青は藍より青かった。

天霧朱雀

糸冬


 携帯電話スマートフォンを見やり後悔する。厳冬の季節だった。

 電車の窓は湿度で結露する。いつ死んでやるものかと考え込みながら濡れた窓へと頬を寄せる。片手に揺れることも、光ることもない携帯電話鉄くずは今日も誰からも連絡など来ない。帰路に感じる生暖かい湿度を肺いっぱいにためて、呼気を吐き出す。友達などいないのだ。彼氏などもいないのだ。喪服のようなコートを着込んでいる。アンゴラウサギの毛長では、東北の冷たい空気は勝てやしない。チロチロとくぐもった窓の先に明滅する明かり。住宅地。そろそろ日が暮れんとする夕方。人間の吐いた二酸化炭素で息が詰まる。濃度が高い暖気が嬲る帰り道、ガタゴトン、と車両が揺れる。次の駅、次の駅。私の駅は終点が最寄り駅。人生の終点はどこかしら、なんて。

 憂鬱だった。今日も会社でミスをする。請求書の金額が一桁ミスる些末な出来。私の程度など知れている。課長はこっぴどく怒った、始末書の判子をもらうため部長と話すとため息をつかれた。部署では私をつるし上げ、一週間は飽きないネタとなる。直らなかった寝ぐせや、剥げかけたネイルや、色は間違っていないのに長さがちぐはぐな靴下とか。逆にそれぐらいしか特筆できないぐらいがちょうどいいかもしれない。過去の行いを恥じる出来事は持っていない。私の青春には、盗んだバイクで走りだしたり、校舎へ毛糸を巻いて燃やしたり、鉄パイプで不良を殴り飛ばしたりしたことは一度だってない。不真面目だったわけではないが、天賦の才能を持った優等生ともいいがたい。委員会だってくじ引きであまった環境美化委員。そんなのが専門学校へ通って内定もらって就職して早三年。友達なんていなかった。彼氏なんてもいなかった。家族は簡素な核家族。母と父は家庭内別居。居間で寝食する犬が支える団らんみたいなもんだった。

 一体私はどこで間違ったんだろう。生まれたときから間違っていたといわれれば、きっとそれまでなんでしょうが、私だって好きで間違えてきたわけじゃない。国語の文章問題や、数学の解の公式や、受験の時事問題で出た九十代目内閣総理大臣とか。好きで間違えたわけではない。私は確かに「正解」したかった。テストはわかりやすく「不正解」を提示する。人間社会は「空気」を読むと「正誤」がわかる仕様みたい。私は携帯電話鉄くずの画面をなでる。スライドしたら、明かりがペカッとつくけれど、時刻を眺めて静かに画面は暗転した。液晶画面の冷たさが、私の体温を吸って温まった車窓よりも冷たくて。

 こんなものにすがる社会。こんなものに期待している私。同じぐらいくだらない。頑張ってこなかった代償として支払う対価であるならば、明日からはいいことの一つくらいあるのだろうか。割に合わない感情を抱えている。私はまだ世界に期待しているようだった。

――、助けて先生。

 先生なんて私のイマジナリー。好きな物理学者からとった名前の先生で、私に都合がよかったことなど一度もない。ただその顔がタイプで好きだっただけに過ぎない、欲にまみれた汚い気持ち。

 いい年こいて幻覚を見ていた。妄想の中でなら幸せにだってなりたいさ。

〝よくできました〟

って頭をなでてほしい。弱い私の首の皮、一枚。括る勇気がないから頼る脳内麻薬。火照る頬を窓ガラスで冷やす。滑稽な女。どこまでも乙女。どうしようもない私。

 救われてみたかった。救われる努力などしてこなかった。当然の報いだというだろうか。それこそ、先生だったら〝ラプラスの悪魔でも因果応報とアンサー、解で間違いない〟とでもいうだろうか。教えて先生、難しい言葉はわからないよ。実に面白い理由、教えて先生。

「ねぇ、先生、教えてよ」

 私は想像力のすべてを持って脳内投影するが、返事をしたのは携帯電話スマートフォン

「検索アプリを起動します。先生とは、学問や技術・芸能を教える人、教師――」

 無感情な電子音。今じゃ歌姫やっていたりするのと同じタイプらしいとか。エレクトロニクス、無感情は無感動? 知らないよ、私は電子機器に詳しくないの。無知だから。

「そうじゃないよ、バカ」

 全然オッケーじゃないアプリ。叩き割れたらよかったのに。ローンで支払う八万円の携帯電話鉄くず。はらりと雫が零れ落ちる。鏡のように反射する黒へ、ぽたりと落下。ぺしょりと一センチの水たまり。生活防水の範囲、涙一粒くらい。私は車窓を眺める。次の停車駅は、終点。盛岡。盛岡と。


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