番外編:アニは両利き

 ある日の手習い処でのことだ。


「せんせぇあたしムリだよ。ぜんっぜんキレイに書けないぃ…」


 机を避けて床にばたりと倒れ込みながら、ノリは呻いた。

 ノリが書いた字を見下ろしながらアニは呟く。


「ノリさんは、このまま後宮に残って妻となる道を望みますか?」

「えぇ! いやぁ…そりゃ、あたしも、ここに来た時はもしかしてなんて思ったりもしましたけどぉ。せんせぇ達みてたら解るよぉ…きびしいなぁって。だから、できれば読み書き算盤身につけて、行儀作法もできますよって触れ込みでどっかの商家に入れたらなって考えてます!」


 机の上から身を起こし、姿勢を正して笑顔を浮かべ、ノリは言い切った。

 その素直な顔を見つめてから、アニはこくりと一度頷く。


「でしたら、左手を使って書いていただいて構いませんよ」

「え? 良いんですか!」

「貴族の礼儀作法は様式を整えるために全て右利き仕様ですが。商家で身を立てるのでしたら、こだわる必要はありませんから」

「え! じゃあ左で持っても良いんですか?!」


 ノリではなく、その隣に居たコシノという少女が叫んだ。


「ええ、コシノさんもゆくゆくは商家に?」

「そのつもりです! あ、まぁその、商家のお嫁さんになれれば、それが一番ですけど。えへへ」

「そうですか」


 微笑むアニの後から、どこかのんびりとしたレンの声がする。


「子供の頃からやらないと、利き手を変えるのは難しいからねぇ…もしかして他にも左利きの子は居るのかな? 右より左の方が器用だって子は、手を挙げてくれる?」


 ノリとコシノの他にハーリィの手が上がる。


「えぇ! ハーちゃん左利きなのけ?」


 ハーリィの横でチグサが驚きの声を上げた。彼女が驚いたのは、自分が右手で懸命に書いた文字よりもハーリィの方が上手いからだ。


「じゃあ、左手で文字を書いたらもっとキレイに書けるのけ?」

「うーん…変わらないと思う」

「そうだね、右でこれだけ書けてたら、左でも同じくらいじゃないかな」


 ハーリィの呟きに、手元を覗き込んだレンも同意する。


「そうなんだぁ…他には、左のが得意な事って何?」

「え、そうだなぁ、お箸とか、刃物とか、左の方が得意だよ。あ、でも、はさみは上手くないかも」

「はさみ?」

「それは鋏が右利き用なんじゃないかな?」

「はさみに右左があるんですか?」

「有るよ。良かったら、これ、試してご覧」


 レンは自身の腰にぶら下がっている道具袋から、紙切の鋏を取り出してハーリィに渡した。彼女の道具類は全て左利き仕様になっているのだ。


「わっ…すごい、左手なのにすぱすぱ切れます!」

「へぇ、はさみって奥が深いんだぁ」

「それ、私もお借りしてもよろしいかしら?」

「勿論ですけど…お嬢様も左利きなのですか?」

「ええ。幼い頃から慣らしましたから、大概の事は右で出来ますけど。左手用の鋏には触った事がないので、興味が有って」

「まぁ、普通右に矯正しますし、左用の道具は身近ではないですよね」


 ハーリィから返された鋏をアニに渡しながら、レンは笑った。

 受け取ったアニも同意して頷く。折角なので、五つ折りの紙を紋切り型の梅の下絵を書いて切ってみた。

 広げると、線の太さも揃った梅の花が咲く。


「お上手ですね」

「鋏が良いのです。左利き用がこんなに使い易いとは思いませんでした」

「刃物類は両刃にしていないとどうしても向きが出ますから」


 アニとレンは道具談義を始めたが、周りの娘達はそれよりもアニが切り出した梅の花に夢中だ。


「先生!」

「これ、どうやったの?」

「すごいすごい!」


 その後。一時的な紋切りブームが到来し、アニは記憶していた二十八の型を披露する事となり、大いに株が上がった。あまり、貴族らしさという点では良い事ではなかったが。

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