この部屋で、お会いできますよ」
「ここ?」
「ええ」
部屋の戸を全て開けてある、明るい部屋に案内し、用意されている席へイチタを促す。
アニがイチタに会いに行った時点で到着の連絡は向かっているはずだ。おそらくさほど間を空けずにイチは顔を出すだろう。
きょろきょろと室内を見回していたイチタが、ちょうど傍らのアニを見上げた時。廊下から、人の歩く音が聞こえた。
ほどなく、イチはその姿を現す。鮮やかな空色の打掛は、季節の花が散りばめられ、長く廊下に延びていた。
「チタ!」
イチタはその姿に、すぐには姉だと飲み込めない。貴族であるアニよりも、美しく華やかな衣装を身に纏ったイチは、庭の明るい光を背に、輝くようだった。
「わぁ…ねえちゃん、おひいさまみたいだぁ」
見た事もない華やかな打掛姿のイチを見上げて、イチタは、ほうっと溜息を吐く。
「そう?」
弟の素直な褒め言葉に、イチは頬を染めて照れた。
「チタも、よく似合ってるよ」
側に寄って、座っていたのを立たせ、イチはしげしげとその全身を見る。
アニが整えてくれたのだろう。髪も解れなくしっかりと結い上げられ、草臥れたところの無い袴姿は、年よりもイチタを大人びて見せる。その姿には、きちんとした手習いをさせて官吏になれたなら、そんな夢のような未来が本当になるような喜びが、重なった。
「そうかなぁ?」
一方の着慣れぬイチタは、自分の姿を見下ろして首を傾げてしまう。
「?」
そうだよ、と頷く姉に笑みを返していたイチタは、姉が現れたのと同じ場所に、見知らぬ貴族の青年が立っている事に気付いた。姉の美しい衣装に使われている、金糸と銀糸の混ざったような髪にアニに似た金色の目。
イチタは、思わずアニの方を振り向いた。彼女の近親者だと思ったのだ。
「貴方のお姉様のご夫君ですよ」
アニの言葉を聞いて、イチタは姉の袖をぎゅっと握り締めた。
「チタ?」
「やだ…」
「ん?」
「もうはなれんのやだ…」
呻くようなイチタの言葉に、イチは驚いて思わずヨシマサを振り返る。
イチタは袖を掴んでいた手を放すと、ヨシマサとイチの間に入り、両手を広げて背に姉を隠した。
「ねえちゃんとんないで!」
想定外のイチタの行動に、アニとイチは一瞬動きを止めたが、ヨシマサはすっと動く。
「とるなというのは難しいが」
片膝を着くとイチタの頭に片手を乗せ、そう言った。
自分のしている事が怒られるかも知れない事だと何となく解っていたイチタは、俯いてぎゅっと瞼を瞑っていたのだが、その手に気付いてそっと瞼を開ける。
金の目が、真っ直ぐに自分の目と合った。
「お前もこれからここに住むのだから、離れはすまい」
「?」
言葉の意味が分からず小首を傾げるイチタに、ヨシマサは楽しげな笑みを浮かべた。
「イチが俺の妻になるのだから、お前は俺の義弟だ」
ヨシマサの言葉に、イチは頬を染めて照れている。
アニは、怒鳴りつけたらどうしようかとわずかに思っていたのでそっと胸を撫で下ろした。
一方、知っているものと思いこんでいたため誰もイチが国王に嫁ぐ事になったのだと教えてくれていなかったために、事態を上手く理解できていないイチタは、ぽかんと口を開けてヨシマサを見上げている。
「おとうと?」
「そうだ」
「おらの、にいちゃん?」
あまり耳に馴染まない呼びかけ方に、ヨシマサは少しむず痒いような顔をしたが、
「そうだ」
と、すぐにまた頷いた。
兄、という存在に密かに憧れを持っていたイチタは、先ほどの沈んだ顔をぱっと晴れやかなものに変える。
「にいちゃん!」
「チタッ!」
ヨシマサの手にとびついた弟を、窘めようとイチは慌てた。
「気にするな」
だが、ヨシマサは気にした様子もなくそう言って、イチタの頭を撫でる。
その後。兄が出来た事を喜ぶイチタに、事情が解っていないと察したイチが説明をして、実感はまだまだだろうがヨシマサが国王だという事をいちおう理解できた。
兄に遊んでもらいたいが、国王に無礼な事をしてはいけない、とおずおずしながらも懐くイチタをヨシマサも快く迎え入れる。
「弟など可愛い訳がないと思っていたが、存外可愛いものだな」
イチとイチタが庭で戯れるのを見て、しみじみと呟いたヨシマサに、アニは頷いたものか悩みつつ返す。
「イチタさんはそもそも子供として可愛らしい部類だと思いますよ」
「なるほどな」
自分の姿を見つけて揃って手を振る二人に手を振り返し、ヨシマサは庭へ下りる。
明るい日中で笑う二人の姿は、彼にとって未来を覗くようで、内側を温かなものが満たすように思えた。
アニに任せていいのだろうか nionea @nionea
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